『ワードマップ現代形而上学』
秋葉 剛史 (著), 倉田 剛 (著), 鈴木 生郎 (著), 谷川 卓 (著) 『ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』
この文章は自分の感想であり、本の内容をメモしているわけではない
というか記憶に基づいて書いているので他の形而上学の話とごっちゃになってこの本に書いていないことに対する感想を言っているかもしれない
TODO: あとでチェックする
人工物の章とかが面白かった。
普遍者の束説
普遍者の束説は、述語に対する通常の意味論の主語と述語を反転したものだと考えられるのではないか?
つまり、通常の意味論では述語の意味とは個体の集合である。
普遍者の束説では、逆に個体が普遍者の集合なのだ。
"John runs", "Some boys run", "Every boy runs" を次のように解釈することにする.
run∈John
run∈some boys
run∈every boy
これは述語論理における述語の解釈と逆である (述語論理なら John∈run). これは量子化を上手く扱うために都合が良い.
そうか、普遍者の束説は形式意味論における一般化量化子としての固有名の扱いと類比できるのか
普遍者の束説は関係的性質も束にしてるから、例えばBは〈xはAを親とする〉という関係的性質から成り、Aは〈xはBを子とする〉という関係的性質からなるはずで、この関係的性質はかえってBに依存しているはずで(たぶん)、個物の還元で個物に言及する必要あって、循環してないだろうか。
特に、aを定義するのに〈aと同一である〉という性質に訴える必要があるのは端的な循環ではないだろうか。
循環があっても、個物を普遍者に還元できたことになるのだろうか。
普遍者の束説への反論で、完全にそっくりな(だが離れているなどのため2つの別々な)個物の問題っていうのがあったけど、RPGとかのループしてるマップみたいに自分自身と”離れてる”ことが可能なら (それだと距離空間じゃないけど) 問題ないのではないかと思った。イアン・ハッキングが別の文脈だが同様の論法に対して同じことを言ってたようだ:
Hacking「球が一つしかないけど空間が非ユークリッド的で歪んでる宇宙を考えよう。この宇宙では、空間が歪んでるので、球から少し離れると同じ球のところに戻る。二つ球だけがある宇宙と、一つの球だけがあって空間が歪んでる宇宙の区別はできない」
Adamsはそれに対し、Hackingの主張は常識的直観に反すると述べる。「いやーやっぱり2つの球がある宇宙と1つの球しかない宇宙は別でしょ。両者を性質の面で区別できないなら、性質以外に還元不可能なこのもの性があって、それによって両者を区別できると考えるべきでしょ」
よくわからない常識的直観だ。マップがループするRPGで、1)主人公が無限に居ると考えるよりかは、2)空間が歪んでると考えたほうがむしろ常識的直観に整合するのではないか。
ミスナー空間
https://gyazo.com/f83c6b45e24f40a943b0953196622d13
(出典: ミチオ・カク『パラレル・ワールド』 p.167)
「空間が歪んでいる」と「球が2つある」という2つの"解釈"がでてきてしまうということは、非ユークリッド空間をユークリッド空間に埋め込む2つの仕方があるということから説明できる。
IORefのような参照によって同一性が決まるもの と 値によって同一性が決まるもの
完全に離れている個物の問題について違うという理由を出したいなら、単に(ユークリッド空間の)絶対空間を仮定すればいい気がした。座標を入れれば、違うと言える。数や楽曲などの抽象的な個物については完全にそっくりな2つがもっともらしくない理由も、絶対空間上の位置によって物が個別化されているからと考えれば説明できる。 https://bookmeter.com/reviews/66255072 〔楽曲は作成日時や作成者などあるけど。同じ作者が同じ日に同じ楽譜で記述される音楽を二曲作ることは無いだろう〕 位置が同じじゃないんだとすれば、ライプニッツ則を破ったことにはならない。
ayu-mushi.icon量子力学者は異なる位置にある電子を区別しないので、「このもの性」みたいなものはない
自由意志
大多数の非両立論者はリバタリアニズムに立つ(p.74)って書いてあるけど、リバタリアンとハード決定論者の割合ってこの統計によればそんな変わんなくない…?
https://gyazo.com/7ff515106d4ce605f26d66329c1d6e9e
フランクファート事例は因果的先回りケースに似ている
集合の存在
p.213 集合論 (ZFCのような) の正しさを認めることと、物理的対象を要素とするクラスの存在を認めることの間にはギャップがあるのではないか?
