怪物
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「パフェと肴」でも言ったんですけど、『怪物』が否定的に見られる理由って、本当は「あまりにも人間から真理が遠くなってしまってる」点だと思います。「あなたが正義と思ってること、実は一面に過ぎないんですよ」と言われたら、SNSで他人の発言なんて非難批判できなくなる。その相対化に「クィア」が使われてるかのような結構になってるのが良くないのだと思う。 特に当事者の感覚は大事にしたいけれど、結局「いい」という当事者もいれば「悪い」という当事者もいるのだから、当事者がこう言ってるというロジックは危険で、そうなると結局「正しいか」「筋が通ってるか」どうかって話になる。でも、人間、みんなが筋通る話ができるわけでは必ずしもない。上手く言語化できてないとしても、最大限その「心」は拾えるように解釈していくべきだと思う。 批判するななんてまったく思わないんだけど、批判するならきちんと「中身」を構造として批判すべき。『怪物』のテーマはある種のマイクロアグレッションでしょう。もちろんクィアやLGBTをお話の単なる道具として使ってたのなら批判されるべきだけど、このテーマで作品つくって、クィア関連に触れなかったり、触れても言い訳程度の軽いこすりならそれこそむしろ大問題で批判されるべきものになってしまう。田中裕子演じる校長先生の「普通」「幸せ」の話など聞いても、作品からだけ見れば、私には十分誠実に制作してると思える。 『怪物』。あの作品の弱点は「相対化しすぎて結局何が正しいかを言うのがまるで悪みたい、っていう正義を監督だけが握ってるのはなんか変じゃないか」ってとこに尽きる。でも、作品内でマイノリティに振るわれる暴力を「仕方ない」で肯定してるようにはどうしても読めないんですよね。そこがそう「読める」だと「過度な相対化」と言えると思うんだけど。 あと、『怪物』のあれを「藪の中」形式と言うのはやめない?藪の中って三人が三人、証言が食い違う小説じゃなかったっけ。全員、殺された本人までもが「殺したのは私!」と言う小説でしょ。『怪物』は「事実」に相違は基本ない。だけれども見え方に違いがあって【そこ】がポイントなのに、そのポイントを消すような表現はあまりフィットしてないと思う。 「ひどいシーンばかりでエンパワメントが全然ない」と言ってる人もいた。エンパワメント成分を必ずどの作品にも入れるべきだとは思わないのだが、そもそも『怪物』を見て、辛いシーンが多々あることは否定しないが、エンパワメントになるシーン、幾つもあったと思うんだけど、違う映画見てる? まさにこの映画自体がこの映画のテーマのような現象を惹き起こしてしまっている。 そもそも証言事実が食い違うって話と、それぞれの証言事実だけで構成した「真実」が食い違うって話は全然違う話ですよ。前者が芥川の『藪の中』で後者が『怪物』。 見えてる世界なんてぜんぶ違うんですよー、だから事実も真実もなんもわかんないんですーって話と、「たった一つの視点だけでは見えない真実がある」って話はまったく別で。『怪物』はどちらかというと後者じゃ無いですか。 それこそ「ネタバレ」になってしまうから具体的には書けないけど、『怪物』、作中でクィアの関係性を複数の当事者に肯定させているので、単なる相対化、どこの視点も正しくないよね?とは全然違うんだよね。もちろん他に瑕疵はあるかもしれないし、ガンガン批判はなされるべきだけど、こうした論点もろくに拾われてなくて、刺すがに粗雑にすぎると思う。 カンミさん @pantabekanmi とのポッドキャストでカンミさんが「是枝裕和はどこか神視点」と言っていて、それでずっと考えてたんだけど、確かにこれ「人にはそれぞれ事情がある」「見え方が違う」みたいな相対化のように一見取れるけど、どちらかというと「それらをすべて見ることができて編集もできて、なおかつ視聴者をミスリードして、真実を明かすこともできる万能の神、兼、魔術師」が是枝になってるんだよね。実は相対化の真逆。 「真実なんてわかんないよね」じゃなくて「これくらいの視点ないとわかんないよね。あ、これくらいっていうのはオレくらいの視点ね?」になってる。是枝監督は『誰もしらない』だけ見たことあるんだけど、あれも当時見て「誰も知らないことをお前=監督は知ってるってことね」と引っかかった覚えがある。相対化じゃなくて「絶対視点」が引っかかるという見方もできる。
でも、ここが是枝裕和のデリカシーであり、脚本の良さでもあるんだけど、実は神視点の是枝の、その画面の中に映ってないものが『怪物』にはたくさん映ってるんだよね。ネタバレになっちゃうから言えないけど「画面のそと」をきちんと映画の中につくってる。これは監督の非常に優れた倫理だと思う。批判するにしても賛同するにしても、こういうポイントはきちんと拾わないといけないのではないか。
