Ⅰ
https://scrapbox.io/files/625577eae7c012001d84293a.png
三十三度の暑さなので、ブールドン通りは人っ子一人いなかった。
しも手のサン・マルタン運河は二つの閘門に堰かれて、インキ色の水をひとすじに湛えていた。河心には材木を満載した船が一艘、そして土提の上には樽が二列に並んでいる。
運河のむこう、材料置場に距てられた建物と建物のあいだには、澄みきった大空が、紺青色の金属板さながらに、くっきりと浮きあがり、いりつける太陽の下で白亜の家々、スレートの屋根、花崗岩の河岸がぎらぎら照り輝いている。幽かなざわめきが遠く、むっとする温気の中に立ちこめて、一切のものは日曜日の閑散と、夏の日の物憂さに呑まれている気配だった。
二人の男が現れた。
一人はバスティーユ監獄の方から、一人は植物園の方からやって来る。長身の男は麻地の服を着て、帽子をあみだに被り、チョッキの前をはだけ、ネクタイを手に歩いて来る。短躯の方は羊羹色のフロックコートに身体を埋め、庇のとがった帽子のかげでうなだれていた。
通りの中程に来ると、二人は期せずして一つのベンチに腰をおろした。
額の汗を拭くために、彼等は帽子を脱いで、それをめいめい脇においた。さて小柄の方は相手の帽子の裏に、ブヴァールと註記してあるのを見てとった。すると一方の男も、フロックコートの人物の庇帽にペキュシェという文字を目ざとく読みとった。
「ほほう」と、彼は言った。「同じ思いつきですな、被り物に名前を書きこんだのは。」
「ほんとですね、役所で間違えられそうなものだから!」
「それなんですよ、私も勤め人でしてね。」
そこで二人は顔を見合せた。
ブヴァールの人なつっこそうな様子がひと眼でペキュシェの気に入った。
その青みがかった眼はいつも半眼に開いたまま、色艶のいい顔の中で笑っている。前割れのズボンは、裾の奉、海狸の革靴の上で襞皺がより、腹を締めつけたバンドはワイシャツに膨らみをこしらえている。そして、自然に縮れたブロンドの髪の毛はかるい渦を描いて、何ともいえないあどけなさを見せていた。
彼はひっきりなしに、口さきで風を切るような音を立てていた。
ペキュシェの実直そうな態度が、ブヴァールの心を打った。
彼の禿げあがった頭にまつわりついた髪の毛は、鬘をかぶっているのではないかと思えるばかりに、癖がなくて黒ぐろしていた。その顔はごく下まで垂れた鼻のために、いつも横顔を眺めているような感じである。ラスティング地のラッパ・ズボンを穿いた脚は長い胴体との釣合いがとれず、それに声は太いだみ声だった。
こんな詠嘆が彼の口をついて出た。
「田舎はさぞ好いでしょうなあ!」
しかしブヴァールに云わせると、郊外の居酒屋の乱痴気騒ぎで遣りきれないとのことである。それはペキュシェとて同感だった。かといって、都会にはもう倦きあきしている。ブヴァールもその通りだった。
そこで彼等は建築用の切石の山から、藁束のひとつ浮んだ汚い水の上へ、地平線に聳えている工場の煙突へと、眼をば移していった。下水の悪臭が漂ってくる。彼等は反対の方に向きなおった。すると、穀物倉庫の壁が彼等の眼路に入った。 確かに(これはペキュシェの驚いたことなのだが)家にいるより街の方がずっと暑い!
ブヴァールはフロックコートを脱ぐように勧めた。彼は他人の思惑なんか気にかけない!
