『エロスの涙』を読む
エロティシズムは禁忌と侵犯の中にこそあり、それは死と切り離すことができない。二百数十点の図版で構成されたバタイユの遺著。
「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」と自ら述べた奇才バタイユの最後の著書。人間にとってエロティシズムの誕生は死の意識と不可分に結びついている。この極めて人間的なエロティシズムの本質とは、禁止を侵犯することなのだ。人間存在の根底にあるエロティシズムは、また、われわれの文明社会の基礎をも支えている。透徹した目で選びぬかれた二百数十点の図版で構成された本書は、バタイユ「エロティシズム論」の集大成。本国フランスでは発禁処分にされたが、本文庫版では原著を復元した。新訳。
ちなみにこの前買ったブツなので、私は読み進めながら経過を書いていく予定。
第一部の一章までしか読んでいないが、18禁かな?という懸念があったが、大丈夫そうな内容。
バタイユは、単純な性的活動はエロティシズムと異なると言う。前者は動物の生活にあるものであって、人間の生活だけがエロティシズムにふさわしい《悪魔的》な相を規定する活動を現すのである。みたいなことを言う。 で、エロティシズムは死に結びつくんじゃなかろうか、と言う。
死への意識は人間特有なものであって、動物にはない。 死とエロティシズムの結びつきは、ラスコー壁画(の中の有名な鳥頭の男)にも現れてるんじゃないかと言う。 この辺のバタイユのラスコー壁画の必死な解読、好きね。
鳥頭の男の壁画のバタイユの解釈は、「殺戮と贖い(あがない)」 バタイユの取り上げているラスコー壁画の鳥頭の男
これは《井戸の場面》とも言われるようだ
https://vimeo.com/168534924
実は、性活動に対する気づまりな感情は、少なくともある意味では、死や死者に対する気づまりの感情を想起させるのだ。両方の場合とも、《激しさ》が異様にわれわれから溢れ出る。どの場合も、起こることは受け入れた物事の秩序に対して異様なのであり、この激しさは、どの場合も、その秩序に対立するのである。なるほど、死の中にある無作法は、性活動が持っている卑猥さとは異なっている。死は涙に結びついているが、性欲は時として笑いに結びついているのだ。けれども、笑いは、見かけほどに涙の反対物ではない。笑いの対象と涙の対象とは、つねに、物事の規則的な流れ、習慣的な流れを中断するなんらかの種類の激しさに関係するのである。涙は、通常、われわれを悲しませる不意の出来事に結びつくのであるが、しかし、また一方、時としては、思いがけない幸福な結果がわれわれを非常に感動させて、ついにわれわれが泣くに至るようなこともあるのだ。たしかに、性的惑乱は、われわれに涙を流させはしない。けれども、それは常にわれわれの調子を狂わせ、時としては、われわれを動転させる。そして、われわれを笑わせるか、さもなくばわれわれを抱擁の激しさへと縛りつけるか、二つに一つなのである。 第一部まで読んだけど、親しみやすいというか、読みやすい。序文が一番よくわからないので面食らうが。
ぼちぼち読んでるけど、何から書いていいのやら。
労働の章もあったけど、省略。とりあえず労働と道具が人間を動物性から解放するものであったというバタイユの主張は他の著作でも書かれていたことだ。
で、人間は労働を遊びに変えることを知っていてだね、それは芸術の誕生でもある...
古代の、ラスコー洞窟の壁画などはそれの始まりである...