「画面に映ってないものが映ってる」にどれくらい気づけるか。実は坂元裕二は「そういうこと」をする脚本家でもあったりする。『カルテット』では「確認しないで勝手に決めつける」ことの例として「唐揚げにレモンをかける」を出していて、作中、様々な「勝手な思い込み決めつけ」を批判していたんだけど、一つ、ツッコミが入らない「決めつけ」があって、それが宮藤官九郎の松たかこへのプロポーズなんだよね。「結婚したらマキマキになっちゃうか」(まきさんという名の女性にマキという姓の男性がプロポーズ)みたいなことを言う。これにツッコミ入らないままスルーするんだけど、絶対わざとなんだよ。そういう「いじわる」を坂本はする。 「ぜんぶわかった気になってる」無邪気な視聴者の死角を「画面の中に映さずに」映すというか、ボケっぱなしにするというか。『怪物』は、だからコメントの仕方によって「お前がどこまで見えているのか」という、こちらの死角がバレてしまう作品でもあり、だから中身へのコメントが非常に「難しい」。この作品を評論する側としては「ネタバレ配慮」と言い訳して自分を守ることもできるわけだが。
まあ、でも、この作品を褒めたら「差別」なんでしょ。そういう断定こそ問題視してる作品なんだけど。となると今度は絶賛なのかってそういうことじゃなくて。違和感持ったり、強く拒否したくなったりする感覚は間違ってないと思うし「何か」あるんだと思う。でも、それがその正体が既存のわかりやすい特定の概念やフレームワークではないかもしれないし、明らかになるまで時間がかかったり「待つ」必要があるかもしれない。中立だの傍観は違うけれど、すぐにライトオアロング?ってすればいいわけではないし、その二つは違うことだよね。
少なくない当事者が「なんだか上手く言えないけど気持ち悪いぞ。辛い」というのはまずあるわけですよね。それは当然否定しないし、「なぜそうなんだろう」はとても気になるのですが、特にクリティカルな問題であるほど、上手く言語化できないことだってある。
でも、SNSだとすぐに言え、今言えと催促される感じがあるし、なんとなく投稿とできてしまう。で、怪物のテーマはハッキリいって、どちらかといえばLGBT Qではなく「SNS」なんですよね。
「SNS」に代表されるような、他人のことを悪と断じてしまうことの暴力性がテーマで、その「勝手な断定」で傷つけられる一番中心の例がクィアでしょう、という構成になってるんですよね。
これに対し、ろくろく映画に言及せずに、中身も構造も言語化せずに、特定のフレームになんとか適当におさめて「批判」をしたら、むしろ監督脚本が描くような問題構造がまさに問題だと肯定しているようなものだという、ややこしい構図になってるんですよ。
「LGBTQをダシに使ってる!」でも、マイクロアグレッションや勝手に社会のデフォルトを無反省に押し付けてくることの問題がテーマの映画でLGBTQを取り上げなかったら「存在が無視された」「ないことにされた」と言われるし、軽く/そっと取り上げたらそれこそ「一つのネタとして扱われた」と言われるだろうし、なので主軸の物語の一つとして取り上げたら今回のような流れになっているので、一体どうしろと......となる。
ポッドキャストでも話したのですが「ネタバレ」も何も冒頭5分か10分、まだ森がトイレに行きたいとも思わない頃に、主人公ミナトのお母さんからミナトが結婚して子どももって幸せな家庭を築くまではお母さん責任持って育てるって、そうお父さんと約束したんだー(クィアに対するマイクロアグレッション有り。閲覧注意)という発言があり、言われた直後にミナトくんが車から飛び降りてるんですよね。
この時点で「カンのいい」というか、「おいおいおい、その発言はおかしいだろ」と思う人は思う、というか、みんな思わないの??ってなりましたからね。ぼくは特に今回事前情報なくても、もうその時点で「そういう可能性」を常においたまま視聴続けてたと思います。
当事者が見たらフラッシュバックするようなシーンが多々ある、コンテンツウォーニングするべきとも言われていましたが、正直、自分が見たら、他の作品と比べてそこまで過激な描写があるとは感じなかった。自分もいじめの被害経験者ですし、だからCW入れることには賛成なんだけど、だとしたら今の映画って、基本、殺人、レイプ、差別、いじめの連発でストーリー作ってるので、全部の属性に対してそれ入れてかないといけないし、入れてったほうがいいんじゃないかと思います。 (編集済)
エゴイストというゲイの映画は、主人公のパートナーが死亡するという設定らしくて、それ、大丈夫か?と思ったのだけど、それは概ね界隈から評判は良好......これだって文句つけようと思えば全然つけられるわけですよ。そのコミュニティからの受け入れの差は何なん?って思います。