ふと、一人の酔いどれが千鳥足で歩道を横ぎった。そこで労働者についての、政治的な話がはじまった。ブヴァールの方がどうやら自由主義者であったけれど、二人の意見は一致を見た。
轣轆の音が、鋪道に砂塵の渦をまきながら響きわたった。これは花束かかえた花嫁姿、白ネクタイの旦那衆、腋の下までスカートにくるまった内儀達、ニ三人の小娘と一人の書生、この同勢を運んでベルシー方向に走ってゆく三輌の貸馬車だった。この結婚風景に誘われたブヴァールとペキュシェは、話題を女の上に移して、これを軽薄な気むずかしやの依怙地ものとこきおろした。時には、男よりましなこともある。だが概して、女の方が始末におえない。つまりは、女なしで暮すにしくはない。だからペキュシェは独身を通している。
「私も鰥夫ですよ。」ブヴァールが云った。「子供もなしでね!」
「その方が結局あなたには仕合せでしょう? だが、孤独もながくなると、ひどく惨めものですよ。」
つづいて河岸ぞいに、一人の売笑婦が兵士といっしょに現れた。色つやの悪い、髪の黒い、あばたのある女は、軍人の腕にもたれて、腰をふりふりぼろ靴を曳ずっていった。
女が遠ざかると、ブヴァールはおかまいなしに、猥雑なことを喋りちらした。ペキュシェは真赤になって、きっと相手になるのを避けるためだったろう、こちらへやって来る司祭の姿を、彼に眼で知らせた。
聖職者は歩道にそう貧相な楡の並木道を、ゆったりと降ってくる。やがて三角帽が見えなくなったと思うと、ブヴァールはやれやれといった気持を洩した。彼はイエズス会の神父どもを、蛇蝎のように憎んでいたのだ。ペキュシェは彼等のことを弁護こそしなかったが、宗教に対してはある程度の尊敬を示した。
そのうち黄昏がせまって、向いの家々の鎧戸はあげられる。往き来の人の足も繁くなる。七時が鳴った。
二人の話は滾々として尽きることなく、四方山の世間話に意見が添えられ、個人的な観察に哲学的な見解がつづくといった調子。彼等は土木局を、煙草の官営事業を、実業を、劇場を、わが海軍をと、いわば苦杯を嘗めさせられた人々のように、人類全般を悪しざまに乏しつけた。互に相手の言葉を聞きながら、忘れていた自分の一部を思い出した。そしてもう素朴な感動に誘われる齢でもなかったのに、彼等は新しい悦び、こころの綻びといおうか、芽生えそめた情愛のたのしさを感じるのであった。
二十度も立上がっては、また尻を落着けた。そして上流の閘門から下流の閘門へと通りを歩いては、今度こそ右と左に別れようと肚を決めながら、それが出来ず、うしろ髪をひかれる思いに引留められてしまうのだ。
だが、いよいよ袂をわかとうと手を握り合った時、ブヴァールがふとこう云った。
「どうです! いっしょに飯でも食いませんか。」
「私もそれを考えていたんですよ!」と、ペキュシェも答える。「でも云い出せなかったんです!」
こうして彼は市役所の前にある、小じんまりした、心地よげなレストランに案内された。ブヴァールは献立表をいいつけた。
ペキュシェは身体を火照らせるからといって薬味を嫌った。これが医学的な論議の的となった。ひいて彼等は科学の効用をたたえた。知っておかなければならないこと、研究すべきことがどれ程あろう……閑さえあれば! 情ないかな! 糊口の資に追われている。ここで、二人はそろって筆生の身であることを知るや、嬉しさのあまり腕をたかくひろげて、テーブルごしに抱き合わんばかりだった。ブヴァールはある商館の、またペキュシェは海軍省の筆生だった。それでもペキュシェは、毎晩勉強にいっ時をさくぐらいの余暇はあった。彼はティエール氏の著述における誤謬をノートしていた。そして、こよない敬意を払って、デュムシェルという教師のことを話した。 ブヴァールはまた違った面で彼に立ちまさっている。編毛の時計紐といい、辛ソースを掻きまぜる手さばきといい、酸いも甘いもかぎわけた、天晴れ気の若い親爺ぶりであった。彼はナプキンの端を小脇にかいこんで食事をしながら、軽口をたたいてペキュシェを笑わせた。これがまた一種独特なごく低音の棒笑い、それも永いま(・)をおいて一本調子に繰返される。ブヴァールの方は含み声でひびきが高く、歯をむき、肩をゆすってよく笑う。そのために、入りかけた客たちも尻ごみしてしまった。
