外から見て「楽しそう」は何を表すのか
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ボードゲーム会は、しばしば大きな笑い声に包まれる。
前のめりに乗り出す身体。
熱を帯びた議論。
席から立ち上がって夢中になっている
私たちは、そうした光景を見て、直感的に「ああ、彼らは楽しんでいるな」と感じます。
しかし、その「楽しそうな振る舞い」は、本当に彼らの内面にある「楽しさ」をいつも反映しているでしょうか。
私たちは、期待されている役割を、よく無意識的に演じます。
それは、傾向として、歳を重ねた方ほど巧妙に演じてくださいます。
おそらくその場のホスト(主催者)や周囲を慮ってといった善意からの演技だと思います。
子どもも演技をしないかと言えば、そうではありません。親や周囲の大人の言動に対して、求められた反応を返すことを生まれた頃から驚くほど高度に学習し続けています。
このようなズレを直視せず、「楽しそうに振る舞っている(behavior, 態度)」から「楽しいと感じている(内面)」と結論づけるのは、人間の内面をブラックボックスとして扱う、素朴な行動主義 behaviorism の発想と言えます。
「楽しむ」という事前目的の呪縛が現代人にはつきまといます。
遊ぶ前に私たちは、「よし、楽しむぞ!」とどこまで決意するでしょうか。
企業研修なんかでは、研修開始時に「目標」とか「学びたいこと」なんかを書かされたりしますが、その影響もあるのかもしれません。
「楽しむこと」が第一の目的の場では、かえって「楽しまなければならない」というプレッシャーを相互に与え合う社会的状況をつくりがちです。
むしろ、ゲーム体験の面白さは、後から振り返って認識することが多くはないでしょうか。
例えば重ゲは、プレイ中は「なんでこんなに苦しいことを」と悩み苦しんでいて、「楽しい」とも実際思っていなかったものの、勝敗がついてそのプレイを振り返ったとき、「とても充実していて、楽しい時間だったな」と感じることがよくありませんでしょうか。
これはメタ倫理の分野での話ですが、マクダウェルが「欲求」について論じたことと似ている話だと個人的には感じています。
「楽しみたい」という事前の欲求が楽しいプレイングを引き起こすのではなくて、
プレイという経験のあとで、「あれは楽しかった」という意味づけ(あるいは信念)が、後付けで構成される。
「楽しそうに振る舞う」という機能的反応である可能性もあります。
その振る舞いは、意識的な「演技」でさえないのかもしれません。
ユクスキュルは、動物が知覚する世界(環世界)の単純さを示しました。
例えばマダニは、複雑な(我々の考える)この世界を認識しているわけではありません。
「酪酸の匂い」「温度」「毛の感触」という三つの信号にのみ反応し、木から落ち、動物の皮膚に食らいつき、吸血するという、プログラムされた行動を遂行します。
人間の「楽しそうな振る舞い」もまた、これと似た一種の機能的反応に過ぎないという可能性もあるかもしれません。
言い換えるならば、人の内面的な「楽しさ」や「学び」とは無関係に、ただその場のコミュニケーションの連鎖を維持するためだけに、自動的に遂行される機能が、「楽しそうな振る舞い」なのかもしれないということです。
アクティブ・ラーニングが称揚され、生徒が「寝ずに起きている」という状態(behavior)が、それは本当に「学んでいる」からその状態なのでしょうか。
「こういう設問には、こう答えれば世界になる」というパターンを暗記した応答は、ELIZAのそれと、本質的に何が異なるというのでしょうか。
外から見て、「楽しそうだ」という振る舞いは、それ自体では、ほとんど何も表しません。
私たちが、他者と向き合うとき、あるいは自分自身と向き合うとき、安易な行動主義や機能主義に陥り、目にみえる「振る舞い(行動や機能)」だけですべてを判断してはいないでしょうか。
何も難しいことはないです。「いまどんなお気持ちでいらっしゃるんですか?」そう語りかけることが、互いを知り合う豊かな関係を作る第一歩目になるのだと思います。
相手が子どもなのであれば、楽しいか楽しくないか、学んだか学んでいないかなんて、今ここで言語化させる必要もないはずです。
大人になってから、「楽しかったな」とか「学んでいたんだな」と思うかもしれないし、思わないかもしれない。それでどんな不都合があるというのでしょうかね。
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