「ドルトンの印象法則」
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柏書房『夕暮れの草の冠』収録
全体を通じて、Dolton の法則(分圧の法則)の文章に関するアナロジである“ドルトンの印象法則”なる法則についての話
情報学的エントロピー(シャノンエントロピー)と熱力学的エントロピー(ギブスエントロピー)のアナロジ
これは確からしい
印象(impression)と圧力(pressure)のアナロジ
これはどうだろう。ギャグにはなっているが、関係性をきちんと数学的に示せるか?
ドルトンの印象法則を仮定することで印象と圧力のアナロジを半ば公理として認めている
いろいと考えたが、この作品に議論は無理筋くさい
印象なるものの定義が混乱しており、オチで日常語の印象とわざと混淆させることで、マクロな系の操作によるミクロな系の操作の実現を強調する形をとっている
多分、印象という命名が適切ではないと思う
とはいえ、マクロな系である文章テクストをマクロな系を扱う熱力学で扱うことによって、ミクロな系の操作を実現可能であるという主張には一定の説得性がある
そもそも、異なるテクストとはどういうものだろうという議論がこの作品の前に隠れている。
その文章テクストが載っている媒体が少しでも違えばそれは異なるテクストであるという、ある種過激過ぎる主張をしていたのが「梅枝」であり、本作はその対極 つまり、文章テクストを構成する各純粋テクストが変化しないならば、それらのテクストは全て同一であるとみなす
熱力学的に極めて厳密に文章テクストを捉える試み。
ドルトンの分圧法則
理想気体の混合気体の圧力は、各理想気体の分圧の和に等しい
ドルトンの印象法則は、これをテキストという理想混合文章のを構成する各理想純粋文章に対して読み替えただけのもの。
(理想)気体の状態方程式
$ pV = nRT
p:理想気体の圧力
V:理想気体の体積
n:理想気体の物質量
R:理想気体定数
T:理想気体の温度
分圧則の導出
理想気体の状態方程式$ pV = nRTを認めて議論する。
全体積$ Vの容器を$ V_A , V_Bに分割し、それぞれに圧力$ pの理想気体A, Bを封入する。また、系の温度は$ Tで常に一定である。
このとき、気体A, Bそれぞれの状態方程式は、
$ \begin{cases} p V_A = n_A R T \\ p V_B = n_B R T \end{cases}
容器のしきりを外して各気体を自然に混合させると、状態方程式は、
$ p (V_A + V_B) = (n_A + n_B) RT
$ (V_A + V_B) = Vとして、
$ p = \frac{n_A R T}{V} + \frac{n_B R T}{V}
右辺の項は、それぞれ気体A, Bが全体積Vを占めたときの圧力に等しい。
この圧力を、気体A, Bの分圧という。
各気体の分圧の和が全圧$ pに等しいことも分かる。
これを、ドルトンの分圧法則(以下、分圧則)という。
分圧則:混合気体の圧力は、各純粋気体の分圧の和に等しい。
本筋
ドルトンの印象法則は、熱力学におけるドルトンの分圧法則を、文章という系に対して適切に読み替えたものである。
ドルトンの印象法則から、変化の前後で各文章が保存されるならば、その文章全体に対して読者が得る印象は保存される。
$ i = R_1(t_1) = R_2(t_2)
ここで、テクストは変化しているのだから、$ R_1 \neq 0かつ$ R_2 \neq 0の条件のもとで$ R_1 \neq R_2が成り立つ。
つまり、ドルトンの印象法則を認めるならば、テクストの操作によって読者は変容する。
一応書いたけど、文意が混乱するのでやり直したやつ
(最後の矛盾は、日常語と混同するように印象という言葉を定義したために起こった意図的なもので、その流れに乗って解説を書くと余計に読者を混乱させてしまう)
本作は、“ドルトンの印象法則”という法則を導入し、読者とテクストの関係性を簡単に考察する作品である。
この“印象法則”は、熱力学において Dolton の分圧法則と呼ばれているものを、理想混合文章なる系へ読み替えて得られる法則である。“印象法則”は、理想混合文章の変化の前後で各理想純粋文章が保存されるならば、各理想純粋文章の印象の和である理想混合文章全体の印象が保存されることを主張する。読み替え元の分圧法則が正しいことから、“印象法則”の主張は確からしい。
作中では、宮沢賢治の詩集『春と修羅』序文の各文字を入れ替えたものを、より乱雑なものから多少文意が通るものまで複数パターンを順番に提示する。これらの文章を読んだ読者は、同じ理想純粋文章から構成される理想混合気体から得る印象が、不明瞭なものから明確なものへと変化することを発見する。
しかし、“印象法則”によれば、系の各理想純粋状態は保存されているので、それぞれの文章から受ける印象もまた保存されなければ(一致していなければ)ならない。
"青い証明"
もちろん、「Boy's Surface」に登場したトルネドのこと。ある主張をもとに、定理を自動的に証明するなにか。元から思考を生成する"射"に相当する。 読書とは、トルネドを媒介としたテクストと読者との相互作用として理解される。テクストと読者はトルネドを通じて1対1関係にある。印象は、テクスト-トルネド-読者から構成される。
一般に、テクストは変化しない。(なぜなら、紙に印刷されて不変であるから)
読者が変容するとき、テクストに変化はないが、トルネドは変化し、もちろん印象は変容する。
例えば、「梅枝」「かな」が挙げられる。これらの作品では、テクストは変化しないが、読者が変容した場合の議論を展開している。 印象が不変であるならば、トルネドと読者が変化する。
テクスト保存則の下で、読者の変容が許されることが示された。
p33「さてここに現れるのは、〜」
これで終わってはただのつまらない議論。ドルトンの印象法則によれば、任意のテクストについて、各純粋テクストの総量が保存されるのならば、系の変化の前後で印象は保存される。すると、面白い現象が考えられる。
印象が変化しないとき、読者が変化しないとすると、トルネドとテクストは変容する。
要するに、本作では、4つのパラメータ(印象、トルネド、テクスト、読者)をもつ読書という系について、ドルトンの印象法則より、その変化の前後で印象が保存量であることに注目して議論を展開している。
読書という営みは、作者の提示した文章と文章を読む読者との間に生じる相互作用である
さまざまなところで読書を相互作用として捉える素振りを見せている
たとえば『ヱクリヲ』でのインタビューとか
それこそ、内部観測への執着はここに起因するものであろ 僅かな操作を積み重ねて話を進める様は,ラッセル-ホワイトヘッド『プリンキピア・マテマティカ』における僅かな証明ギャップすら許さない姿勢を連想させる