「現実の自分」と「理想の自分」との乖離
メサイアコンプレックスを持つ人やモラトリアム人間、神経症的な人たちは、「現実の自分」と「理想の自分」とは乖離している。
アイデンティティが確立されていないため、何が自分に見合った生活であるかという基準がわからない。
社会がその人に期待する役割を果たす人は、社会から尊重される。
人は誰でも社会から何かを期待されている(役割期待)。
ところが、その期待されている役割と違った役割を果たそうとし、周囲の人から嫌がられる。
周囲と揉めることの多い人は、たいてい周囲の期待する役割と違った役割を演じようとしている。
しかし、周囲はそれを望まない。そこで本人はいつも不満でイライラすることになる。見合った生活の基準を間違っている。
「こうなりたい」という自分が「理想の自分」であり、「なんで自分はこうなんだ」という自分が「実際の自分」である。
理想と現実の自分が乖離していると、「なんでオレはダメなんだ」という自己蔑視になるだろうし、思うようにならない自分に対する怒りにもなる。
自らのふがいなさを嘆きながらも、「こうなりたい」という「理想の自分」への執着を捨てきれない。
そして「こうでなければならない」という強迫感に悩まされることになる。内から「こうしなければ、こうしなければ」とせかされる。これが強迫感である。
「こうなりたい」という願望があまりにも強くて、「理想の自分」への執着を捨てられない。どうしても「実際の自分」を受けいれることができない。
そして、この強迫感が「不安な緊張」といわれるものである。
人がリラックスできないのは、この強迫感があるからである。リラックスしようとしても内的に強迫されているから、どうしてもリラックスできない。
「実際の自分」に現実感がないということは、その人に生きる基準がないということである。
つまり、どこまでいっても満足しない。
したがって、お金を持っても、権力を持っても、有名になっても「もっと、もっと」になる。
カレン・ホルナイは、「実際の自分」と「理想の自分」との乖離という言葉を使っているが、現実感覚としては「理想の自分」しかないということである。
それは永遠に満たされることがない理想像である。
人が「理想の自我像」の実現に執着するのには三つの原因がある。
一つは、「実際の自分」に現実感がないから。
次は、愛情飢餓感である。幼児的願望を抱えており、なんとしても人からチヤホヤされたい。→自分を認めてほしいという欲求
最後は、復讐的傾向である。幼い頃の心の傷を癒したい。それはカレン・ホルナイのいう神経症的野心となって現れるものである。  
もちろん、この三つは根本のところで深く関わりあっている。
彼らは、「理想の自我像」を実現することで過去の心の傷を癒そうとしている。
また、彼らは内面の問題を外側の名誉や権力で解決しようとしたところに間違いがある。
「実際の自分」をどう感じているかは、その人の内面の問題である。
「実際の自分」は価値がないと心の底で感じていれば、その人の内面を変えないかぎり幸せになることはない。
「実際の自分」をどう感じているかということが、その人の行動に影響を及ぼす。
自分を臆病な価値のない人間と感じていれば、立ち居振る舞いは自信のないおずおずとしたものになる。
名誉のある自分であろうが名誉のない自分であろうが、その自分を否定的にイメージしてしまうということが問題なのである。
「なりたい自分」や「理想の自我像」の実現に執着する人には、基準がない。うつ病になるような人にも、基準がない。
そして、基準が持てなくて頑張りすぎる。
このような子が大人になるとどうなるか。大人になっても無理をして、「ここまでできる」と言う。
無理をしている人ほど、認められたい。しかし、期待するほど認められることはない。そこで不満になる。憎しみを持つ。
こういう人は、人がなんと言うかが気になって、自分でイエスともノーとも言えない。
→なぜ実際の自分ではいけないのか?
参考:『自分のうけいれ方 競争社会のメンタルヘルス』