プロジェクトの華厳的解釈
新たな人工物を生み出そうと決意したとき、プロジェクトは始まる
この最終成果物のことを「X」と呼んでみよう
開始されたプロジェクトの行く末は2通りある
①肯定的に解決される(成就する)
②否定的に解決される(諦める)
※プロジェクトの存在過程を皮肉っぽくいえば「泥沼的に未解決であり続けている」ということになる
勝利条件とは、プロジェクトが肯定的にしろ、否定的にしろ、なんしか解決されるため、つまりプロジェクトを終わらせるための要件である ここで、勝利条件の表現形式を「P→Q(PがQである)」と書くことにする
つまり、獲得目標が定められて初めて、プロジェクトは開始され、勝利条件が実現されることにより、プロジェクトは成就する
ここに、X、P、Qがどんな関係性で結ばれているのか、という問題が生じる
常識的な因果律にもとづいてこれを定式化するとしたならば、解の候補は、以下のいずれかとなる
Xが生じるためには、PがQでならなければならない
PがQであるために、Xを生じせしめなければならない
実際、現実にプ譜のワークショップを開催すると、一定水準を超えたアウトプットは、上記のいずれかの形式におさまる
これは、どちらかがどちらかの上位概念であることを示唆しているわけだが、果たして、一体、どちらがどちらの上位概念なのか。
素直に考えれば、勝利条件が目的であり、獲得目標はその実現手段である
しかし、獲得目標を任意に恣意的に設定すれば、自由自在に生み出せる打出の小槌は存在しない
つまり、獲得目標を達成するために満たすべき状況についての条件について考慮しなければ、プロジェクトは成就しないのである
ここに、「獲得目標を達成するために満たすべき状況」を満たせば、そこから自律的に獲得目標が導かれ、目的的に設定された勝利条件が実現する、という関係性が生じるわけだが
明らかにこれは再起的というか、トートロジカルな話であって、何かをまともに説明できているとは思えない
2022年の中頃だったか、うんうん唸り続けた結果、白旗をあげて、理論的に言って、どちらの表現もあり得るし、実践的にも、書いた人が納得すればよいのだ、という結論に至ったのだった
とはいえやはり、なぜ単一解に収束しないのかという気持ち悪さが残った
そこを解決するために、着想したのが「 P→Q」は、Xが成立するための必要十分条件である、という命題であった
つまり
「 P→Q」⇔X
こうして見てみたおかげで、この命題そのものが美しいだけでなく、そもそもこの命題そのものを意識することで、プロジェクト構想の確からしさを高めることに役立つと気づかされたのだった
言い換えれば
どちらかが、どちらかの上位概念であるうちは、その構想は不完全である
なぜならば、主体者の恣意的な主観により現実が歪めて解釈されているからである
また、世界を因果律で見ているあいだは、そのような恣意性から免れることはできない
現象を、縁起の理法によってとらえなければ、Xと「P→Q」のあいだにある必要十分条件を見いだすことはできない
ちなみに、プロジェクトという現象を、因果律で捉える限り、QCDの悪魔に絡め取られ、その取り組みは生命力を喪失してしまう これでめでたしめでたし、となれば良いのだが、ところがどっこい、話はここでは終わらない
上記の必要十分条件が成立しているかは、いかに担保されるのか?を考える必要がある
ここで登場する概念が状況=situation、つまりプ譜でいえば廟算八要素である ある前提状況があること、つまり前提条件が既知であるからこそ、「X⇔P→Q」の真偽値が確定する
別の言い方をすると、廟算八要素とは、そのプロジェクトを閉鎖系たらしめるための、境界条件なのである
記号で表現するならば、状況についての個別命題の和であるから
Σs
と表現するのが妥当であろうか
ちなみに、中間目的とはなんだったかというと、実はこれは、勝利条件の部分集合だったのである つまり
p1→q1、p2→q2 … の和であるから
Σ(p→q)
とでも書けば良さそうに思う
施策actionも同様に命題集合であり、記号で表現するならば
Σa
となるであろう
このように記号化を進めた結果、プ譜とは
Σs x Σa = Σ(p→q) ⇔X