食事がすむと、他の店にコーヒーを飲みに行った。ペキュシェはガス灯を眺めまわして、その浴びるような贅美に呻き、それから穢らわしいものにでも触れるように新聞を押しやった。ブヴァールの方は新聞などにもっとゆとりのある気持を持っていた。彼は一般の文筆業者というものを愛してもいたし、彼自身若い頃には訳者を志そうとしたこともあった。
彼は友人のバルブルーをまねて、球撞きのキューと象牙の球二つとで曲芸をやろうとした。球は間違いなくおっこちると、床の上でお客の股ぐらの間をころがり、遠くへ見えなくなってしまう。ボーイはその度に立って、よつん這いになったまま腰掛の下を捜すので、しまいには文句を云いだす。ペキュシェがそのボーイに喰ってかかった。店の主人が仲に入ったものの、彼はその陳弁なんかに耳をかさばこそ、飲物にまでけち(・・)をつけた。
そのあげく、かれは近くのサン・マルタン街にある自分の住居で、今宵を静かに過そうと提議した。
部屋に入るや、彼は更紗模様の上張りみたいなものを羽織り、さてその上で主人顔に振舞った。
部屋の真中に据えつけてある樅机の角が邪魔ににった。そのまわりには、小棚の上、三つの腰掛の上、古井長椅子の上から、部屋の隅々まで、『ロレ百科辞典』の数巻だの、『磁気学者必携』だの、一冊のフェヌロンだの、その他の古本が、山なす書類や二個の椰子の実、雑多なメダル、トルコ帽、デュムシェルがル・アーヴルから蒐集してきたという貝殻類などとまぜこぜに、ところ狭く並べてある。昔は卵色に塗ってあった壁が、埃の層でまるでビロードに見える。靴刷毛は寝台のふちに抛り出され、敷布はだらしなく垂れさがったままである。そして、天井にはランプの油煙で出来た黒い大きな汚点があった。 ブヴァールはおそらく臭かったためだろう、窓を開く許しを求めた。
「書類が飛びますよ!」ペキュシェがこう答えたのは、それよりも風の吹通しを怖れたのだ。そのくせ、彼は朝から屋根のスレートで蒸焼きになっているこの小さな部屋で喘いでいた。
ブヴァールが云った。
「私だったら、そのフランネルを脱ぎますがね!」
「何ですって!」
ペキュシェは病魔除けの胴着を脱いでしまった身を想像しただけで、もうおぞ気をふるって俯向いてしまった。
「ひとつ私を送ってくれませんか。」と、ブヴァールがつづけた。「外の空気で涼みましょう。」
「あなたに逢っちゃかないませんよ、まったく!」
とうとう、ペキュシェはこう呟きながら、長靴を穿きなおした。
そして道のりをものともせず、ラ・トゥルネル橋の前にある、ベテューム街のはずれの家まで送ってきた。
蝋びきの行届いたブヴァールの部屋は、金巾(かなきん)の窓掛と、マホガニーの家具つきで、河を見晴らすバルコニーが付いている。目立つ装飾品が二つ、それは厨子の中央に一揃いのリキュール用器と、鏡に並べて友人どもの銀版写真。寝所(アルコーヴ)には一枚の油絵が懸けてある。
「叔父ですよ!」ブヴァールが説明した。
そして、手にした灯火で、その紳士を照しだした。
さきの縮れた頭髪をいただいたその顔には、赤毛の頬鬚が幅をもたせている。ワイシャツと、ビロードのチョッキと、黒の上衣と、三重の襟が高いネクタイともどもこの男を猪首に見せている。胸飾にはダイヤモンドが描かれている。その眼は顴骨のおくに窪み、鼻のさきでは笑っている。
「むしろ親御さんと間違えそうですね!」ペキュシェはこう言わずにいられなかった。
「名づけ親ですよ。」ブヴァーリはさりげなく答え、霊名はフランソワ・ドゥニ・バルトロメであると言い添えた。ペキュシェの霊名はジュスト・ロメン・シリル。――しかも二人は同年の四十七歳だった。この符合は二人を悦ばせたが、また互に相手を自分よりずっと年寄りだとばかり思い込んでいた彼等を驚かせもした。そして、時に絶妙な配剤を見せ給う天帝を讃めたたえるのだった。
「だって、先程散歩に出かけなかったら、御昵懇を願えずに死んでしまったかも知れませんしね!」
そこでめいめい勤務先の所番地を交換した上で、おやすみなさいをした。
「女のところへなんか、しけ込みなさるなよ!」ブヴァールが階段の上から叫んだ。
ペキュシェはこの冗談を聞き流して階段を降りていった。
翌日、オートゥフイユ街九二番地所在の、アルサス織物業デカンボ兄弟商会の中庭に声がした。
「ブヴァール! ブヴァールさん!」
彼が窓から顔をのぞかせると、そこにはペキュシェの姿があった。彼は一段と声を張りあげて、
「私は病人じゃありませんよ! あれをやめましたよ!」
「何をですか?」
