イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』
最初? に読んだ分析哲学の本なので、哲学にかんする最初のほうの関心はこの本にだいぶ支配されていた。
この本は何回も読んだ。
そういう経緯で、このページは長くなっている。
矢田部俊介氏は入門として勧めていたけど、最初に読むべき本かと言われると、微妙だと思う。
無駄にかっこいいと思う! (入門として読むなら、全体として何を言おうとしているかを無視して、個々の哲学者の紹介として読むという感じになるのかな?)
分析哲学の入門書としては、八木沢敬『分析哲学入門』 (の『中級編 意味・真理・存在』) の方が良かったかも (その2つしか入門書とされているものを読んでいないけれど)。 いやあと言語哲学の入門としてはライカンの言語哲学も良かったしハッキングのを言語哲学の入門として読むより良さそう。
日本語版への序文
マーヴィン・ミンスキー『心の社会』
ハーマン
言語は感性的(視覚的/聴覚的パターンである)でもあり概念的(意味内容を持つ)でもある
など、カントの二分法の反例になっているという。
ロゴス(理性)という語は言語に由来する
などの見慣れない強調点もある
// ayu-mushi.icon昔は科学知識が視覚のアナロジーで説明されたが、今は視覚の方が科学知識のアナロジーで説明される(仮説形成など)
最初の章
ロックは、自分が物質と物体とは同一ではあり得ないということの短い証明を手にしている、と考えた。
「もしも〔『物質』と『物体』という〕二つの語が表している観念が、厳密に同じものであるならば、それはどこでも頓着することなく入れ替えることができるであろう。しかし我々がよく知っているように、『あらゆる物体を通して一つの物質がある』と言うことは適切であるが、『あらゆる物質を通して一つの物質がある』とは言えない。…(略)…」
ロックは、我々が深遠な哲学的論争に関する何事かについて、十七世紀の英語のニュアンスを考察することが学ぶことがあると主張する。(p. 27)
「同じであるならば入れ替えることができる」は単にライプニッツの同一者不可識別の原理 (同一ならば全て同じ性質や関係を満たす) を使ってる気もする
入れ替えが「適切」かどうか「耳障り」かどうか、ってのであって、「真偽保存的である」かどうかの問題として捉えてないからアレだけど
単に二階の論理を使えば?
観念の時代
「観念とは自分自身の存在以外の存在にコミットせずに語ることができるものである」
えっ、「神の観念が存在する」って語りは (神の存在にはコミットしてないけど) 神の観念の存在にコミットしてるんじゃないの??
ここでハッキングが、クワインのいうような存在論的コミットメントの概念を使っているかどうか怪しい。
「私は神について考えている」だけなら、神の観念の存在にコミットしているわけではないが、「神の観念」を単称名辞のように使えるなら、存在論的コミットメントを含むだろう。
もし存在論的コミットメントを含まないと言いたいならば、観念に関する (本来の意味での) 量化や指示などはできない(「観念は存在しない」などの自明な量化文は成り立つというのは置くとすれば)、というふうに言わなければならないだろう。
しかし、「神の観念についての語りは、神について考えているとか、神を愛しているとかいうことの短略にすぎず、「神の観念」というものの存在にコミットしているということではない」みたいなことを近代の哲学者たちは思っていただろうか (そうでははないと思う)
認識論的透明性にしても、ライプニッツの微小表象については直接的な表れではない (イギリス経験論ではないが)
ここでハッキングがしている通りに「観念」というものを考えると、トマス・リードの「観念の途」批判は何をしているか理解不能にならないだろうか。(リードはヒュームを念頭において批判していたはず?) 観念 vs. 印象・情動
ヒュームは観念と印象を異なるものだとみなしていた。(前者は後者から作られるとはいえ、同じものではない)
人間の心に現れるすべての知覚は、二つの異なった種類に別れる。私はその一方を「印象」、もう一方を「観念」と呼ぶことにしよう。
これら二つの間の相違は、それらが心に働きかけ、思考もしくは意識の内容となるときの勢いと生気の程度の違いにある。
きわめて勢いよく、激しく入り込む知覚を印象と名づけてもさしつかえなかろう。
そして私は、心に初めて現れるときの感情、情念、感動のすべてをこの名称で包括することにする。
また、観念ということばで、思考や推論の際の勢いのないこれらの心像を示すことにする[1]。
脚注[1] 私はここで印象と観念というこれらの名辞を、普通の使い方とは違った意味で用いている。これくらいの自由は許されるものと期待する。おそらく私のほうが、むしろ観念という言葉をその本来の意味にもどすことになるだろう。ロック氏はこの言葉で我々の知覚すべてを意味させたが、そのために本来の意味をゆがめてしまったのである。なお、印象という言葉で、生き生きとした知覚が心に生み出される仕方を表すというふうには理解してもらいたくない。
知覚そのものだけを表すというふうに理解してほしい。
英語にも、私の知っているほかの国語にも、そういう知覚そのものを表す特別の名称がないのである。
『世界の名著 ロック・ヒューム』「人性論」p.411
