ボードゲームの自己充足性
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ボードゲームを、コミュニケーションツールや学習教材として語る声がしばしば聞かれます。
つまり有用性を根拠に、ボードゲームプレイを「善い」とする考え方。
これは行為の結果を重視する功利主義的な発想に近い。
この「役に立つから」という視点は、ボードゲームの核心を見失わせる危険性を孕むと思います。
ゲーム内には、「勝利を目指す」という目的が存在する。一方、
ゲーム外に自己充足的でない目的が持ち込まれると、そのゲームの力学は歪み始めます。
ハイパーメリトクラシー的な強者が、さらに有利になる空間へと変貌する。
例えば、「楽しめばいいじゃん」という言葉が、内輪のノリや共通の文化的背景(ハビトゥス)を持つ者だけが楽しめる状況を正当化し、初参加のプレイヤーや社交が苦手なプレイヤーを疎外するような状況。ボードゲームはコミュニケーションツールではない - 遊星ゲームズ
ゲームプレイが、その目的達成のための気まずい「手段」へと堕してしまう。
例えば、「ボードゲームを肴にして面白い話をする」が目的化して、ゲームに没頭することは悪いことであるかのように見なされ、プレイヤーが常に「面白い話をしなくては」と、ゲーム外の役割を演じることを暗に強いられる状況。ボードゲームをコミュニケーションツールにするための3つの大前提 - TANSANFABLOG
これは遊びが持つ本来の面白さが、外部から持ち込まれた合目的性によって侵食される事態。
アーレントは、全体主義への抵抗の砦として、それ自体が目的である活動の重要性を説いています。
全体的支配はその目的を実際に達しようとするならば、「チェスのためにチェスをすることにももはやまったく中立性を認めない」ところまで行かねばならず、これとまったく同じに芸術のための芸術に終止符を打つことが絶対に必要である。全体主義の支配者にとっては、チェスも芸術もともにまったく同じ水準の活動である。双方の場合とも人間は一つの事柄に没入しきっており、まさにそれゆえに完全には支配し得ない状態にある。(アーレント 1951)
アーレントが擁護するのは、いかなる外部の目的にも回収されない、自己充足性(コンサマトリー)です。
「ボードゲームのためにボードゲームを遊ぶ」という、一見するとトートロジーのような営為にこそ、人間の根源的な自由が宿るということ。
この「目的からの自由」は、哲学や人文学の探求とも共通する心の置き方かもしれない。
もちろん、ボードゲームを遊んだ結果として、新たなコミュニケーションが起こったり、「学んだな」と感じることはあると思います。
これは偶然的な副産物。
あくまでプレイヤーがルールという閉じた世界に没入し、勝利という内的な目的に向かって真剣に遊んだ結果として、後から立ち現れるもの。
cf. /komoji-od/slides: ボードゲームはコミュニケーションツールか?
#📙_ボ哲コラム