「あれをですよ!」ペキュシェはこう言って自分の胸を指さした。
昼間のお喋りに加えて、部屋のいきれと消化の悪さに、すっかり寝そびれてしまった彼は、我慢ならずに、例のフランネルをおっぽり出してしまったのだ。朝になってそのことを思い返したが、好いあんばいにさしたることもない。そこでブヴァールの見識をすっかり高く買ってしまった彼は、さっそく、そのことを知らせに来たのである。
彼は小商人の倅、母は早世したので憶えがなかった。十五の時に寄宿学校をさがって、ある執達吏の許へ奉公にやられた。ある時憲兵の手入があって、その主人は懲役に送られてしまった。いまだに悪夢を見るような怖ろしい事件だった。その後、いろいろと職業を変えてみた。薬局の書生、私塾の生徒監、上セーヌ河の郵便船乗組の会計係。最後に海軍省のさる課長が、彼の筆跡に惚れこんで書記に採用した。しかし中途半端な教育しか受けていないという意識、またその意識にそそられる向学心に、彼の気分は快々として楽しまなかった。彼は両親もなく情婦もつくらず、天涯の孤独に生きていた。彼の道楽といえば日曜日に土木事業を観察に行くことだけだった。
ブヴァールのいちばん古い追憶は、ロワール河に沿うある農家の中庭に彼を誘う。叔父という男に付添われて、商売を覚えるためにパリへ出された。そして成年に達すると、数千フランの資本金が提供された。そこで彼は女房をもらい、菓子の店を開業した。六ヵ月後に女房が現金をさらって姿を晦ました。遊び仲間、食い道楽、わけても怠け癖がたたって、彼は見るみる中に落ちぶれてしまった。だが、器用な手跡を活かすことを思い立った。そして爾来十二年、オートゥフイユ街九二番地の織物業デカンボ兄弟商会で、一つ椅子を守っているのだ。むかしは記念にもと、例の肖像画を送って寄越したりした叔父についても、今ではその居所さえ知らず、また何を期待するでもなかった。千五百リーヴルの年金と写字生としての俸給とで、毎晩カフェへうたた寝をしに行く位のことは、どうやら出来るのだった。
こんなわけで、彼等の邂逅には偶然というものが重要な役割を演じていた。彼等は見えない糸によって、忽ちがんじ絡めにあってしまった。それに、この意気投合ぶりを何と説明したものだろう? どうでもよさそうな性癖なり、厭らしい欠点なり、そんなものまでが、何だって互の心を惹き合うのだろう? 電気に打たれるということも、すべて情念の世界では真実あることなのである。一週間もたたぬに、二人は相許す仲となっていた。
時々、彼等は相手の役所に誘いをかけあった。どちらかが現れると一方は文机をたたみ、連れだって街に出て行く。ブヴァールは大股で歩くのに、ペキュシェの方は踵でフロックコートの裾を叩きながら、足ばやにちょこちょこ歩く。その姿は、ちょうどローラーで滑ってゆくような感じだった。この調子で、彼等のばらばらな好みもうまが合っていった。ブヴァールはパイプをふかし、チーズを好み、きまってコーヒーのブラックを飲む。ペキュシェは嗅煙草をたしなみ、食後にはジャムしかたべないし、コーヒーには角砂糖をひとつ浸す。一方は信じ易く、そそっかしくて、大まか。一方は用心深く、苦労性で、しまりやだった。
ペキュシェを喜ばせてやろうと、ブヴァールは彼をバルブルーに馴染ませようと思った。これは外交官あがりの株屋、なかなかの好人物で憂国の士、西洋碁が道楽で、下町弁を気取る男だった。ペキュシェは虫の好かない奴だと思ったので、ブヴァールをデュムシェルの許に同道した。この著述家(というのが、この男には記憶術に関する小さな著述があった。)はある寄宿学校で文学の講義を受持ち、中正な思想を奉じる真面目くさった男だった。ブヴァールはうんざりさせられた。
どちらも自分の感じを隠さなかった。そして双方、相手の言い分をもっともなことと是認した。彼等は習慣を変え、それぞれの素人下宿を出て、毎日いっしょに食事を摂るようにした。
評判の芝居、政府の施策、物価の騰貴、商業道の無節操、こんな問題に関して彼等は意見を交え、時には、頸飾事件やヒュアルデ訴訟事件にも論議の花を咲かせ、さては、大革命の原因を穿鑿したりもした。 旅券の提示を求められた場合には、見失ったような顔をして、二人とも外国人、イギリス人になりすました。