「当事者」の感覚はとても大事にしたい反面、その「当事者」というのが一枚岩ではない、ということがLGBTQ的レインボー的価値観が大事にしていることでもあるので、当事者の一部もしくは多数が「納得がいかない」と言ってるだけで、それを「たしかに」と理由もわからず、腑に落としもせずに受け入れてるだけでは、むしろ誰かの足を踏むんですよ。
なので「きちんと落ち着いて理解していきたい」のに、現実にはラベル貼って「これは認めないの方向な!そうだろ、みんな!」ってやってるようにしか見えなくて、それは大問題だろうと思ってます。
実際、小さい子どものセクシャリティを「ゆれうごくアイデンティティ」「名前のつけられない関係」みたいに言うと批判をバンバン食らうわけ。同性にひかれてる人を「ゆれうごく」としてしまうと、同性愛なんていっときの気の迷い、成長期の通過儀礼.....みたいに言われて軽視蔑視されてきた経緯があるので問題にするのもわかるのですが、でも、他方でセクシャリティなんて「ゆれうごく」し、「本来名前がつけられないことだってある」ことは事実なわけで。下手をするとバイセクシャル差別にもなりかねない。
びっくりしたのは『怪物』を見て「当事者をエンパワメントする要素が何もない」とか言ってた人が結構見えたこと。自分と見えてるものがまったく違いすぎて、本当に同じ映画を見てたの?疲れて寝てた?と思わざるをえなかった。
①当事者同士のパートナー関係自体にエンパワメント要素があるし、②周囲の人からの社会的承認があるかって面もエンパワメントです。まず、①については当然あるし、②についても、途中でミナトに暴力を振るったとされる「堀先生」」が嵐の中、麦野!!麦野は何も間違ってないんだ!!麦野は間違ってない!!と叫ぶシーンがあるし、校長先生がみんなに手に入らない幸せなんて幸せじゃないですよ(明確にこれは同性婚などを指している)とまでいっている。星野くんと麦野くんが一緒に虹を見るシーンもあるし、ラストは二人の喜びのシーンです。 (編集済)
ドラマの展開をつくるためだけにクィアを「ネタ」にして、ところが他の人物や状況を通じて、そこに対して肯定のメッセージを送らないのであれば「相対化して傍観してんのはどこの脚本家と監督だよ?」って攻撃もできるんだけど、少なくとも坂元裕二は同性愛は間違ってないし、同性婚だって認められるべきだと全国上映の映画できっちり明言しているに等しく、少なくとも「そこ」には明確にコミットしており、相対化を許していない。
これだけの緻密な脚本、見事な編集をした作品を前に、上記のようなポイントに触れすらしないで、まるで「ほめたら差別」「貶さないと差別」みたいな雑なやり方で「批判」するほうがおかしいし、そんなのどうせ誰かの足をまた別の形で踏んで気づかないだけだよって思います。
ところがこの映画を肯定する方も肯定するほうで、「名付けえぬ関係性が美しい」だの「我々は他人を傷つけていないか、問いかけられている」のようなこれまたもっと雑な肯定評ばっかで頭が痛い。全員バッカじゃないの?って思ってます。
すっごくやらしい話だけど、自分は穿ったものの見方を人間全般に対してする人間なので、そういうことも考えるんだけど、この映画、撮影するにあたって、誰か当事者に何かを発注したんでしょうか?
「当事者に何の仕事も発生しない当事者表象」って、そら警戒したり否定されても仕方ないんじゃないかと思うんですよね。穿った見方かもしれないけれど、自分はここも問題だと思うし、結構影響としてデカいんじゃないかなと思っています。
......と、結構考えること山積みの映画ですよ。だから否定している当事者は「間違ってる」じゃなくて。時間かけて熱量かけてでいいからきちんとした批判、言語化をしていって、大事な論点として財産にしていくのが誠実なあり方だと思います。どうせSNSの狂騒なんて数週間ももたない。で、忘れた頃に「是枝は差別監督だからダメ」とかラベルはるんでしょ。そういうのがくだらないって思います。
世界を、単純化してるやつって、誰やねん。
他の人のレビュー
私は、第3章を伏せることがどうしてもクィア性を隠すことにつながってしまうと捉えました。発信側の意図がどうであれ、そうした広報のあり方が「クィアは伏せておくべきもの」だと社会に対してメッセージを伝えてしまえば、それは差別になる。これは差別の構造と類型の話なので、意図は関係なく結果的に対象が不利益を被ってしまうなら、やはり問題があるのではないかと。(児玉美月)
マジョリティーの側にいる人間がマイノリティーの題材を扱う時のスタンスとして、僕は彼らの側に立ちますという宣言がイコール唯一の誠実な態度だとは思えない。でも、マイノリティーの方たちは一番観てほしいと思っている人たちでもあるのに、その彼らに「自分たちの映画ではない」と思われてしまうのであれば、僕のスタンスが違うんだと思う。(是枝裕和)