ボードゲームは「シミュレーション」ではない
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シミュレーションではなくて、むしろ
「ラボラトリー」的な場である。
——というのが今回のお話です。
「ボードゲームは、現実社会のリアルな疑似体験ができるシミュレーションだ」という言説を聞きます。 ビジネスゲームで経営を学び、歴史ゲームで外交官の苦悩を知る。一見すると、これはボードゲームの持つ「教育的有用性」を語る、魅力的な言葉に聞こえます。 そういう側面もあるんでしょうね。
シミュレーションとしてのゲームが特に教育的に有用なときというは、その目標とする学習内容が文脈に依存しない「形式知」を扱うときに限られてきます。 例えば、ビジネスゲームを通じて、「保険」という制度のルールや、それがPLとBSにどう記載されるか、といった会計上の作法を学ぶことができると思います。
その一方で、現実の「決断」は、ルールブックの外側にある、無数の要素に満ちています。
「このリスクを取るべきか」という決断は、外部環境、周囲のメンバーの状況、その人(企業)の価値観、感情、(身体的なものも含む)コンディション、そしてその場の人間関係といった、シミュレーションが捨象してしまう泥臭い現実の中で下されます。
ゲームという状況が限定されざるを得ない空間で、例えば「リスクを取る」ための訓練(つまりシミュレーション)をしても、それは現実の複雑さの前では役に立ちません。
シミュレーションは、現実の「模倣」にはなれても、現実そのものにはなれないということです。 シミュレーションとは異なるもう一つの「現実」としてのボードゲームを捉えてみる。
ボードゲームは、現実の「模倣」なのではなくて、それ自体で完結した、もう一つの「現実」をそこに創り出している、こんなふうに考えてみることができるかもしれません。
ラボラトリー(実験室)とは、日常のしがらみから切り離された、安全な空間です。
重要なのは、そこで「現実の何か」を模倣するのではなく、「いま、ここ(Here and Now)」で、その実験室の中で起きていること自体を、分析の対象とします。 テーブルを囲んでボードゲームを遊ぶこの時空間が、「ラボラトリー」ということです。
例えばゲームの中で話し合いをするような場面があったとして、それは、現実のビジネス会議の「相似形」ではあるかもしれないが、けっしてその「模倣」ではないということです。
「Aさん、Bさん、Cさん、そして私が、この特殊なルールと状況の下で、今まさに相互作用している」という、固有の、一回性の「現実」がそこに構成されるというわけです。 ラボラトリーは、「自己」についての仮説を得られる(かもしれない)。
この「盤上の実験室」で、もし学べることがあるとしたら、私たちは何を学ぶのでしょうか。
それは、何らかの形式知を理解すること、つまり「正解」を学ぶわけではありません。
実験室の中で、私たちは、普段とは違う自分の振る舞いや気持ちの揺らぎに遭遇します。
「自分は、追い詰められると、こんなにも他者に気を配る余裕がなくなるんだな」
「ある人の振る舞いを見て、自分はこんなにも励まされた気持ちになるのか」
(ゲーム後)「普段からは感じとることのできなかったあなたの知らない一面を見た気がしますよ」
ラボラトリーとしてのボードゲームが私たちに与えてくれるのは、「現実で使えるスキル」という直接的な処方箋ではありません。それは、「私は、こういう状況で、このように振る舞う傾向(クセ)があるのかもしれない」という、自分自身に関する、検証可能で、かつ、いつでも修正可能な「仮説」です。
他者との、ゲーム的な、あるいはゲーム外のインタラクションを通して、他者から自分についてを学ぶ構造をつくるのが、ラボラトリーとしてのボードゲームだと思います。 それは裏を返せば、ゲームをただ遊べば、あなたも他者を助けることができるということを示唆しているとも言えるでしょう。