科学博物館の陳列室では、剥製の四足獣をまえに驚異の眼をみはり、蝶類のまえでは喜色をたたえ、またガラスごしに温室をじっと見入っては、その葉むれが一斉に毒気を発散するさまを想像して、ぞっとした。西洋杉の大木について感嘆したことといえば、誰かがこれを帽子の中に入れて持って来たのかもしれないということだった。
ルーヴル博物館に行けば、ラファエルに熱中しようと努め、国立図書館に行けば、蔵書の正確な数を知りたがる。 ある時はコレージュ・ド・フランスのアラビヤ語の講義に飛入りして、ノートを取ろうと苦心している見も知らぬ二人の男に、教授が呆気にとられたこともある。バルブルーのおかげで、大道芝居の楽屋に紛れこんだこともある。デュムシェルが翰林院のある会議の傍聴券を手に入れてくれた。彼等は発明報告を聞き、趣意書を読み、こうした好奇心によってその認識はひらけていった。日毎に、いちだんと遥かになりまさる視野の奥に、彼等は漠然とながらも、霊験あらたかなもののあるのを悟っていった。
古代の家具を鑑賞するにしても、これが使われた時代については何の知識もないながら、その時代に生きなかったことが惜しまれる。そのいろいろな様式の名称をもとに、彼等が空想する国々も、はっきりした観念がないだけに、ひときわ美しいものとなる。そして標題の読めない書籍には、何か神秘が潜んでいるもののように思われた。
理解力が深まるにつれて、彼等の悩みはましていった。通りで郵便馬車に擦れちがえば、それについて旅に出たくなる。草花河岸は田舎への憧れをさそった。
ある日曜日、彼等は朝から歩きだして、ムードン、ベルヴュー、シュレーヌ、オートゥイユをとおって、日がな一日葡萄畑の間をほっつきまわり、畑の畔で雛罌粟を摘み、草に睡り、ミルクを飲み、掛茶屋のあかしでの木陰で弁当をつかい、夜も更けてから埃だらけの足を曳きずりながら、それでも意気揚々と帰ってきた。この郊外散策は、その後もたびたび繰返されたけれども、あくる日がいかにもうら悲しいので、とうとうこれは断念してしまった。 役所の単調さがやりきれないのである。年から年じゅう、字削りナイフにインク消、同じ墨汁、同じ鵞ペン、さては十年一日の如き同僚! 奴等を鈍物ときめてかかった二人は、口もきかなくなった。これが彼等にひねくれ者の名を取らせた。毎日定刻におくれて出勤しては、お叱言をくった。
以前はほとんど幸福にさえ思っていた身が、いったん自尊心の眼を開いてからは、この職業に屈辱を感ずるようになった。そして、彼等は嫌悪の中で力づけあい、自画自賛しあい、いたわり合った。ペキュシェはブヴァールのせっかちに染まり、ブヴァールは何かペキュシェの気むずかしさを身につけた。
「街の広場で曲芸でもやりたいよ!」と、一人が言った。
「屑拾いでもいい!」と、他が和した。
何と呪わしい身上! これを脱けだすよすがとてない! その望みすらない!
ある日の昼さがり(一八三九年一月二十日のことだった。)ブヴァールは事務所で配達夫から一通の手紙を受取った。
腕があがり、顔がやおらのけぞると、彼はその場で気を失ってしまった。
同僚が駈けつけてネクタイをはずす。医者を呼びにやる。彼は意識を取戻すと、人々の質問に対しては、
「ああ!……それは……それは……すこし風に当れば楽になります。いや! ほっといて下さい! ご免!」
彼は肥満した身体も忘れて、海軍省まで息もつかずに走った。額に手をあて、気が狂ったのではないかと疑い、心を落着けようと努めながら。
彼はペキュシェを呼出してもらった。
ペキュシェが現れる。
「叔父が死んだ! 遺産が入った!」
「そんなことが!」
ブヴァールは書類を見せた。
タルディヴェル法律事務所 ナント市サヴィニー・アン・セプテース
拝啓
去る十日ナント市に逝去せられた御生父、当市の元貿易商フランソワ・ドゥニ・バルトロメ・ブヴァール氏の遺言状に就き御承知願度儀有之、当事務所まで御出頭相煩度。尚該遺言状は貴殿に有利なる重要処分方被申述居候條申添う。 敬具
一八三九年一月十四日 公証人 タルディヴェル
ペキュシェは中庭の標石に座り込んでしまった。そして書類を返しながら、ゆっくりと言った。
「なにか……狂言……でなければね!」
「狂言だと云うのかい!」ブヴァールの息づまるような声は、瀕死の病人の喘ぎにも似ていた。
しかし、郵便切手といい、印刷した事務所の名称といい、公証人の署名といい、すべて通信の真正を証している。――そこで彼等は口のあたりを痙攣させながら、涙を湛えた眼と眼をじっと見交した。
