ボードゲームの教育利用に対する、ひとまずの懸念
まず、こどもと公教育の視点から。
学ぶことは「退屈」です。
——という内容が以下の対談の芦田の主張(なおサムネイル画像は対談相手の本間)。
https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws
「楽しい学び」は「交通事故ビデオ」
運転免許の更新時に見せられる、ショッキングな交通事故の映像。それを見た直後は、誰もが「もう二度とスピード違反はすまい」と心に誓います。しかし、その効果は長続きしません。強い刺激は、一瞬、目を覚まさせはするものの、永続的な知性や徳性を育むことはありません。
その場が「盛り上がっている」という光景は、本当に「学び」が起きていることを保証しません。
学校は「退屈」でなければならない。
ではなぜ、このような「楽しい学び」が、特にこどもの教育において問題なのでしょうか。
それは、人間という存在が持つ、特殊な本質にあります。
ポルトマンは、人間が他の哺乳類に比べ、極めて未熟な状態で生まれてくることを「生理的早産」と名付けました。 馬や牛が生まれてすぐに自力で立ち上がる(自立する)のに対し、人間の赤ん坊は、他者の全面的なケアなしには生きることさえできません。 しかしポルトマンは、この「未熟さ」と「依存」こそが、人間を人間たらしめる最大の強みだと考えました。
生まれてすぐに自立して、自分の力で食べていけるようになる必要があるのがヒト以外の動物です。
本来なら胎内で過ごすはずだった約一年間を、人間は、親や共同体という「社会的な子宮」で過ごすことで、生物学的なプログラムだけでなく、文化や言語といった、後天的な知を深く吸収する時間が与えられます。 「依存度が高いほど、文明化の度合いも高まる」ということです。
しかし、この「社会的な子宮」は、子どもを守る温かい養育の場であると同時に、その家庭や地域が持つ、特定の価値観や文化資本を色濃く反映する場でもあります。もし教育がこの最初の共同体に完全に委ねられてしまうなら、それは「育ちの運」による格差を、そのまま再生産することになってしまうでしょう。 近代的な学校教育とは、この「社会的な子宮」の役割を、家庭だけでなく社会全体で担おうとする、極めて倫理的な発明でした。
それは、こどもを、利益や効率を求める「市場社会」——有用性、役立つこと、儲かること——の風雨から保護すると同時に、生まれ育った家庭や地域という最初の共同体からも、一時的に引き離すための、特殊な「モラトリアム(支払い猶予期間)」です。
そして、その学びを保証するために、学校において、こどもたちを社会から物理的に隔離する必要がありました。
なぜなら、私たちは、特に未熟な時期においては、目先の「役に立つこと」「儲かること」「楽しいこと」といった、外部からの誘惑に抗うことが極めて困難だからです。
そのような「こども」を、社会へと早産させて有用性にさらすことの意味を、ここで問うています。
このような理由から、学校には校門と塀が存在します。
ちなみに、市場社会の誘惑に打ち勝つことができる、つまり校門と塀がなくても学ぶことができる人は、主体をもつ成人です。あるいは、もしこどもがそうなのだとしたら、それは家庭環境や地域が裕福であり文化資本に恵まれていたということです。
こうして、こどもを教室へ強制的に閉じ込め、社会とは切り離された「退屈」で「長い」時間の中で、体系的な知識のストックを授ける。この強制的で非人間的にも見える仕組みこそが、家庭環境という「運」の要素を可能な限りリセットし、社会的な流動性を担保するための、倫理的で極めて「人間的」な社会装置です。
ボードゲームの導入は、この倫理的な装置を破壊する。
この「退屈」な授業の代わりに、「楽しい」ボードゲームが導入されるとき、何が起きるでしょうか。それは、こどもに与えられた貴重なこのモラトリアムを、再び市場社会の論理で汚染する行為に他なりません。
第一に、評価の尺度が、客観的な知識から、「コミュニケーション能力」「主体性」「意欲」といった、曖昧で測定不能なものへと静かにすり替わります。
結果、勝利するのは、文化資本に恵まれた家庭の子どもや、社交性を家柄や地域社会経由で身につけたこどもだけです。 一見すると時代にあったかのような遊びの場は、実は、最も残酷な形で「育ちの運」を再確認させ、こどもたちを「能力」の名の下に序列化し、不平等を固定化する装置へと反転させます。 こどもは、消費者でもお客様でも無いのですから、「より楽しい方」とか「興味があること」を選ばせてはならないのです。
