「ガベージコレクション」
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"読まれる"だけのテクストなどあり得ない
もし"読まれる"ことを許すのなら、それはまた”読む”ことをしなくてはならない
円城塔作品では、テクストがあなたを読む!
ロシア的倒置法
読書という営みは、テクストと読者、そしてそれらの間の相互作用によって記述される
回答だけが先にあり、それがどのような問題に対しての回答なのかを遡求的に回答する問題。
例えば、42の逆問題は、
「40 + 2」
「6 × 7」
「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」
文芸作品を解釈すること、というか俺が今やっていることは円城塔の各作品の逆問題とも言える。
「投げられてある」ものを、我々はどのようにして理解するか
「投げられてある」ものは、過去から断絶され、ただそこにある存在である。
一般に、終状態にある存在の観測のみを許す「投げられてある」ものは、それがどのようにしてそこに「ある」ようになったのかを知ることは出来ないが、物理学的には、それがどのようにして「ある」ようになったのかを知ることが出来るような場合がある。
例えば、作中にもあった煉瓦の壁。一見何も情報がないかもしれないが、その構成する煉瓦やセメントにかかる応力を調べることで、その煉瓦たちがどんな順番で積み上げられたかを知ることが出来る。
これが可能なのは、始状態から終状態に向かう"熱力学"的過程が異なるため。同じ始状態から終状態に遷移することを考えたとしても、その過程が"熱力学"的に異なる過程を経ているならば、"熱力学"的な痕跡が残る。これによって、その終状態がどのような過程によって遷移したのかを、ある程度まで知ることが出来る。
可逆計算
可逆計算とは、字面通り、未来にも過去にも計算を進めることが出来る計算。一般の計算は不可逆的(得られた結果から元の数式を求めることは一般に困難)だが、全ての計算は可逆な系で実行可能なことが示されている。
計算はエネルギーを必要とするか、という話があり、結局計算そのものはエネルギーを消費しないというのが結論。しかしながら、情報を喪失するような操作によってエントロピーは増大する(Landauerの原理)ので、情報を喪失する操作を伴う計算はエネルギーを消費する。
エントロピーが増大するということは、すなわち時間の流れがあり、時間逆行が禁止されることを意味する。
時間の正体とは、忘却である
時間の流れ、すなわちエントロピーの増大は余剰な計算が破棄されたことに起因する。つまり、何かを行なって、何かを忘却したことによって時間が生じる。
円城塔作品に頻出する忘却というテーマは、時間と表裏一体のものであることが本作で明確に断言されている
自閉症患者の時間認識には、時間の流れというものがないという話もある 任意の時間を等しい強度で記憶しているため、各記憶間の時間の順序がつけられないのだとか
"全て"を一つ一つ知っていることは、総体としての全てを知っていることと等価ではない。
p147「何かが理解可能であるかどうかは、科学の範疇には属さない。」
本質的。円城塔作品は理解不可能なものによく取り組むが、結局理解不可能なものが原理的に理解不可能であることを確認するなど、理解出来ることの辺縁をなぞるようなことしかしていない。
別にこれが悪いと言っているのではなく、むしろ原理的に理解不可能なものをあたかも理解可能であるかのように振る舞うなどの行為をしていないために良心的であるともいえる
同「原理的に理解できないものに対しては,〜」
多くの物理学者はこれに同意するだろう.物理学的に扱える範疇のものを物理学的に扱うのが物理学という科学であり,物理学の範疇にないものは科学ではないとする
”意識”とか“絶対時間”とかね
化学,生物学とかを科学ではないと言っているのではない.物理に還元できない,数学で定式化できない,実証のための実験を構成できない,という実証不能な知的体系は(物理学の感覚からすれば)科学的でない,という意味
一時期話題になった谷村ノートでは,物理で扱えないものは物理でないし,科学としてすら扱わない,という態度が一貫している
これに対して,科学哲学者の伊勢田哲治は以下のように述べる
でも、現在主義は実験や観測には原理的にかからないような世界の基本的なありかたについての立場なので、「この世界とは無関係」ではないだろう。
これはかなり意味不明な主張に思える.実験や観測に原理的にかからないのであれば,それはないことと等価である.ここで,等価である,と言い切れる厳密性こそが物理学が科学である所以であり,科学が科学であるために必要なことではないか
円城塔は,観測不能なものはあるし,それは自由に振る舞うのだが,観測不能かつ他の部分に寄与しないため,あってもなくてもよいし,だからこそ自由に振る舞うのだ,という旨の主張を繰り返し述べている
円城塔は,科学であるか,科学ではないか,という分別に極めて敏感な作家であり,円城塔なりに許せる範囲で法螺を吹いている
p148~9「どんな評価法に対しても、〜」
ゲリマンダー?
p162「ならば、全てのログを保持しておけば良いのでは、という意見には問題があることが早晩知られた。」
Maxwell の悪魔の議論の話。
計算そのものはエントロピーを増大させないが、計算の途中で発生するゴミを廃棄するときにエントロピーは増大する。これを防ぐために、どのデータがゴミかを判別してゴミを保存するようにすれば、エントロピーは増大せず、可逆計算が構成されるのではないかと考えた。
しかし、ゴミをゴミとラベリングすること自体がエントロピーを増大させてしまうということが判明した。
つまり、系の情報が熱力学と密接な関係にある、より正確にいうならば、熱力学は系の情報を扱う理論であることが判明した。これによって、熱力学と情報理論が統一的に記述されるようになった
これは科学的事実であり、小説の中の話ではない。このような理論を情報熱力学という。
p163「どちらも相手にとってはゴミと見え、あるいはどちらから見ても計算となるような仕組みを考えてしまえば良いのでは。」
なんか自己言及的になってきたぞ
なんてことはなくて、これは可逆計算の初歩の初歩の話。
詳しくは森田憲一『可逆計算』p.15-16を見よ。
p172「ポアンカレの十二面体が、この宇宙の形として検討される〜」
同「カシミール効果」
真空中に微小な間隔で置かれた2枚の金属板の間に引力が生じる現象のこと。現在確認されている物理現象の中では、唯一負のエネルギーが生じる現象として非常に有名。
自然数の無限和 $ 1 + 2 + 3 + ... = -\frac{1}{12}の実験的証明としても知られる。
一次元スカラー場のカシミール力をゴニョゴニョすると定数項としてこの自然数の無限和が残り、これの符号が負であることから、カシミール力は引力であることが数学的に予言される。
実際、カシミール力は引力であり、自然数の無限和はこの宇宙において上記の通り実装されていることがわかる。
無限というものが非常にタチの悪いものであるということでもある。 同「超現実数」
コンウェイ、天才か?
p175「思考可能なものは、実現される。」
作中でも繰り返されてきたが、これは物理学における暗黙知のようなもの。
物理学的に可能な事物は、必ず実現される。
同「それらのうちの九割九分九厘が下らなくつまらなくクズ同然の代物〜」
「SFの9割はクズである。しかしながら、あらゆるものの9割はクズである」
同「実現される全てのものが、記述可能であるという保証はどこにも存在していない。」
同「もしかして安定でさえない記述さえも、いつか書き記すことのできる日が来るのかどうか、今の私に言えることはそう多くない。」
これが、円城塔の追い求めている、“語り”の技法なんだろうな、と思う。
同「結局のところ我々は、自身と自然に拘束された、操作可能なつまみに触れることができるにすぎない」
真理。われわれの記述可能なものはずばり内部観測によって制限されていると指摘した箇所。