ということだったのだ、ということになる
一方、成果物とは部品の集合であり、部品とは要求requirementを満たすための作業workの集合であるわけだから
Σs x Σa = Σ(p→q) ⇔ Σx = Σw・Σr
と書くことができよう
(外積、内積の記号については、まぁ、イメージであって、厳密な定義や論証は別途必要であろう)
ともあれこうしてみると、プロジェクトと成果物の間にある鏡像関係が明らかになるのであった
よくよく考えなければならないのは、ここにあるあらゆるs,a,p,q,x,w,rは、単独に、恣意的には存在していない、ということである
あらゆる構成要素が、繋がり合い、響き合っていなければならない
いや、そもそも最初から、世界のあらゆる部分とは、つながりあい、響き合っているのである
特定の個人が、その全体調和を歪めるような問題設定を行ったとき、そこに「業=カルマ」が生じるのだ、と、見るべきであろう
逆にいえば、プロジェクトにとって業とは、原理的に、逃れられない宿命なのである
なぜならば
各要素は時々刻々と変化するものであり、さらには変化するだけでなく、生成、消滅、合流したりもするので、正しくはs(t)等と表記するのが適切である
生成、変化、消滅、合流の過程において、相互作用することも見逃せない
経時変化を含めたその全てをいち個人が観相することは、端的に言って、不可能である
ある時点の断面に限ったとしても、全ての変数についての真偽値をいち個人が確定することはできない
ごくわずかな既知の情報をもとに全体像を類推する行為主体同士による、不断の相互作用である
そこで計算されるべき情報の総量とその構造をイメージしてみると、たとえ量子コンピュータが無限台あっても有限の時間内で計算することは不可能なように思える
しかし、実践的には、かなり難しい状況であっても、有限の時間で解決されることも多い
解決される要因には、いくつか考えられる
例① 要件が緩和される
どんな成果物だって、要件を緩和してしまいさえすれば、完成することなどたやすいのだ
「状況が許す限り、要件はできる限り緩和せよ」と、おそらく人間の遺伝子にはプログラムされているのだろう
例② 常識的な世界観による拘束
「このプロジェクトは、こういう世界観だから」という見立てを当てはめてしまうことで、この無限の可能性をひとつの物語として拘束することが可能になる
これをより具体的にすれば、契約、とか、常識、という概念となる
プロジェクトマネジメントとは、つまりはそういうことである、とも言える
ただしそれはルーチンワーク的なプロジェクトである
こうした収束のさせかたは、取り組みに効率性はもたらすが、創造性を減衰させる
上記のような、惰性的妥協を良しとしない構えを取ると、プロジェクト状況に答えを出す難易度は飛躍的に上昇する
針の糸を通すような勝利条件の発見に至ったとき、人間はそこに「美」を見いだす
僥倖ともいうべき何かに導かれ、それが成就したとき、そこに歓喜が生まれる
このように見てくると、プロジェクトの定義は飛躍的に更新される
ある観察者の視点により、世界の部分集合を切り取る行為である
その切り取り方が正しければ、始める前から完成するし、そうでなければ、永遠に終わらないのである
もちろん、最初から上手に切り取られて始まるプロジェクトなど、ごくわずかな例外である
生臭く濁った、業のごった煮のような、泥沼としか言いようのない状況、そこに飛びこみ、宿命に抗い、そうして初めて満たすべきものが見えてくる、そういうプロジェクトのほうが、ありかたとして、一般的なのかもしれない
※将棋の棋風で喩えるならば
始まる前から終わらせるのは、谷川、藤井の系譜である
泥沼の先に花を咲かせるのは、大山、羽生の系譜である
こうやって考えてくると、 #プロジェクトとは あるべきものを、あるべき形に還すことなのだ、と、言っても良いのかもしれない そして、プロジェクトを完遂するということは、「いま、ここ、目の前」を正しくする、ということと同値なのだ
世界を切り取る感性を体得するためには、俳句や侘び茶の世界に近づけばよい
YouTubeで「プロジェクトと仏教、俳句」を語ってみたのは、このことを、なんとかして、表現したいと思っていたのである