カントだけじゃなくて、ヒュームもロックの用法は変だと思ってたわけだからロックの用法は変なんだよきっと
スピノザは観念(知覚など)と情動(希望、不安、愛など) は後者は前者に依存するが異なるものだ、と言っていたらしい(ドゥルーズのスピノザ講義 1 )。 では、スピノザの用法に従って観念が単に「心的状態」のことではなく「何かについて表象している状態」を意味するとしたら、「痛みは身体的損傷の表象である」などと考えるのでない限り、ロックが痛みを観念とみなすことは不一貫な使用じゃないの?
全ての観念についてその観念が「xの観念」であるようなxは存在する のか (ブレンターノテーゼの是非に通じそう)
ブレンターノテーゼを認めれば、全ての意識は何かについての意識、心的表象であるということになるから、ロックがそのように思っていたなら、すべての意識を観念としてしまってもいいかも
おそらくデカルトの全ての心的状態を思考に還元することを受け継いでいる (デカルト「心の本性は思惟である」に代表されるような)
表象に idea とルビ振るの何なんwと思っていたら Vorstellung はロックにおける idea の訳語として使われていたらしい。そもそも idea が哲学史の中で大きな意味の変遷をしているっぽい
観念という概念は一貫しないものだという点について、ハッキングが批判している、ジェフリー・ウォーノックやデイヴィッド・アームストロングの方が正しいのではと思った
ポート・ロイヤルとかだと観念と心像は違うように見えるけど、ヒュームの場合は印象から作られたのが観念なんだから、「心像(イメージ)」に近いものなんじゃないのか。
In the Treatise, Hume qualifies his claim that our ideas are copies of our impressions, making clear that it applies only to the relation between simple ideas and simple impressions. He offers this “general proposition”, usually called the Copy Principle, as his “first principle … in the science of human nature”:
All our simple ideas in their first appearance are deriv’d from simple impressions, which are correspondent to them, and which they exactly represent. (T 1.1.1.7/4)
単純観念は単純印象の複製である(コピー原理)
観念の合成性、再帰的構造 (観念は思考の言語(メンタリーズ語)か?)
たしかに、ホッブズや、ポール・ロワイヤルの哲学者らは思考の言語仮説につながる発想を持っていたのだろうが、観念の理論を精神的言説という言葉で要約し、イメージとは無関係のように言うのは、印象との関係を逃しているのでは
観念が精神的言説なら
それが語に当たるのか、句に当たるのか、文に当たるのか、発話行為に当たるのか
(単純観念、複合観念、判断の理論のあたりを参照すると良さそう)
イデーのすっげーシンプルな特徴から始めたのは覚えてるよね。つまり、イデーとは「何かを表すもの」としての思考であり、この線で、イデーってものの持つ客観的現実性について話をすすめようか。イデーってのは客観的現実性を持つのみならず、慣用的な言い回しで言うと、形式的現実性をも持ってるんだな。じゃあ、客観的現実性ってのが「何かを表す」イデーの持つ現実性であるのなら、形式的現実性っつーのは一体何だろう? こっから大分込み入った話になるけど、俄然オモロくもなってくるとこなんだよね。で、形式的現実性ってのは、それ自身が「何か」であるものとしてのイデーが持つ現実性、のこと。
Thus Locke and Hume held that every idea must either originate directly in sense experience or else be compounded of ideas thus originating; (p.36)
Spinoza suggested that all information is accepted during comprehension and that false information is then unaccepted. Subjects were presented with true and false linguistic propositions and, on some trials, their processing of that information was interrupted. As Spinoza's model predicted, interruption increased the likelihood that subjects would consider false propositions true but not vice versa (Study 1).
