日常
『東海道四谷怪談』という不思議な演劇は、実のところ、たった一人のわがまま娘の言動が平気で貧しい浪人の一家を破綻させてしまうという、”怪談”となる以前の発端部分にすべての薄気味の悪さを結集させているといっても過言ではない。孫への愛情に目がくらんだ老人は「悪い心が出た故」と平気で反省し、しかしそう言っている間にも毒を盛られた女の顔は崩れて行くし、そう言って反省した老人も、しかしそうなって行くことを一向に悔いる様子もない。事態が「もうしょうがないな」というところに行くまで、すべての"善人”達は、平気でおし黙っているだけなのだ。おし黙って、そして自分達の要求が通って行くことを待っている。心理的な脈絡を欠いたまま事態の推移を伺っているだけの人間なんていうものがいるのかといったら、ここに立派に存在する。"ここに"というよりも、**ここから延々と存在を主張し続ける**。つまり、”大衆”というものはそういうものなのだ。外形の”らしさ”という肉体性を十分に備えた”乳母おまき”という女性に”心理"というものがまったく存在しないという虚偽は、実のところ虚偽ではなく、大衆であることの真実そのものなのだ。 "日常"はそういう”彼女”が"生きた段取り"として舞台を通り抜けることを容認する。何故ならば、”日常”も又、彼女と同じような"善"だからである。江戸にフランス革命を!橋本治pp.91, 2