実際、この聖所=洞窟の領域は、本質的に、遊びの領域である。洞窟の中において、第一の地位は狩りに与えられているのだが、それは、絵画の呪術的な価値の故であり、また、おそらく形象の美しさの故でもある。それらは、美しければ美しいほど、効果的なのであった。けれども、洞窟の濃密な雰囲気の中で、魅惑が、遊びの深い魅惑が、おそらく優位を占めたのである。そして、このような意味においてこそ、狩りの動物の姿と人間のエロティックな姿との結びつけを説明すべき理由があるのだ。そのような結びつけは、なんら偏見に属するものではないということに疑いの余地はない。 偶然を持ち出す方が、まだしも道理にかなっているであろう。けれども、なによりも、これらの薄暗い洞窟が、実のところ、深い意味における遊びというものーー労働に対置され、魅惑に服従すること、情熱に応ずることを何よりも先に意味するものである遊びーーに捧げられたということは事実なのである。ところで、概して、先史時代の洞窟の壁の上に彩色されたり素描されたりして人間の像が現われているところに導き入れられている情熱は、エロティシズムである。ラスコーの竪坑の死んだ男は言うまでもなく、これらの像の多くは、男性の場合ならば、立った性器を持っている。女性の像でさえも、明白に欲望を表現している。さらに、ローセルの岩の下にひそんでいる二体の図像は、公然たる性的結合を表している。これら初期の時代の自由は、楽園的な性格を示しているのだ。 この本は第一部、第二部、結論の構成なんだけど、第一部が始まりで、第二部が終わりってタイトルなんだけど、始まってすぐ終わるんだなって感じだ。
❶戦争の誕生
❷奴隷制と売春
後期旧石器時代あたりで戦争が生まれる。で、戦争により勝者が生まれ、敗者は奴隷という時代が始まるんだけど、エロティックな快楽は、社会的な身分や富の所有に左右されるようになってきたんだね。
性生活は戦争と奴隷制によっておかしくなっていくんだね。結婚が、必要な生の役割を保存したんだけど、エロティシズムは虚偽に捧げられるようになるんだね。売春がエロティシズムの正常な道になっていくんだ。
❸労働の優位性
ヘーゲルの話が少し出てくる。多分主人と奴隷の弁証法にまつわる話。戦士ではなくて、奴隷がその労働によって世界を変えたんだよねみたいな話。奴隷が労働によって変えられたって言ったほうがいいか。労働がめっちゃ世界の中心になった。労働の優位性。んまあ奴隷制がなくなった今も労働してないと怒られるよね。で、えーと、いまや、われわれはエロティシズムの問題に取り組まねばならない...... ❹宗教的エロティシズムの発展における下層階級の役割
古代のエロティシズムについて、富のある人たちが結婚や売春で女を所有したりしてても、その役割を担ったのはそういう特権階級の人たちだけでなく...重要なのは無一文の人たちの宗教的エロティシズムなのだ。それは痛飲乱舞的宗教であるディオニュソス信仰である。ディオニュソスの宴に参加した人たちも無一文の人たちだったじゃんね。そいでだね、このディオニュソス信仰はね、古代ギリシャにおいては享楽的なエロティシズムの乗り越えという意味を持ったみたいだ。悲劇の誕生?ニーチェかな、ニーチェと言わんが。ディオニュソス信仰は熱狂的な無秩序の中にあって悲劇的かつエロティックであってだね... ❺エロティックな笑いから禁止へ
ここでバタイユはエロティシズムの滑稽さやら笑いやらの側面について語り出す。エロスの涙について語ることにおいても、笑いを招くかもしれないことが、私にはわかっているのだ......とか言い出す。でもね、エロスは悲劇的やねん。エロスは悲劇的な神やねん。けれども、愛というものは笑いを招くだけに、悲痛やねん。この辺なんか興奮してるバタイユ。で、エロティシズムの土台は性活動やけど、それを禁止したらどないすんねんみたいな話をする。禁止の話だ!ここのバタイユはテンションが高いので、テンションの高さを引用する!
禁止は、おのれ自身の価値を、おのれが攻撃を加える相手に与える。 しばしば、私は、ちょうど排除しようという意図を捉える瞬間に、まさしく逆に、陰険にも挑発されたのではなかろうかと自問することがあるのだ!
禁止は、おのれが攻撃を加える相手に、禁止される行動がそれ自身において持っていなかった意味を与える。 禁止は、侵犯へと引き込むのであって、その侵犯なしには、われわれを誘惑する悪い微光を持たなかったであろう……。まさに禁止の侵犯こそが、呪縛をかけるのである…...。
けれども、この微光は、たんにエロティシズムが放つ微光なのではない。それは、完壁の強烈さ、死が犠牲者の喉を切り裂く――そして、生を終わりにする瞬間にはたらく強烈さが行動し始めるたびごとに、宗教的な生命を照らすのだ。
聖なるものよ!
この言葉の音節は、あらかじめ、苦悩を背負い込んでおり、そこに背負い込まれている重みは、供犠における死の重みなのだ......。
われわれの生は、そっくり、死を背負い込んでいる......。
けれども、私の中で、 窮極的な死は、異様な勝利の意味を持つ。それは、私をその微光に浴させ、私の中において、無限に陽気な笑い、すなわち消亡の笑いを開くのだ!