観念は思惟の様態?
デカルトは、多種多様な性質を実体の様態として理解することによって、超自然の自然への偶発的な介入と実体と偶有性の偶発的な関係を退けることに成功する。つまり、火かき棒が熱いのは、火かき棒の様態が変化したことに起因しており、火かき棒に「熱い」という性質が加えられたからではない、ということになる。思惟においても同様のことがいえる。
デカルト的思考では、マンハッタンについて考えることとウィーンについて考えることの違いは、思惟の様態の変化だけであり、オッカムにとってはそれぞれの思惟にはそれぞれの「もの」が存在していると理解する。この議論は現代でも続いていると、著者である Normore は論を閉じる。
According to Descartes’ ontology there are substances, attributes, and modes. These are understood relative to one another, in terms of ontological dependence. Modes depend on attributes, and attributes depend on substances. The dependence relation is transitive; thus, modes depend ultimately on substances. https://plato.stanford.edu/entries/descartes-ideas/ ライプニッツの思想の出発点(そのすべてではないにしろ、その重要な一つ)は、書物にすれば2頁ほどのテキストの中にある。「観念とは何か」である。
この草稿でライプニッツが言っているのは、次の二つのことである。
1)観念はそれ自体として実在するものであること。
2)観念の本質は「表出」にあること。
デカルトもライプニッツも「観念」というものが存在することを認める。しかし、ライプニッツからすると、デカルトの言う「観念」は単に我々の意識にしかすぎない。それは主観的なものにすぎないのだ。これに対してライプニッツは、デカルト的な意識=主観性を超えて、観念はそれ自体として実在的なものであることを強調する。
そして、そうした実在する観念の本質が「表出(表現)」である。ライプニッツは次のように言っている。
「表出されるべきあるものの状態に対応する状態をその中に持っているようなものは、あるものを表出すると言われる。だが、こうした表出には様々なものがある。例えば、機械の模型は機械自身を表出しているし、平面上でのものの遠近図は立体を表出し、発話は思考や真理を表出し、記号は数を表出し、代数方程式は円その他の図形を表出する。そして、これらの表出に共通なのは、表出している〔側のものの〕諸状態を考察するだけで、表出される側のものの対応する諸性質の思考に至り得るということである。ここから明らかなことは、〔両者の〕状態にある種の類比が保たれてさえいれば、表出するものが表出されるものと類似している必要はない、ということである。」 ここで重要なのは、類似と類比の違いだ。
準同型対応
客観的現実性、形式的現実性
ライプニッツの「観念」の概念は他の近代哲学者とかなり違うように見えるのでそこを検討する必要があるのでは
すなわち,観念は〔神から受け取った〕似絵ではなく,私たちの精神の属性ないし様態であり,この属性ないし様態が,私たちが神において把握したものに対応している。
「認識において処理が存在した」って何をどう処理して何ができるの?
処理って、対象に光が当たり、光が反射し、眼に入り、神経が興奮し、といったプロセスのどこからを「認識」と呼んでるんでしょうね?
ジョセフ・ヒース『ルールに従う』によれば、(信念を思考の言語の文とみなす現代のフォーダーらと根本的に異なり)ホッブズ、デカルト、ロック、ヒュームらは、信念を世界の画像または像として扱う心理学的心象主義にコミットしているという(p. 170)。 これはハッキングの解釈と矛盾している(ヒースは『啓蒙思想2.0』で『言語はなぜ哲学になるのか』を出典にしていたので読んだ上で言っているっぽい? 啓蒙思想2.0は(2014)で、Following the Rulesは(2008)だ)。デカルトの千角形の例からすると、ヒースの考えもどうなのかという気がするけど。(ホッブズについても怪しいのでは?
