『モナドロジー』における「実体」
『モナドロジー』における「実体」
『形而上学叙説』第8章の参照
岩波文庫河野与一訳の傍注(三)には『形而上学叙説』の第8章への参照指示が記されている。そして「個體的實體」の定義がなされている部分が引用紹介されている。
ここでの「実体」の意味はアリストテレスに由来する。
『形而上学叙説』第8節ではアレクサンドロス大王がその個体的実体の例として使われている。
36は「事実の真理」にも十分な理由があると述べられている節である。
56はすべての単一実体に他の全ての実体が表されていると述べられている節である。
中公クラシックス傍注(1)ではライプニッツの個体論がスコラ哲学やアリストテレスの考えを取り込みつつ、同時代のデカルトやスピノザの実体論も踏まえているという点が指摘されている。
第1部定義3では「実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの」と定義されている。
ここで「それ自身のうちに在り」・「それ自身によって考えられる」という2つが定義文に出てくることは、アリストテレスの実体の定義に由来するだろう。
だが、『エチカ』では実体が神1つであるのに対して、『モナドロジー』では全てが実体である。
『モナドロジー』の60において、モナドの表現作用がどれくらい明瞭・不明瞭かによってモナド間に違いが出るという話があり、こういった差がなく全て明瞭であるならば、「どのモナドも神になってしまう」という反実的な仮想への言及がある。いわば、ポテンシャル的にはどのモナドも神になりうるが、実際には表現の力について神以外のすべての実体は制約を加えられている。もし、無制約的な実体が2つあったとしたら、神が2つあることになるかというと、おそらくそういうときは、ライプニッツお得意の不可識別者同一の原理が飛び出すのではないだろうか。そうでなくとも、モナドは世界全体を表現しており、モナドの区別はその表現内容によってのみなされるのだから、無制約的なモナドが別々に2つあることはありえない。