第二に、そしてより深刻なのは、それが「何を学ぶか」という知識の内容を軽視し、「いかに学ぶか」という能力のみを賛美する、倫理的に危険な思想を助長する点です。
その意味で知識は、「思考力・判断力・表現力」「主体性」などと対立しているのではなくて、それらを担っているわけです。知識の強度が高まれば高まるほど適用の強度も高まる。「思考力・判断力・表現力」「主体性」「創造性」などが衰退しているのだとしたら知識の強度が不足しているのが原因であって、その衰退は「自己表現力」授業、「アクティブ・ラーニング」授業を導入することによって解決などしない。 オレオレ詐欺や振り込め詐欺に専念している若者たちは、「思考力・判断力・表現力」「主体性」が充分あるわけです。赤の他人にお金を出させるまでに喚起力のある「思考力・判断力・表現力」「主体性」 ——もっと文科省が好きな言葉を上げれば、「多様性」「協働性」など——があるわけですから。 何を学ぶのか、ということと切り離されたコンピテンシーモデルとしての「思考力・判断力・表現力」「主体性」に拘泥すると、こういったオレオレ詐欺や振り込め詐欺の能力とそれらの「真の」意味とを区別することが難しくなります。道徳、情操性、社会性、人間性というのも、同じようにコンピテンシーモデルの一種ですから、知識の内容(オブジェクト)と切り離してしまうと、好き勝手な思い付きの断片を事例主義的に集めて、研修屋みたいな授業を学校教育の中でやってしまうことになるわけです。これは〈知識〉の相対化ではなくて、軽薄化でしかありません。現にその種の授業を担っている先生たちは、片手間にしか、あるいは経験主義的にしか授業準備できないわけです。前掲書 こう芦田が指摘するように、「思考力・判断力・表現力」といった能力は、それ自体では価値的に中立です。
特殊詐欺の実行犯も、闇バイトを組織できる者もまた、極めて高い「思考力」や「協働性」を発揮します。
「何を」という知識や倫理の土台から切り離された「能力」の称揚は、論理的に、反社会的な行為さえ肯定しかねない危うさを孕んでいることを、もっと自覚すべきです。
これらを、「寝てるよりマシだろう」とbehaviorから判断していいんでしょうか。 私が、「教育を楽しくやりたいという意見の人は、(自分はnot for meだが)好きにしたらいい」ではなく、このような教育に対して、倫理的に「悪い」と述べるのがこのためです。 さらには、ここで言う「退屈」とは、教わる内容が「つまらない」という意味でさえありません。
むしろ、本当に難しいことを、それを伝えられる優れた教員から学ぶ時間は、学習者にとって「寝ていられないほど面白い」ものであり得ます。
簡単なことを繰り返すのではなく、難しいことに挑戦し、それを理解できた瞬間の知的な興奮こそが、本来の学問の「楽しさ」であり、「退屈」とは程遠い時間です。
ボードゲームなどによってもたらそうとする安易な「楽しさ」は、学習者の可能性を否定し、小馬鹿にしているとさえいるでしょう。
知識の獲得は楽しくないとでも言いたげですものね。
そもそも、コミュニケーション力や意欲や多様性を教える側である社会人がその能力を伴っていないではないか。なにしろこれらが100点満点にどれも仮に伴っていたとしたら、きっと有名な政治家なり、大企業のトップなり、あるいは大犯罪者として名を馳せているでしょうから。
系統だった知識は単純な暗記では把握できず、本当に理解しているかをペーパーテストによって判定できるし、同時に、ペーパーテストの結果によって教員がその彼/彼女の持つ専門領域の知識を、学習者にどれだけ理解させることができたかの指標にもなるでしょう。
これ以外の教育指標を持ち込むことの危うさを、「教えること」に携わる者はくれぐれも理解しておかねばならないはずです。
以上はこどもと教育の話を、基本的には芦田の議論を援用しながらしてきましたが、そろそろこの議論から離れて成人の話へ移ります。
次に成人を教育の対象とする場合の視点から。
まず、成人を対象とした教育の場は——先に論じた、こどもを対象とした場と異なり——、学習者は自立した主体を前提します。
企業研修や生涯学習講座などがこれに相当。
まずこの点に注意。詳細は上記ページの通り。
例えば、ゲームのカードに「同僚に助けを求める」と書かれていたとしましょうかね。
プレイヤーがそのカードを使うことは、あくまでゲームのルールに従った「記号の操作」に過ぎません。
現実の職場で「同僚に助けを求める」という行為が、いかに複雑な人間関係、葛藤、プライド——これも大切です——、そして無数の文脈に満ちているか。ゲームは、その現実の重みを、あまりにも安易に捨象します。