つまり、ZFCが真だとしても物理的対象を含む集合があるとは限らない。ZFCの対の公理を物理的対象にも適用できる、とするのでない限りは。
じゃあ外延性公理を物理的対象に適用するぞとなる
トロープ
トロープは、あるトロープが定まれば、それを備える個体とそれが事例である所の一般的な性質との、両方が定まる (射影のようなものが存在する) という、両方の情報を持っているという意味で、事態や出来事に似た存在者であるように思える。
トロープ説を支持するときに出てくる、草の緑色の固有さみたいな例、絶対に共有できないわけではなく確率的に同じ色であることがありえそうにないのを出してくるのは悪い誘導では
ライプニッツが不可識別者同一律を支持するために、細かく見れば2つのものは違うんだと言ったみたいな
同一性
同一性条件という概念は論理学におそらく対応物が無い。(か?) //存在条件、同一性条件って本文で扱われてたっけ
同一性条件というのはフレーゲの基数の定義や、同値類で作ることと似てはいるが、違う
では同一性条件ってなんなのか (外延性公理みたいな、a=bの必要十分条件を述べたものでは)
同一性というのはものすごく基本的なものなので、同一性をさらに基本的な事実によって説明することなど果たして可能なのか?
同一性は完全に問題のない概念だ。すべてのものはそれ自身と同一である。あるものをそれ自身と同一にするものは何かなどという問題はない。そうでありそこねるようなものは何もないからである。そして二つのものを同一にするものは何かなどという問題もない。二つのものは決して同一ではありえないからである。
Lewis D. K. ,1986, ‘On the Plurality of Worlds’, 192-193
存在依存
「どの存在者がどの存在者に存在依存しているか」を知るには、直感以外に何があるのか? (2つの存在者が持つ何かしらの関係を考えるとか?) (還元やスーパーヴェーニエンスの方が分かりやすい)
存在依存、存在条件などについても、論理学に対応物が見当たらないように思った→いや、存在依存は以下のように可能世界を使って定式化すればよい
PがQに存在依存するとは、
どんな可能世界wについても、P(x)なるxでwの住人であるものが存在するならば、Q(y)なるyでwの住人であるものも存在する
存在依存を可能世界を用いて定式化する限りで、道徳は人間の態度に依存しないと認めてもいいのではないか
「つまり人を殺してはいけないような可能世界では全て、人間が人を殺してはいけないと思っている」というような存在依存は成り立っていない
(存在依存なのか別の依存関係なのか)
ここの依存関係についての考察は、ジョシュア・グリーンの博士論文に出てきた。(道徳は現実世界の我々の感情に依存するのであり、それらの感情が違っている可能世界でも善悪の基準が変わるわけではないという考えがあるらしい)
脚注8
…
If our patterns of projection cause our moral judgments to be what they are (and we’re not just getting lucky when we get things right), then it would seem that the truth of these judgments depends on our patterns of projection. But Blackburn is not happy with this because it makes his view look like something ordinary people would not believe because most people don’t think that the facts about what’s right or wrong depend, in general, on what people think is right or wrong. What’s a quasi-realist to do?
Out of the analytic philosopher’s tool box comes the rigid designator. We can say that moral terms implicitly refer to the sensibilities that we happen to have in the actual world. Thus, when we consider a possible world in which people have different moral sensibilities, ones that we find abhorrent, we can still say that the things we think of as wrong are wrong in their world, too, because the content of “wrong” is determined by our sensibilities and not by theirs.
See Davies and Humberstone (1980).
We will discuss this strategy in greater detail in Section 2.4.3, but for now I’ll simply note that this strategy only pushes the bump in the carpet. Taking the irksome dependence of moral truth on our actual moral sensibilities and packing it into the meanings of moral terms gets rid of the straightforward counterfactual dependence discussed above, but only by introducing a new, equally irksome kind of dependence.