「千角形」を重視するなら、ハッキングの方が正しそう。
ポール・ロワイヤルの哲学者は確かに心象主義ではなかっただろう
デカルト、ポール・ロイヤルと、ヒューム、バークリーの間には対立があるかもしれない。
生得観念の存在を認めるならば、観念が五感から作られていると考える必要はなくなるが、認めないならば、観念と心像・パーセプトとの区別は明らかでなくなる。
(さすがにハッキングの方が哲学史詳しそう(ヒースの方が後に書かれた(し、たぶんハッキングを読んでる)けど))
一般観念を認めないなら、「自由意志」の観念を持てるのか明らかではない。
ポール・ロワイヤル
バークリー
またバークリの『視覚新論』によれば、視覚はそれ自体が記号であり、視覚観念は触覚観念を「示唆する」という記号的・表象的・志向的な在り方をしている。
これに対してバークリーは次のように答える:
"抽象観念が伴う困難と,それらを形成するのに必要な苦労と技能について, ここで多くのことが語られている.そして思考を個々の対象から解放し, 抽象観念について精通する高尚な思弁へと高めるには,精神の大いなる辛苦と労働が必要であることは,万人の同意するところである.
これらすべての自然な帰結は,次のようになるべきであるように思われる.すなわち, あらゆる種類の人間にとってあまりにも簡単でありふれたものであるコ ミュニケーションにおいて,抽象観念を形成することほど困難なものは必要なかったと.
しかし,抽象観念が大人にとって自明で簡単に見えるとすれば,それはあくまで継続的で習慣的な使用によってそうなっているからだ,と言われている.
さて,人々がこの困難を乗り越えることに勤しむのはいつなのか,私は知りたい.大人になってからではあり得ない.なぜな ら,もしそうだとするなら,その労苦を自覚していないことになってしまうから.したがって残るのは,幼年時代の仕事だということである.
そして当然,抽象観念の形成という繰り返しの重労働は,その幼い年齢においては困難な課題であることが見出されるだろう.
何人かの子どもが,まず 数え切れないほどの不整合を縫い合わせ,かくして精神の中に抽象的な一般概念を形成し,彼らが使っているすべての一般的な名前にそれらを付加するまで,飴玉やがらがらおもちゃ,そして彼らのその他の小さな品々に ついて一緒におしゃべりできない,ということを想像するのは困難ではな かろうか?"
「明晰・判明な観念」もあれば、そうじゃない観念だってあるわけだから、自分自身の観念に注目する限り誤ることはありえないっていうのは変な話だと思うな。(ハッキングも、ある観念が別の観念より明晰に表象されるとされたことは認めているが)
しかし,注意しなければならないのだが,ここから結論付けられるのは,「もし神〔=最も完全な存在者〕が可能ならば,神の実在性が帰結する」ということだけである。なぜなら私たちは,それぞれの定義について,それが「現実的定義」(Realdefinition)であるかあるいは矛盾を含まないと知っていない限り,安全に結論を導き出すことができないからである。というのも,矛盾を含んだ観念については,相反する事柄を同時に結論付けられるのだが,これは不条理だからである。さて,私はこのことを説明するために普段,「最速運動」(motus celerrimus)という例を挙げることにしている。これは不条理を内在させているのだ。すなわち,ある車軸が最速で回転していると仮定しよう。このとき,車軸の中にある鋲よりも,車軸からさらに突き出たスポークの方が速く運動していることに,誰が気付かないであろうか。したがって,仮定に反して,この車軸の運動は最速ではない。それにもかかわらず,一見すると,私たちは最速運動なるものの観念を有しているように見える。
ヒュームも、我々が真空の観念を持っていると思うのは誤解だと言ってる。
いや、でも「持っている観念が誤りを含んでいる」というのではなく、「観念を持っているということ自体が誤解だ」というのであれば、自己の観念を見つめればその誤りは明らかになるということなのか?
