お遊さま
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この対談で蓮實は、溝口の『お遊さま』(1951年)を取り上げ、導入部のショット連鎖のすごさを指摘して「あんなことは世界の誰にもできない」「あれができたら死んでもいいと思うでしょ」と述べます。 さらには「あの導入部を見て興奮しない日本人がいたら、即刻銃殺もんだと思う(笑)」とまで言っているわけですが、実は私もかねてからこの映画の導入部は神がかり的に素晴らしいと感じていました(どうやら銃殺は免れることができそうです)。伊藤 弘了. 仕事と人生に効く教養としての映画 (p.159). 株式会社PHP研究所. Kindle 版. 自分も銃殺はまぬがれたわ。いや、わかんない人いるの?ってくらい素晴らしい導入部だった。主人公・慎之助の視点から、見合い相手のお静の顔がものの見事に隠されて、お遊の顔だけが映る。素晴らしいシーン。
現代の感覚で見ると、お静はいかにも美人で、お遊は年増の未亡人。あごもふくよかで「なぜ若い慎之助がお静ではなくお遊に惚れてしまうんだ?」「っていうか、見合いなんだから年齢や服装であんたの相手はお遊ではなくお静に決まっとるやろ」とツッコミそうになるのだが、慎之助は遊びもよくする趣味人であること(お遊は平安調を好み琴を奏する)、慎之助は母を4歳で亡くしていることなどがその説明になっている。
谷崎潤一郎の原作は未読なのでどうなっているか知らないのだが、驚いたのはある種のクィア映画として成立していること。というか、それがメインテーマの一つだと言ってもいいのかもしれない。お静は慎之助がお遊に好意があること、また逆にお遊が慎之助を好いていることも知っている。その上で「二人の縁が切れてしまわないように」「二人のかけはしになるように」と慎之助との結婚を承諾し、「形だけの夫婦」となることを決意。慎之助にその旨を告白する。 そこまでのことをなぜお静がするのかというと、お静は「お遊とずっと一緒にいたい」というただそれだけ。そこまでしてなぜ一緒にいたいのか、お静がお遊に対して好意を持っているからとしか考えられないだろう。ここでセックスを一切介在させない、お遊という共通の欲望の対象を介在させたポリガミー的関係が成立する。 結局、お遊の先夫との子が突然死に(これは冷蔵庫の女ならぬ、冷蔵庫の子どもというか、ストーリーを先に進めるためだけに死ぬ感じであまり感心しない)、慎之助とあまりにも仲が良すぎたため、勘当され、お遊は実家に戻されてしまう。お静はようやく自由になったのだから、慎之助と一緒になって、私もここにいるから三人で楽しくくらしましょうと提案するが、お遊はそれを聞き、二人とはもう二度と会わないと決め、自分にもちかけられた縁談を承諾してしまう。 お遊と会えなくなった慎之助とお静は東京に引越し、そこで子を一人もうける。産後の肥立が悪く、お静はそこで命を落とすが「あの時、姉さんがついてきてくれねやなかったら、こんなに苦労せんでもよかったんですな」「あんさんはかわいがってくださって、あたしは幸せに暮らさせてもらいましたけど、あんさんはやっぱり姉さんのもんです」「あんさんのおつむから姉さんの姿消そう思うても消えやしません」「あたしはやっぱり姉さんのかわりやった」「あんさんはあたし一人のもんにしたかった」と言いつも、絶命する直前にお遊の形見の小袖を羽織り、果てる。
クィア映画として見た場合、「また話のためにクィア死ぬんかい」「結局、慎之助に惚れる=強制的異性愛に回収かい」というツッコミは出てこざるをえないが、最後にお遊の小袖を羽織るこのシーンを見れば「そうではない」という認識が強まる。 最後は慎之助が二人の間にできた子を、書き置きとともにお遊の元に捨てていく。これも男は子育て放棄しているし、お静がただ産む機械のような役回りになっているから感じが悪くも取れるが、よくよく考えたら「お静とお遊の間に子ができる」ためにはこの方法しかなかったのであり、むしろ慎之助が精子提供しただけのようにも取ることができる。慎之助のお遊への好意は、亡き母への憧憬も多分に含まれたものだろうから、自身の子がお遊の子となることで「あんなお母さんがいてくれたら」という願望をお静とのセックスを媒介にして叶えたということもできる。