楽曲の存在が作曲行為に存在依存するときの「存在」って、制限量化って説はどうかな。
つまり、あらゆる「ドレミファソラシド休符✕音の長さ✕配置」の組み合わせが存在するんだけど、制限量化されてるから、作曲したやつしか存在しないことになっているみたいな。
(制限量化か、そうじゃないのかをどう判断するのかは知らないけど…)
位置
//形而上学者はなぜある種の存在者が位置を持つかどうかという問いにこだわるのか?
//具体的か抽象的かを位置の有無で区別しているから?
//アリストテレスの時代: 基体が同一性の根拠だった
//カント: 位置が同一性の根拠
//時空位置によって個別化されるから関係ある?
//物体の不可侵入性とかもカントが言ってるな
//ストローソンあたりと関係しそう
遠隔作用に対して、ある物体が存在しない位置でその物体が作用することはありえないと反論する人たちがいる。しかしある位置にある物体が存在すると言うとき、その物体が他の物体に及ぼす諸力がその位置に集中しているということ以外、何らかの意味があろうか?
そもそも存在者に位置を帰属するということのポイントは何なのか
メレオロジカルな本質主義
「全体はそのすべての部分を必然的に持つ」というメレオロジカルな本質主義
メレオロジカルな本質主義はde re様相「任意の複合的対象mについて: ∀x.(x ⊆ m → □(Em → Ex))」(Eは存在することを表す述語)であって、de dicto様相「□(∀x.x ⊆ m → (Em → Ex))」ではない。
前者は自明ではないが後者は自明だろう。
「全ての部分が存在」というのは、量化子ではどう表すべきなのか分からなかったのでとりあえず存在を述語にしてしておく。
Eを「現実である」と読んでも良いかもしれない。
任意の複合的対象mについて、すべてのxについて、xがmの部分ならば「必然的に、mが現実ならばxも現実である」
と、
任意の複合的対象mについて、必然的に、「すべてのxについて、xがmの部分ならば、mが現実ならばxも現実である」
は異なる。
前者は、我々の世界で現に持つ部分について、それがあらゆる可能世界で現実であると言っている(つまりどの世界にもあると言っている)。
∀m. ∀x. ((x ⊆ m at @) ⇒ (∀w. isInWorldOf(m, w) ⇒ isInWorldOf(x, w)))
後者は、ある全体の部分は、その全体がある世界と同じ世界にあると言っている。
∀m. ∀w. ∀x. (((x ⊆ m) at w) ⇒ (isInWorldOf(m, w) ⇒ isInWorldOf(x, w)))
次に――こちらの方がより深刻な問題だが――複合的対象がその任意の部分に存在依存するとすれば、その部分が一つでも欠けてしまえば、複合的対象という全体もまた存在しなくなるということである。
「A氏が存在すれば、A氏の全ての部分もまた存在する」が必然的に成り立てば、その対偶「A氏の少なくとも一つの部分が存在しなければ、A氏もまた存在しない」も必然的に成り立つと考えれば分かりやすいかもしれない。
だがA氏は、彼の部分である片腕を失えば存在しなくなってしまうのか。あるいは、胃の一部分を摘出してしまえば、A氏はもはや存在しなくなるのか。
私達の日常的な信念に従えば、A氏はそれでも存在し続ける。
(p.210-p.211)
これはおかしい。
1. 「A氏が存在すれば、A氏の全ての部分もまた存在する」が必然的になりたつ
2. 彼の片腕はA氏の一部分だ
ならば、
3. A氏が片腕を失ったら、A氏は存在しなくなる
のか?
いや、その場合には彼の片腕はすでにA氏の一部分ではないのだから、前提(2)と(3)の前件に矛盾がある。
つまり片腕を失ったというのは偽なので、前提が偽であり、この条件文は真と主張することはできるが、それはここで意図されていたこととは思えない。
空虚に真というだけなら、
3'. A氏が片腕を失っても、A氏は存在する
も、成り立つ。
(2)が単に成り立つだけでなく、必然的だ と主張することは、論点先取だ。