ひろびろした処がほしくなった。二人は凱旋門まで足を伸し、それから河岸ぞいに引返して、ノートル・ダム寺院を通り越してしまった。ブヴァールはすっかり顔を火照らせ、ペキュシェの背中を握り拳でどやしながら、訳の分からぬことを五分ばかりも口走っていた。
彼等は我にもなく薄笑いをうかべた。この遺産は金額にすれば間違いなく……。
「嗚呼! どうもうますぎる! その話はやめよう!」
彼等はその口の乾かぬ中に、またその話に逆戻りしてしまう。さっそく照会してみるだけなら、一向に差しつかえあるまい。ブヴァールはそのために手紙を書いた。
公証人から送ってよこした遺言状の写しは、次の言葉で終っている。
「従って余の認知する庶子フランソワ・ドゥニ・バルトロメ・ブヴァールに対し、法律により処分し得る限度に於て、財産の一部を遺贈す。」
爺さんは若い頃にこしらえたこの息子を、甥ということにして用心深く遠ざけてしまった。また甥の方でも真相を胸にたたんだまま、さりげなく叔父さんと呼んでいた。四十の頃ブヴァール氏は結婚して、その妻に先立たれている。しかも、二人の嫡出子に見込みちがいの方面へ進まれてみると、庶子をながい年月ほったらかしておいたことが悔まれた。女中への思惑さえなかったら、この子を手許に引取ったかもしれない。親類縁者が仲に入ってこの女とも別れ、さて孤独の中に死期も近づいてみると、老人は財産の許す範囲で、出来るだけのものを初恋の結晶に遺贈し、罪の償いをしないではいられなかった。その財産は五十万フランにものぼる、ということは、筆生の懐に二十五万は転げこむという勘定だ。長男のエティエンヌ氏は、故人の遺言を尊重すると表明している。
ブヴァールはいわば夢心地だった。あの酔払いに見られるような他愛ない微笑をうかべて、
「一万五千リーヴルの年金か!」と小声に繰返すばかり。
そして、ペキュシェの方は頭もまだまだしっかりしていたが、それでもやはり上の空だった。
タルディヴェルの手紙がいきなりこの二人の夢見心地を揺り醒した。次男のアレクサンドル氏が一切の解決を裁判に待ちたいという意向を表明したのだ。そればかりか、出来得れば予め封印、財産目録、供託物保管者の任命などを申請して、遺言を無効にしたいというのだ! ブヴァールはこれがために黄疸に罹ってしまった。そして快復するやしないに、サヴィニーに向けて馳せ赴きはしたものの、何らの解決も見ないままに舞戻り、旅の費用をかこつばかりだった。
それからというもの、不眠には悩まされる、腹をたてたり、希望に燃えたり、はしゃぐかと思えば、しおれかえるという有様。半年たってようやくアレクサンドル側の譲歩により、ブヴァールは遺産をわがものとした。
彼の第一声は、
「いっしょに田舎へ引込もう!」ということだった。
わが身の幸福に友の身をも結びつけたこの言葉を、ペキュシェはごく当然なことと聞きなした。二人の関係は理屈抜きに深かったのである。
しかし彼とて、ブヴァールの厄介になる生活はしたくなかったから、恩給年限までは引退しまい、あと二年、わけはないさ! 彼が主張を枉げないので、相談はそのまま纏まった。
落着くさきをもとめるために、彼等はあらゆる地方を周遊した。北部の土地は肥沃だが、寒さが厳しすぎる。南部は気候風土の上から云えば申し分ないけれど、蚊の多いのが玉に瑕。中部は腹蔵ないところ何の変哲もない。ブルターニュ地方は、住民の気質が頑迷固陋でさえなければ、彼等には打ってつけの土地なのだが、東地区に至っては、ドイツ語訛があるだけでも考慮の外だ。しかしこれだけが国というわけではない。例えばフォレ地方、ビュジェ地方、ルーモア地方などはどうなのか。地図はその点なにも教えてくれない。ともかく、家をどこにしよう、ここにしようというよりも、問題はそんな家があるかどうかということだ。 気早くも彼等は、花壇の縁で薔薇の木を刈込んだり、土を鋤いたり、耕したり、いじくったり、チューリップを植替えたりしている自分等の、上衣なしの姿を思い描いた。鋤を押すため、雲雀の囀りとともに眼を醒まそう。籠をもって林檎を摘みにもゆこう。蜂蜜の手入、バターつくり、麦打ち、羊毛剪みの監督をして、牝牛の啼声や、乾草の匂に万悦しよう。文書もなし! 上役もなし! 部屋代の支払日すらなしだ! だって、一国一城の主となるのだもの! 食膳には鳥小舎の雛を、菜園の野菜をのせよう。そして食事は木靴をつっかけたままやるのだ!