この捨象は、時に残酷なまでに無神経です。
「古株の社員を解雇する」という選択が、ただの経営判断としてカード化されたり、「チームメンバーがうつ病で休職する」という一大事が、単なるマイナス効果のイベントとして処理されたりする。それはもはやシミュレーションですらなく、現実の苦難に対する冒涜的なまでの単純化です。
この単純化された「シミュレーション」を、現実の写し絵であるかのように語ることの危険性は、上のページで書いたハイパーリアルそのものです。 場には二種類の「目的」が存在する
成人教育の場において、主催者は、通常、二つの異なるレベルの「目的」をもちます。
一つは、参加者を募るために、外部に向けて提示される「目的」です。
「このゲームを使って、チームで課題解決に挑戦しましょう」といった、参加者が「これなら参加してみたい」と思えるような、魅力的な目標——だと主催者が見込み参加者に対して推察するもの——が、こちらの目的です。
もう一つは、主催者が内心に秘めた、その場を催すための根源的な動機や願望であり、ないしは、その主催者の個人的な問題意識や目的意識です。
「この時間を通じて、受講者の固定観念を揺さぶりたい」とか「楽しくてかけがえないのないと思ってもらい、またこのメンバーで集まりたいと感じて欲しい」など――これらは、参加者と共有されることを前提としない、主催者だけの私的な願いです。
この二つの目的は、通常、一致しません。
むしろ、もし一致しているならばその場の意義が成立しません。
二つの目的に差異があるから、主催者はこの場を主催する意義があり、同時に、参加者はこの場に参加することに同意する意義があるのです。
この一致のしなさが、成人教育の場独特の創造性を喚起します。
合意なき「成長」の強要という、倫理的越権
問題は、主催者が、自らの個人的な欲望を、参加者の同意なしに、しかも暗黙に叶えようとするときに起こります。
参加者は、「ボードゲームを楽しむ」という、表向きに提示された「目的」に合意して、その場にいます。
しかし、主催者がその合意の範囲を超えて、例えば「彼らを成長させたい」という個人的な動機に基づき、参加者を特定の方向へ「導こう」と介入を始めたとしたら、どうでしょうか。
それは参加者からすれば、予期していなかった、一方的な心理的アプローチです。
例えば、ゲームの勝敗を度外視して、特定の行動(「同僚に助けを求める」カードの使用など)を過度に称賛したり、プレイ後の「振り返り」と称して、ゲーム内での安易な決断を、現実の職場でも適用できるかのように語ったりする。
あるいは、参加者の内面を本人の意図以上に深く探ろうとしたり、あるいは、求められてもいないのに代わりに先回りして言語化したりする。
これらの行為は、たとえ「あなたのためだから」という善意から出発していたとしても、参加者の自律的な意思を尊重せず、主催者の望む方向へと相手を「操作」しようとする、密かなる暴力性を帯び始めます。
なぜなら、主催者も学習者も、ここでは成人であるからです。
主催者の意図を超えた、予期せぬ学びこそが、主催者にとってのその場の成功の証左です。
主催者の個人的な動機や願望が、参加者の経験——あるいは気遣い——によって偶然達成されることはあるかもしれません。
しかし、もし主催者の目的を超えた、まったく予期せぬ学びや気づきが参加者から自発的に生まれたとしたら——あるいは主催者自身に、新たな学びや気づきが生まれたとしたら——、それこそが、その場が本当に成功したことの証です。
主催者(成人)と学習者(成人)が、対等にコラボレーションできたということです。
主催者の願望を参加者へ早々に伝えることは、この最も価値ある創発の可能性を、最初から摘み取る行為に他なりません。 また、これが教員(成人)と生徒(こども)との間においては成り立ちませんし、こどもに対して行ってはなりません。その理由は前述のとおりです。
あなたが「研修」というゲームのプレイヤーであるとき
とはいえ、組織に所属していれば、自らの意図とは無関係に、ボードゲームを用いた体験型の企業研修への参加を、事実上、強制される場面は避けられないかもしれません。
こどもとは異なり、成人である私たちは、その参加を自らの意志で選択する権利を持っています。
しかし、組織の命令や立場上、本心では「いやいや」参加せざるを得ないこともあるかもしれません。
そのような状況で、私たちは単なる無力な受講者なのかといえば、そうではないはずです。私たちが主体的に振る舞うことができるはずだし、そうすべきです。