......。
(長い点線ののち)
もしも、私が、これらいくつかの文章において、死が存在を破壊する瞬間の中に閉じこもらなかったならば、私は、かの《小さな死》について語ることができるであろうか。その《小さな死》においては、私は、本当に死ぬことなしに、大勝利の感情に崩れ落ちることになるのだ!
❻悲劇的エロティシズム
エロティシズムは錯乱の世界で、地獄的な深さを持つものであることに誰も気づいてないとバタイユは言う。バタイユは死とエロティシズムに叙情的な形を与える。エロティシズムは感動的な現実である...だけど同時にこの上なく下劣なものやねん。そういう矛盾的な様相があるねん。その深みは宗教的で、悲劇的で、なお口に出せないもので、神々しいものやねん。この辺の"口に出せない"みたいな言い回しは重要で、バタイユがなぜこのような迂回したような、もったいぶったような言い回しをするのか、それはエロティシズムが簡単に、論理的に説明できる領域ではないからだろう。
❼侵犯と祭りの神ディオニュソス
❽ディオニュソス的世界
宗教的な禁止は、一定の行為を排除するんだけど、その排除するものに価値を与えるんじゃないかって話。そいで時としては、禁止を陵辱し侵犯することが可能であったりする。創世記の禁断の果実もそういった価値を与える話である... んで、祭りはこうした侵犯が許されるイベントであり、祭りの神ディオニュソスは宗教的侵犯の神である。ディオニュソスといえば狂気だが、狂気こそ神的な本質なんだぬ。宗教といえば戒律っぽいが、本質的には、壊乱的なもので法律から外れさせる。それが命ずるのは過度なこと、供犠、祭り、恍惚、絶頂、宗教的エロティシズムゥーー! バタイユは、エロティシズムと宗教の関連性が排除されている現代において、そんなことないねん、むしろエロティシズムはその起源において宗教的な生活に結合されていて、めっちゃ重要やねんと言いたいのである。
エロティシズムの歴史のなかで、キリスト教が持った役割は、エロティシズムを断罪することだよね。
えーと、キリスト教は、労働に好都合だったよね。労働を価値づけたよね。
あと、あの世、つまり"最終"の結果に価値づけして、"瞬間"の価値を取り去ったよね。瞬間の享楽みたいなんに最終の結果に対する罪科と位置づけしたよね。 だけどね、こういうキリスト教の傾向には、引き替え物があったんだ。この断罪によってキリスト教自身が熱烈な価値に到達したんだ。
...
このようにして、キリスト教は、悪魔主義の中へ赴いた(?) キリスト教の否定である悪魔主義は、キリスト教が真実であるに応じて意味を持つよね。
悪魔主義は中世の終わりかそのあとぐらいにある役割(キリスト教のアンチテーゼ的な役割かな?)を持ったけど、その起源のせいで、将来性がないんだ。
エロティシズムは、必然的にこれと結びつけられたんだね。不幸。
最後の文章は、よくわからない。
幸運は、それがなくてはエロティシズムがその反対物たる不幸を結果として持つことが避け難いものであったので、便法としてしか追求され得なかった。けれども、便法を用いることによって、エロティシズムは、その偉大さを失ったのである。それは、欺瞞に帰着してしまったのだ。ついには、エロティシズムの欺瞞は、その本質と見えるようになった。 ディオニュソス的エロティシズムは、ひとつの肯定あらゆるエロティシズムと同様に、部分的にはサド的なだったのだが、この相対的な欺瞞の中では、肯定は、便法を用いながら進んだのである。
改めて思ったのは、反対物とか、対置という言葉が頻繁に出てくる。
そんな感じでキリスト教価値観が中心になった中世では、絵画に導入されたエロティシズムが断罪的なテーマで描かれたんだね。ある意味ここにエロティシズムの登場を許したわけだ。
ちなみに文章量はそんなに多くない。怒涛の図版ラッシュで、この辺りがこの本の半分くらい占めてる希ガス。
個人的に、なんかマニエリスム期に気合いが入ってる気がしたけど、バタイユはマニエリスムとシュルレアリスムに共通点を感じているようで、この辺グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』に通ずるところがあるな〜と思ったんよね。そしたらちょい調べたらバタイユは『エロスの涙』にとりかかる前に書簡で「『迷宮としての世界』を一冊取り寄せてくれんか」てことを言ってたみたいで、興味深いよね。 シュルレアリスムの盛り上がりと軽視されていたマニエリスムの再評価の流れは年代的にはわりと被ってるようで、ホッケとバタイユの共通意識は時代的なもんもあるのかもしれない。