コミュニケーションの偶然性
脳の中身をdumpしたら偶然他人にも解読できた、みたいなこと?
分析性
ヒュームは、知識を観念の間の関係を表すものと、事実を表すものに区分し、数学的知識を前者と考えたわけだが、これは20世紀の経験主義者が分析性を論じた仕方と同じである。
観念の時代の哲学者が公的言語について論じていたわけではないにしろ、志向性や内包性、分析性について論じていたのは同じなので、それを「意味の理論」ということに問題があろうか?(意味の理論ということでコミュニケーションの理論を意味するなら不満だろうが)
和泉悠『名前と対象』によれば、意味の理論はメタ意味論と関係する。
意味の時代
意義は話者同士で共有されたものというフレーゲの仮定
このフレーゲの仮定は、クリプキからも攻撃された (信念のパズル)。 ただ、クリプキのこの議論は、形而上学的必然性こそ意味なのだ、なぜならそれが話者間で共有されたものだから、というような議論を導いている(っけ?)。この流れは、ハッキングが意味の理論をコミュニケーションの理論と取ることと、一致している。
アンディ・クラーク
"『論理学研究』第一研究の第四章においてフッサールは、「意味」がそれぞれの意味把握の作用、意味志向を個別事例とするスペチエスであることを明言している( Hua XIX/1, pp.)。スペチエスとは、個別事例に共有される普遍者としての、タイプのようなものであるとひとまず言ってよい。
様々な主体が、様々な時点で共有することが出来るようなものとして、フッサールは「意味」というものを考えている。"
モダニズム
行動主義心理学 スキナー
観念は自然記号
フッサールは意味って言ってるからいいとして、フロイトが意味の理論っていうのはどういうことなのか
心理主義批判
心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない
心像を頭の中の絵と考えるのがおかしい可能性
うさぎあひる
心理主義=心像主義でいいんだろうか (心理と言っても色々ありそうだけど。意図とか信念とか。)
少なくとも、心像ではなく「心的能力」などで考える限り、無限後退に関しては生じないだろう。(能力は適用するとかそういうものではないから。)
ウィトゲンシュタイン: 世界の可能性は言語によって決まる
この主張はクリプキにより論破されたのでは
形而上学的可能性は、認識論的なアプリオリ/アポステリオリという概念とは違う
志向性
内包性・誤り可能性
どうして文や心的状態が真であるというだけではなく、間に意味を挟む必要があるか
同じ問いを議論しているのか、違う問いについて言い争っているだけなのかを区別したい、という状況で意味という概念が発明される?
では、知覚についても知覚の内容というものを考える要点は何なのか。
共通の受け取られ方
ハッキングはフレーゲの「意義」を「共通の受け取られ方」と考える。やや奇妙に見えるのは、なぜ内包性などの他の特徴で定義しないのか? (←追記: 内包性なら、様相も満たしてしまうし、因果関係とかもそうなので、意味の定義には使えないでしょう。)
(まあ、共通の受け取られ方が――彼が後に述べるように――知識/信念の伝達であるからには、内包的でなければならないと言えるだろうが。)
共通の受け取られ方とは? 共有知識(ルイス)? サンクションなどで維持された社会規範(後期ウィトゲンシュタイン、ブランダム)? 文化進化(ミリカン)?
ブランダムが人間1人ではダメだというのは、自分自身の裁判の判事になるのがconflict of interestだから?
(そうだとすると、カントがもし文脈原理相応のものを唱えていたなら、カントが言語論的展開の始祖ということになる?)
パトナムらが、直接指示説を支持する動機は共有されているのは指示であって記述ではないから
→では言語的意味の理論としては直接指示説、心的内容の理論としては記述説というのはありか
"ミリカンLBM私訳-2 2.公共言語の擁護 In Defense of Public Language"
チョムスキーは公共言語を否定する
チョムスキーはマージの能力 (を支える遺伝子) が思考に役立ったために広がり、コミュニケーションに流用されるようになったと考えるので、言語のもともとの機能がコミュニケーションとは考えていない。
ジェリー・フォーダーは、意味の時代? 観念の時代?
