タコツボ化
タコツボ化した教育界の状況を解決するホリスティックなアプローチ
ここに僕の一つの大きな提案がある。今の教育界(もしくは現代社会)は、領域が過度に細分化され“〇〇の専門家”が大量に発生している。その専門家は〇〇については答えられるが、△△については全くの無知である。その結果、ある社会問題に対してAの専門家は○といい、Bの専門家は△といい、Cの専門家は□という、といった事態が引き起こされる。こういうシーンはワイドショーなどでお馴染みだろう。異なる立場の専門家たちが問題の解決方法に対して言い争い、「結局どうすればいいか」は何もわからず終わる。現実の問題は多くの要素が絡み合って一つの現象として成り立っているため、狭い視点からの意見は、問題の一部しか捉えられず、問題解決の役には立たないのだ。教育現場で働いている先生方が専門家の意見を聞いたときに「いや、それはわかるけど、実際にはそれだけじゃないからなぁ」という感想をほぼ100%の確率で抱いてしまう原因がここにある。プラグマティックに言えば、そういう狭小な視点での専門的な意見は現実問題に対して「無価値」なのだ。現実問題に対処するには、もっと大きくホリスティックな視点が必要なのである。あらゆる条件がコントロールされた環境下でしか再現できないような狭小なエビデンスを述べる論文をいくら読んだところで現実問題はなんにも解決しない。
だから、QNKSであり、けテぶれなのだ。国語?算数?話す聞く?筆算?それら全ては「学ぶ(けテぶれ)」という行為の対象だ。そして学ぶときにはもれなく「考えて(QNKS)」いる。では「学ぶこと」「考えること」そのものの質を高めるシステムを構築すれば、その下位過程にある教科、領域のすべてをカバーできる能力が磨かれるではないか。こういうホリスティックな視点が今の教育界には足りていないのではないかと思うのである。
とくに全教科をその指導対象とする小学校の教師にとって、このような視点は必要不可欠である。「僕は体育が専門だから、お勉強を教えるのはちょっと・・・」などと間違っても言ってはいけない。「国語が専門だから、算数のことはよくわからなくて・・・」もご法度だ。そうではない。小学校の教師には、もっともっと大きな視点で、学ぶこと、考えることについて指導できる力が求められていることに気づいてほしい。そしてその傾向は今後加速度的に高まる。なぜなら「知識」ベースのわかりやすい授業はもう無料でインターネット上にゴロゴロと転がっているからである。「知識」を得るだけならばもう学校に通う必要はほとんどない。しかし「技能」の場合は話が異なる。知識と違い、技能の習得には「体験」と「指導者によるフィードバック」が必要不可欠だからである。泳ぎ方についての知識は机に座っていくらでも得られるが、それで実際に泳げるようにはならない。泳ぐ技能を習得するためには実際に水に入り、指導者からフィードバックをうけながら実際に泳いでみなければならないのは、誰でもわかる理屈であろう。学校が担う要素はここである。「体験」を提供する「環境」を整備し、学習者個々の体験に対して正しく「フィードバック」しながら「技能」を身に着けさせること。今後の小学校教師はこれができなくてはならない。これは新学習指導要領でも言及されている。「なにができるようになるか」である。
ここに言及されている3点の要素について言及していくとまた無限に論が拡散していくので、ここでは控えておく。ご自身で感じ取ってほしい。「けテぶれ、QNKS」がこの3要素を確実に捉えていることを。