新しさではなく使いやすさ
けテぶれ?PDCAと何が違うのだ!という批判にも同じことをいっているのだが、大切なのは「新しさ」ではなく「使いやすさ」である。僕の使いやすさの定義は「シンプルかつ感覚的にイメージしやすい言葉で構成されていること」「汎用的であること」「循環していること」「キーワード化されていること」である。複雑な定義は受け取れないし、狭い範囲にしか適用できなければその有効性を感じにくい。プロセスに行き止まりがあれば使い続けることができない。そしてキーワード化されなければそれを思考の対象としにくい。だから「QNKS」なのである。内容は探究のプロセスや先行研究①キンチュ、先行研究2メイヤー、フラワー(1980)の研究などの先行研究が明らかにした内容と変わらない。(変わらないからこそ説得力がある)変わらないのであれば、「使いやすい」を選ぶのが合理的だ。 僕が定義する「使いやすさ」のメリットは、もう一つある。それは「使いまくれる」ことである。総合的な学習の時間に紹介された探究のプロセスを総合的な学習の時間でしか使わないのなら、そのプロセスが子どもたちの中に定着する可能性は低い。それに対してQNKSは「考える」という行為を定義したプロセスであるとしているため、全授業全時間で使える。「使いやすさ」を担保しているから、そういうものとして子どもたちに紹介できる。この差が大きい。「技能」は「体験」を通して習得される。週に3回、3時間泳ぐのと、毎日5,6時間泳ぐのでは1年後、その子の中に蓄積された技能的な経験値の差は歴然であることは火を見るより明らかだろう。そういう汎用性があるからこそ、子どもたちは大量に「考える」という行為をQNKSというキーワードで意識的に、総合的に経験できるのである。
今日学校での学びは、国語や算数、体育や音楽といった各教科、さらにその中の領域、単元、もっと酷いケースでは1授業の中だけに埋没してしまっている #タコツボ化 その日、その授業での体験、という1回きりの体験を細切れに、大量に、しかも強制的にやらせたところで、子供たちの中に蓄積される技能的な経験値はほぼ皆無に等しい。教科横断的な見方は、教科横断的な見方を定義することでもたらすのが最もシンプルではないだろうか。だから、けテぶれ、QNKSなのである。 関連