まず何よりも、研修講師(あるいはファシリテーターを名乗る者)が提示する、その場の「目的」を、注意深く吟味せねばなりません。
「この『目的』に、私は本当に同意できるのか?」と自問すること。この問いが、同じ責任を伴う成人として、その場をよりよいものに、共同創造者として参画するための思考です。
提示された「目的」が曖昧であったり、あるいは、もしその目的が、体験型のゲームやグループワークで学ぶよりも、書籍や講義といった形で、系統的な知識として学んだ方が効率的だと判断したならば。
塀と校門——学校——から出て、何を学ぶかを自分で決めるのが「社会」人なのですから、その研修の時間をどう使うか、あるいは使わないかを、自らの判断で決めることができるはずです。「この研修の目的が不明瞭だ」あるいは「事前に同意した案内の内容と異なる」と感じたなら、主催者に対して堂々と異議を申し立てねばなりません。
あるいは、より批評的な態度として、その研修が「なぜ」行われているのか、その裏にある意図に思いを馳せてみる、という手もあるでしょう。
研修講師や、その費用を捻出した経営者や上司も、同じ人間です。
この(もしかすると拙いと映るかもしれない)場を通じて、私たちに何を期待しているのか。
単にゲームを楽しむことで、与えられた時間をやり過ごすことも、雇われた者としては合理的な選択なのかもしれません。
しかし、この複雑な状況の中で、もし同じ職場の関係者として幸福に、生産的に、効率的に組織人として貢献できそうなのであれば、その場の隠された「ルール」や「目的」を推察し、他者のために自分は何をすべきか、あるいは、すべきでないかを考えること。それは、ゲームの盤面を見つめること以上に、スリリングで、かつ「役に立つ」思考のゲームとなりうると思います。
最後に、二つの反論——「個人の好み」と「公共からの断絶」——に応えます。
ここまで、ボードゲームの教育利用を実践することの、二つの異なる倫理性を論じてきました。
これらに対して、しばしば聞こえてくる二つの反論に以下で応えておこうかと思います。
1. 「人それぞれ、好きにすればいい」
この立場は、「教育ゲームが好きな人も、そうでない人もいる。それは個人の好みの問題であり、互いに干渉せず、住み分ければいい。」と主張します。
しかし、「教育」は、本当に個人の趣味や好みの問題に還元できるのでしょうか?
前半のこどもを対象とした教育論で論じたように、近代的な教育とは、家庭環境という「運」の要素を乗り越え、文化的再生産抑制のための、極めて「公共的」な装置でした。 この装置のあり方を問うことは、公共と政治に関わる問題です。
個人の「好き嫌い」の領域に閉じ込めてよい話ではありません。
この反論は、議論の土俵そのものを「公共」から「個人」へと意図的にずらすことで、面倒な倫理的判断から撤退しようとする、知の退却に他ならないと私は思います。
2. 「ボードゲームの普及につながるのなら、それでいいではないか」
素朴な功利主義とでも言えそうです。
こちらは先の反論に比べて、より積極的です。
「ボードゲームが世に広まるという“善い”目的のためなら、どんな手段も歓迎すべきだ」という主張です。
しかし、この目的至上主義は、あまりにも短絡的です。
成人教育のセクションで論じたように、安易な「シミュレーション」の濫用や、合意なき「成長」の強要は、参加者にボードゲームへの強い不信感や嫌悪感を植え付けかねません。
長期的には、自らが掲げた「普及」という目的にさえ、資することにならない自己矛盾を孕んでいます。
さらに言えば、この立場は、こどもと公教育のセクションで論じたハイパーメリトクラシーの危険性に対して、完全に盲目です。 「コミュニケーション能力が育つから有用だ」と無邪気に語るとき、その「能力」が特殊詐欺のような反社会的な行為にも発揮されうる、という価値中立性には思い至りません。
この種の反論が、私たちの批評的な問いかけを「普及の何が問題なの? 反論なんてやめなよ」という具合に正面から向き合わないとき、そこにはアーレントが警鐘を鳴らした、思考そのものを放棄した「無思想性」の、不気味な影がよぎります。 以上は——言うまでもないでしょうが——公的な側面での話でした。
企業内教育が公的か? という議論はあるかもしれません。
しかし公共性を帯びているのが現代だとは思います。
家庭内、親子関係、プライベートでのことは、各自にお好きにどうぞという話です。
私秘的でなければならないことも人間にはあります。
パブリックに向けて教育の話のをするのであれば、多かれ少なかれ公共性を帯びるのですから、ほんのうっすらとでも誰もにとって一市民としての自分ごとの話です。