「気随気儘な真似をしようじゃないか! 鬚も伸し邦題さ!」
彼等は園芸の道具を買い整え、その他《役にたちそうな》器具を山ほど仕込んだ。例えば道具箱、(一軒に一揃いは是非とも必要。)衡器、測量鎖、病気の時の用心に浴槽、寒暖計、気が向いたらやるかもしれない物理の実験用に《ゲイ=リュサック式》気厭計といった類。それに何がしかの立派な文芸作品を携えることも(戸外でばっかり働けるというわけのものでもなし)、悪くはあるまい。そこで何かと漁ってみたけれど、はたしてどんな作品が《書架の本》にふさわしいのか、さっぱり見当がつかないのには閉口してしまった。ブヴァールが問題の裁きをつけた。 「どうだい! 蔵書はいらんじゃないか。」
「それに僕のもあるからな。」ペキュシェも賛成した。
前もって二人は打合せをしておいた。ブヴァールは家具類を、ペキュシェは黒の大机を持って行く。窓掛はそのまま利用出来るし、炊事道具はあるだけのもので間に合うだろう。
彼等はこの件については、一切吹聴しないことを誓い合った。しかし顔色がものを言っている。そこで同僚は怪しいと思いはじめた。ブヴァールは文机にへばりつき、楷書と草書の中間書体に丸味をつけるため、肱を外に張って筆を運びながらも、例の風を切るような音を立て、胸にいち物ありげな様子で、腫れぼったい瞼をしばたたいている。ペキュシェは大きな藁椅子にちょこなんと座り、そのながめな書体の直字画に念を入れながらも、口を滑らせるのが怖いかのように唇をすぼめ、鼻の孔をふくらませている。
彼等は人家の隣接する地区を嫌いながら、一方では人里はなれた僻地を淋しがった。
ある時は、いったんここと決めながら、あとになって後悔するのが厭さに、場所が不健康そうだとか、潮風があたりすぎるとか、工場が近すぎるとか、隣近所がうるさいとかを名目に、翻意してしまった。
バルブルーが助け船を出してくれた。
二人の夢を知っている彼は、ある日カーンとファレーズの間にあるシャヴィニョールに、土地が一つあるとの話を持ってきた。これはお城のような邸宅と、実りざかりの果樹園つきの三十八ヘクタールの農園だった。 彼等はカルヴァドス県に思いを馳せて、すっかり乗気になった。ただ家屋敷は小作地つきで、(別々に離しては売らない。)十四万三千フランの売値。それをブヴァールは、十二万フランしか払えないという。 ペキュシェはその依怙地をたしなめて、折れるように勤めたが、結局は、その差額を彼が補足することにした。これは母の遺産と自分の貯金から生れた全財産だ。いざという場合に取っておいた虎の子で、その時までは一言も洩したことのないものである。
彼の恩給年限に先立つこと六ヵ月、一八四〇年の終り頃に支払いは一切済んだ。
ブヴァールはもう筆生を罷めていた。はじめは将来への懸念から、勤めをつづけていたものの、財産相続が確かになったので辞職した。しかしその後も、彼はデカンボ商会に好んで足を向け、出発の前日には事務所の全員にポンチをふるまった。
これに反して、ペキュシェは同僚にたいしても不愛想で、最後の日も、戸を乱暴に締めたまま出て行った。
彼は荷造りを監督したり、山ほどの用事や買物をすませたり、デュムシェルに別れの挨拶をしたりしなければならない!
教授は音信を交換して、学会の消息を伝えようと提案し、その上で改まった祝いを述べ、健康を祈ってくれた。
ブヴァールの訪問を受けたバルブルーは、もっと情味の深い態度を見せた。ドミノの勝負をわざわざ中座して、田舎を見舞うことを約束し、茴香酒(アニス)を二杯注文した上で抱擁してくれた。
家に戻ったブヴァールは、《最後だ》と思いながら、バルコニーの上で深い息を吸込んだ。河岸の灯火が水に映ってゆらぎ、乗合馬車のひびきが遠くに消えてゆく。この大都会に於ける愉しかった日々のことが眼にうかぶ。料理屋通い、夜の劇場、門口での世間話、数々の懐しい習慣。そして心は何となく滅入り、云うに云われぬ悲しさが込みあげてきた。
ペキュシェは朝の二時まで部屋の中を歩きまわった。二度とここへ来ることはあるまい。もっけの幸いだ! そのくせ、何か置土産にもと、暖炉の漆喰に自分の名を刻みつけた。
大きい荷物は前の日に発送された。庭道具、寝台、蒲団、テーブル、椅子、蒸し釜、浴槽、ブルゴーニュ葡萄酒の樽三本は、セーヌ河の水路をル・アーヴルまで送り、それからカーンに廻して、ここで待受けるブヴァールが、シャヴィニョールへ運搬する手筈である。
彼はいちばん古物のフロックコートに襟巻、指なし手套のいでたち、それに足炬燵をしつらえて、馭者と並んで腰掛に陣取り、三月二十日の日曜日も夜のしらじら明けに首都をあとにした。
旅の感激と目新しさに、初めの中こそ気が紛れていた。行く中に馬の足なみが緩くなることから、馭者や車力を相手の口叱言。彼等は薄汚い安宿を選び、荷物については一切の責任を保証したにもかかわらず、ペキュシェは用心のあまり彼等と同じ宿屋に泊った・