Holism can’t be true because it’s incompatible with the PUBLICITY of concept
possession; viz. with the possibility—indeed, the dead certainty—that lots of concepts are shared by lots of people. Suppose that everything I believe about Cs is ipso facto a possession condition for my concept C. Then, surely, you don’t share my concept C and nobody else does either.
The point generalizes; since practically everybody has some eccentric beliefs about practically everything, holism has it that nobody shares any concepts with anybody else.
Fodor, Jerry "Having concepts: a brief refuation of the twentieth century"
フォーダーは概念を持つことには公共性があるべきだと言っている
指示的意味の内的種子のようなものがあり、しかし公的〔言語的〕コミュニケーションは共有された指示だけに依存する、という考え方がありうる。この立場は例えば固有名のケースである程度説得力がある。
しかし、記述理論に対するクリプキの反論で何が公的コミュニケーションによって共有されるかということよりも、固定指示詞のような様相的文脈における振る舞いのほうが重視された(?
言語の公共性
パトナムの言語的分業
外在的意味論の支持に使われるのは、たいがい双子地球か私的言語論証かのどっちかだな(←ほんとか?)(それらで使われている外在的の意味が同じなのか)
(意味に関する事実が脳状態にスーパーヴィーンするかというのと、意味される対象が心的かというのは別では)
言語共同体
ブランダム「言語ゲームにおいては野球のスコアのような全員に共有されたスコア記録というものはない」
ミリカン「「言語慣習が従われている集団」というのを循環的な仕方以外で特徴づけることはできない」
バートランドラッセルの直知
ルイスの Conventionによれば、言語を話者や受け手がどういうふうに理解しているかということは共有知識だ
ルイスは「アプリオリ」のような認識論的概念ではなく、「形而上学的必然性」のような形而上学的概念を分析性と同一視しているが、これはコミュニケーションに置いて共有されるものを形而上学的に捉えるべきということか?
目隠し将棋において共有されているもの
The influence of language on philosophy has, I believe, been profound and almost unrecognized. If we are not to be misled by this influence, it is necessary to become conscious of it, and to ask ourselves deliberately how far it is legitimate. The subject-predicate logic, with the substance-attribute metaphysic, are a case in point. It is doubtful whether either would have been invented by people speaking a non-Aryan language; certainly they do not seem to have arisen in China, except in connection with Buddhism, which brought Indian philosophy with it. Again, it is natural, to take a different kind of instance, to suppose that a proper name which can be used significantly stands for a single entity; we suppose that there is a certain more or less persistent being called “Socrates”, because the same name is applied to a series of occurrences which we are led to regard as appearances of this one being. As language grows more abstract, a new set of entities come into philosophy, namely, those represented by abstract words—the universals. I do not wish to maintain that there are no universals, but certainly there are many abstract words which do not stand for single universals—e.g. triangularity and rationality. In these respects language misleads us both by its vocabulary and by its syntax. …
ノーマン・マルコムの夢
文の時代
クワイン (意味論と認識論における)経験主義について
名辞ごとの経験主義(ロックとヒューム)
観念の時代
言明ごとの経験主義(ベンサムから論理実証主義)
科学の全体への経験主義(クワイン)
ここではempiricismが進展してきた五つの転換点が素描されています。
第一の転換点は、empiricismがideasからwordsに考察の焦点をshiftさせた時、第二の転換点は、wordsからsentencesに焦点を移した時、第三はsentencesからsystems of sentencesにshiftした時、第四はthe analytic-synthetic distinctionを放棄した時、そして第五の転換点はnaturalismへ移行した時です。
W. V. Quine “Five Milestones of Empiricism”,
最終章
言葉が登場することを以って歴史において重要なことが起こったと言えるのか?
語源から物事について何か分かるのか?