で、ここらへんのバタイユの絵画選びが、めっちゃセンスええなあって感じで。画家の有名どころは選んどるんやけど、選んどる絵画がええねん。マニエリスム期の画家はよう知らんし勉強になるわ〜で、カラーで読みたいわな、これ。
で、最後に結論に入る。
I.魅惑的な人物たち
の章で、意識の話をするのだが、ここバタイユ的で難しい。だけどたぶん重要。またあとで読み直しかも。
どこかでキリスト教について「あの世、つまり"最終"の結果に価値づけして、"瞬間"の価値を取り去ったよね。瞬間の享楽みたいなんに最終の結果に対する罪科と位置づけしたよね」
と書いたが、バタイユはここでただ"瞬間"の継起のみが、おのれを照らし出すと書いている。 ある明確な瞬間の意味が一挙に現われることがあり得るであろうか。固執するまでもないが、ただ瞬間の継起のみが、おのれを照らし出すのである。一つの瞬間は、諸瞬間の総体との関連によってしか意味を持たないのだ。諸断片を他の諸断片に関連づけないならば、われわれは、その都度、意味を欠如した断片にすぎない。どのようにして、われわれは、完結した総体へと送り返すことができるであろうか。
さしあたって、私にできることは、私が提起したすべての見解に、新しい見解を、そして、可能ならば、最終的な見解を付け加えることだけである。
私は、ある総体の中に入り込んで行くことになるであろうが、その総体の凝集性は、最後に私に対して現われ出ることができるであろう......。
この動きの原理は、ただ直接的な意識だけしか与えられていない明晰な意識の不可能性である。
むう。
ここは読み直してもよくわからんかった。また機会があれば。
結論で扱われているのがブードゥーの供犠と、中国の死刑なのだが、ここの写真はグロなので、注意が必要である。 ここでバタイユが語るのは、強烈な供犠にある恍惚と、宗教的世界で名称される聖なるものである。 また、宗教的恍惚とエロティシズムーーとくにサディズムーーとの関係を明らかにしている。 バタイユ自身がこの写真を見て感じた、神々しい恍惚に極度の恐怖を対置する完璧な反対物の同一性である。 バタイユの意見では、エロティシズムの歴史の避けがたい結論は、このような反対物の同一性である、ということである。付け加えて、このような同一性は固有の領域ではなし得ず、供犠を基盤としているが、それは迂回によってのみ反対物が結びついた姿で現れる瞬間に接することができるんちゃうかと結んでいる。
この本は全体的にバタイユの文章量は少ない。
過去にバタイユが著作に書いてきたような解説が書いてなかったりする。
例えば 『エロティシズム』にあった、人間のエロティシズムの起源が「失われた連続性へのノスタルジー」にあるとかは語られていない。消尽だっけ、あの辺についても書いていない。道具や労働の解説など『宗教の理論』に比べてもあっさりしている。 なぜ書いていないのかはわからないが、この本はある事柄について、論証的に、文章を連ねていくような書き方になっていない。図版と共に、というのも特徴だが、図版と共にバタイユが書いていく書き方であるが、それは論証でない、解説ではない。
本書において、バタイユは、誠実さに息切れしている。そこで、バタイユは、書きながら考えるという、書くことと考えることが別のものではないという彼本来のスタイルに戻っている。論証的言述は、文学的エクリチュール(もちろんエクリチュール自身を否定するエクリチュールという意味で)に席を譲っている。これは、エクリチュールが、エロティシズムと同じところで《死》とつながっていることを考えれば、当然のことである。書くとは、本来、論証的言述から逸脱することなのであり(「遠ざかる」というバタイユの言葉は、実に正確だ)、論証的言述の役割は、たとえばピエール・クロソウスキーの小説に見られるように、論証の模像として、エクリチュールの快楽を高めるために奉仕することにあるのだから。 複数のバタイユがいるのだろうか。否。複数のエクリチュールがあって、それらが戯れあうテクスト上の空間を、仮にわれわれかバタイユと読んでいるだけなのである。
以上