翌日は朝まだきに出立。何時まで行っても変化のない登り道が、地平のはて迄のびている。幾メートルとない砂利道がそれからそれへと続き、窪みは水だらけ、原っぱは単調非情な緑一色の広漠たる野面をくりひろげ、雲は空を飛び、思い出したように雨が降る。三日目は突風が吹きまくった。繋ぎの悪い車の幌は、風にはためく船の帆を思わせる。ペキュシェは庇帽の下に面を伏せ、煙草入れを取出すにも、眼をかばうため、完全にうしろ向きとならなければならぬ始末。車の振動につれて、背後では荷物のがたがた揺れるのが気になるので、しきりと口やかましく注意を促す。これが何の効き目もないと悟ると、彼は戦法を変えた。人を好くして愛嬌をふりまき、難渋な登りには人足どもに力を併せて車輪を押す。食後にはブランデー入りコーヒーまではずんだ。すると彼等は景気よく突走るのだが、ゴービュルジュの近郊まで来かかると、勢いあまって心棒をへし折り、車体は傾いてしまった。さっそく中味を調べれば、陶器の茶碗は粉々に割れている。彼は腕をふりあげ、歯ぎしりさせて、二人の馬鹿者を呪いまくった。しかもその翌日は車力が酔いつぶれてしまったおかげで、まるまる一日ふいにする。だが、重ねがさねの苦杯に、彼は文句を言う気力も萎えてしまった。 ブヴァールのパリ出発は、バルブルーとのもう一度の会食がたたって翌々日に延びてしまった。運送会社の中庭にはぎりぎりの時刻に駈けつけたが、ふと眼を醒ますとルーアン寺院の前、乗合馬車を間違えたのだ。
午後はカーン行の座席があいにくと満員。どうする術もないままに芸術座を見物する。そして周囲の人々にほほえみかけ、自分は近頃勤めから身を引いて、近郊の地主になったのだと吹聴した。金曜日にカーンへ着いたが荷物はまだ来ていない。日曜日になってこれを受取り、荷車に積んで発送するついでに、小作人には自分もおっつけ着くことを知らせてやった。
ファレーズで旅の九日目、ペキュシェは助馬を傭い、日没までは調子よく進んだ。ブレットヴィルを過ぎたところで、本道をそれて抜道に入った彼は、シャヴィニョールの破風造りの家並を望むのは今か今かと進むうち、轍の跡が消えうせてしまった。耕地の中へ迷いこんでいる。日もとっぷり暮れた。どうなるんだ? とうとう彼は車をすてて、泥に足をとられながら偵察に先行した。農家に近づくと犬が吠えた。道を尋ねて、声をかぎりに叫んだが答えはない。彼は怯気づいて逃げだした。ふと提灯の火が二つ。二輪馬車の影を認めて駈けよると、中にはブヴァールが乗っていた。 それにしても、引越車はどうなったろう? 彼等は一時間も闇の中に呼びたてて、やっと探しだした上、シャヴィニョールへ辿り着いた。
客間には茨と松毬の火がさかんに燃えている。二人分の食事が用意してある。荷車で著いた家具が玄関を埋めていた。なくなったものもない。彼等は食卓についた。
玉葱のスープ、一羽の雛鳥、ベーコンと茹卵が準備してあった。料理をした老婆が、味加減をききに時々顔を出す。彼等は「いや! とてもうまい! とてもうまい!」と答えた。また切りにくい大きなパンも、クリームも、胡桃も、何から何まで彼等には風情があった。床石には穴があき、壁は汗をかいている。それでも彼等は、裸蝋燭の燃えている小さな卓で食事を摂りながら、みち足りた眼ざしを身のまわりに配った。顔はすっかり陽焼けしている。腹を突出して、ぎしぎし軋む椅子の背にふんぞり返った彼等は、何度となく繰返した。
「とうとう来たね! 有難いことさ! まるで夢のようだ!」
夜も更けているのに、ペキュシェは庭をひと巡りしようと思いたった。ブヴァールも否とは言わない。二人は手燭をとって、それを古新聞でかばいながら、菜園のまわりをぶらついた。野菜の名を声たかく呼びあげるのは愉しかった。
「ほら人参! おや玉菜!」
つづいて彼等は樹墻を検分した。ペキュシェは若芽を見つけようとした。時々蜘蛛が思いがけなく壁の上に逃げてゆく。その壁には影法師が二つ、彼等の身ぶりを大きく映しだしていた。草の葉ずえからは露がしたたり、夜は漆のような闇、そして一切のものは深いしじま、深い静けさの中に睡っている。遠くで雄雞が時をつくった。
彼等の二つの部屋の間にある小さな扉は、壁紙で貼りつぶしてあった。人夫がそれに箪笥をぶつけて、釘をとばしてしまったのだ。ぱっくり口を開いている。これはもっけの幸いだった。
着物を脱いで床に入ると、二人はしばらくお喋りしていたが、いつともなく寝入ってしまった。ブヴァールは仰向きに口をあけて、無帽のまま、ペキュシェは右脇を下に、膝を蝦なりに曲げて、木綿のベレ帽をおかしな恰好に被ったまま。そして窓から射しこむ月光の下で、二人とも鼾をかいていた。