何の根拠があって?
歴史の断絶
Hayek’s essay, “The Results of Human Action but not of Human Design,”
後知恵で言うと、そのあとの言語哲学で起こったのは「意味から指示へ」「理解の相関項としての意味から状況に応じてふさわしい外延を決定するものとしての意味へ」のような転換であって、「意味から文へ」というような転換は起こっていないのでは。(この本では、クリプキは注にちょっとだけ出てくる)
エヴァンズ、ピーコック、フォーダー (思考の哲学)
It would then seem that Millikan’s main attack is not against Frege’s views,but more probably against Fodor’s, Peacocke’s, Evans’ or other authors. Evans, inparticular, was one of the first analytic philosophers to abandon the Fregean tenetof the linguistic turn, proposing the idea that the analysis of thought (especiallythoughts about objects) must precede the analysis of language, a claim againstwhich Michael Dummett (2013) strongly reacted. Probably also in response toEvans, Millikan develops a use of the term “thought” very distant from the original (and awkward) use made by Frege.
エヴァンズは、言語論的展開のテーゼである「言語の分析が思考(特に物についての考え)の分析に先立つべき」という考えを否定した最初の分析哲学者の一人。
the fundamental tenet of the linguistic turn on which the priority of judgments over concepts is based: the context principle. (p.290)
言語論的展開、「言語と思考の分析上の順序関係」が重要なのか、「文脈原理」が重要なのか、よくわからない。
どっちも?
と比較してみよう。
ウィリアムソンは、まさにハッキングが言うところの「重要でない」「マイナー」な仕方 (言語の誤解から生じる誤りを避けるため) で言語が哲学の問題になるようになったと、言っているように思える。(あとは、望遠鏡に喩えている。望遠鏡?)
つまり、ラッセルが言語が哲学の問題になるのと考えたのとと同じ仕方。
もし最終章のハッキングが正しかったのなら、ブランダムはもっと分析哲学者の間で流行ってたような気がする(?)(実際には流行ってないらしい) (でも、引用数自体は多いらしいけど) こうした状況〔= "この基礎づけ主義を志向しない(と自認される)タイプの「表象主義」は、今日に至るまで英米の分析哲学において標準的な態度となっている"〕は、 おそらくは大陸哲学、 とりわけドイツ観念論との距離の近しさも一因となってプラグマティズムの人気が高い日本においては実感されづらいが、 とりわけ北米においては顕著である。 たとえば、Willamson(2004)では、 現在の分析哲学を自認する研究者たちの多くが「 言語論的転回」すらも、 放棄されるべき過去のものとしており、「形而上学的理論化と実在論の精神」が復権しているという状況が描写されている
ハッキングの予想は、ブランダムにつながる系譜は予言しているが、八木沢敬『分析哲学入門』やウィリアムソンが描くような現代分析哲学とはちがう気がする ちなみに、何かを言う環境 (語用論) が、言うことが可能な内容 (意味論) に限界を設けるかは不明ですが、声が小さすぎて相手の補完に頼らねばならず、相手が補完できないほど予測を外れた内容の言明が不可能という場合はあります
(←この文はブランダムの超越論と語用論の類比っぽい)
むかし主観的観念論が流行ったのは、「心理的な物に関する知識の方が心に外的な物に関する知識よりも (少なくともその自分自身の心に関しては) 安全性(確実性)が高い」と考えられたというのが1つとしてあるはずだ。
一方で、言語には安全性を意味するものがそこまで無いだろう(「観察可能性」を安全性の基準にするなら、観察可能ではあるが)。(しかし分析的知識は安全そう、かつ分析性を言語の問題とするなら、言語の知識の一部は安全そうということになる)
ならば、いかに思考や感覚といった心理的状態よりも言語の方が志向的内容を持った表象の典型と考えられるようになったからといって、「言語的観念論が流行る」とすぐには予想できないはずだ……
とはいえ、実際に言語的観念論というような代物は存在するように見えるけれども
(共有知識・規約から、言語の意味の知識がある種自己保証的であることを言っているのがあり、その場合ある意味安全)
ロビンソンクルーソー科学哲学
人工物が担う知識
もし彼が言うように観念の時代、文の時代がそれぞれの時代の知識について正しいのだとすれば、単に異なるものについて語っているのであり、通訳不能な概念枠とかではない(彼はバークリの章で概念枠と呼んでいるにも関わらず)
ポパーの世界3
ミーム
ポパーの世界3は図書館情報学で人気があるらしい
こうして、我々は今日では、観念をめぐる「混乱した」考察はじつは意味に関する議論にほかならない、と教えられるのである…
注釈家たちが昔の問題状況と今日のそれとの類似性に気づいているのは正しい、と私は主張する。彼らはそこから、第12章V節で見た慈愛と博愛の原理を適用するのである。
もしも彼らが、十七世紀のもっとも偉大な精神を解釈する際に、それらの人々が我々にとって正しいと思われる方法に従って問題を取り扱っていなかったら、それは慈愛の精神にもとるどころか、非人道的なことでさえあっただろう。
〔注釈家たちによれば〕それゆえ、昔のテキストは公共的言説についてはほとんど何も語っていないけれども、本当は意味について語っているに違いない!
…私は文の全盛期に属するものとして書いているので、解釈学や慈愛や博愛といった方向とは逆の途をとって、表面に書かれているものだけを読む。
ハッキング自身、より混乱を押し付けない解釈がもっともらしいとして、慈愛と博愛の原理を適用しているのではないのか?
それとも、もし全般的な真理最大化よりも、整合性最大化 ――つまり「矛盾したことを考えていると推定してはならない」のような原理による解釈―― によって解釈を行うべきと考えているのならば、それはあるベーシックな部分 ("矛盾はだめ"など) が存在し他とは区別されるということで、分析/総合区別を受け入れ、意味の全体論を拒否するということだろう。
それが悪いということもないが、文の全盛期とは関係ない。
むしろ古き良き意味の全盛期の分析総合区別に訴えているのではないか。(「彼ら」の方が全体論的な意味解釈方針を取っている)
"理論"という言葉を辞書で引いた、という箇所でハッキングは出典を示していないが、オックスフォード英語辞典のようである。
In The Greatest Show on Earth I quoted two definitions from the Oxford English Dictionary:
Theory, Sense 1: A scheme or system of ideas or statements held as an explanation or account of a group of facts or phenomena; a hypothesis that has been confirmed or established by observation or experiment, and is propounded or accepted as accounting for the known facts; a statement of what are held to be the general laws, principles, or causes of something known or observed.
Theory, Sense 2: A hypothesis proposed as an explanation; hence, a mere hypothesis, speculation, conjecture; an idea or set of ideas about something; an individual view or notion.
マクルーハン:
雑多
「経験論者にとって言語論的転回とは心理主義から規約主義への転換を意味した」 Hilary Putnam "Convention: A Theme in Philosophy"
確かに、カントの現象と本体の関係なども、意味論的な関係というより、単なる因果関係・相関関係という文脈で扱われがちだよね
リンゴの観念と言葉「リンゴ」の関係がただの因果関係だとしても、リンゴの観念と実際の果物のリンゴの関係は意味論的じゃないの、って感じがするけど、当時の人達はそれもただの因果や相関として扱おうとしたのかも (戸田山和久『哲学入門』が言う、素朴な因果意味論) 「 観念は自然記号」
最終章が示唆しているような、言語ゲーム / 知識の社会化 / 世界3の発展っぽいやつ (雰囲気で言ってる)
アムステルダム大学: 'Dutch School' of philosophers of language, logicians and computer scientists (Johan van Benthem Exploring Logical Dynamics) エルランゲン学派
ロバート・ブランダムの推論主義
理由の空間
ヒンティッカのゲーム意味論
動的意味論
デイヴィッド・ルイスのスコアキーピング(Scorekeeping in a language game)
共有基盤
カール・オットー・アーペルの超越論的語用論
ユルゲン・ハーバーマス
社会存在論