プロジェクトとは
プロジェクトが、予定通りに進まない。計画通りにいかない。思った通りに、人が動いてくれない。時間が足りない、お金が足りない。果たして、期待する成果が得られるだろうか。ちゃんと案件を成功に導けるのだろうか。
そんなストレスや不安にさらされたことのある人は、ひとりやふたりではないでしょう。ひとりやふたりどころか、会社に勤め、何かしらの大きな案件に関わったことがあるならば、その大部分の人が、同じように感じたことがあるのではないでしょうか。
プロジェクトは、どうすれば前に進むのか。
まったくもって、現代社会を生きる私たちにとって、実に致命的な、重大な問いかけであります。
この問題に答えを出すためには、
そもそもプロジェクトとはなにか
プロジェクトが前進するということの内実とは、一体どういうことなのか
の2点を明らかにせねばなりません。
1.プロジェクトとはなにか
プロジェクト、という言葉は、私たちの日常に、実にあふれています。テレビ番組で、ネットメディアで、はたまた仕事場で。プロジェクト、という言葉を目にしない日は、一日たりとてありません。
プロジェクトの言葉から、最初に想起されるのは「企業が大きなお金を出して、何かを開発する」といったものでしょう。都市開発やビル、工場等の建設においては必ず「◯◯開発プロジェクト」とか「◯◯建設プロジェクト」といった呼称がつけられます。新規事業や新商品の開発も「◯◯プロジェクト」と呼ばれます。
IT開発も、プロジェクト活動の代表格ですが、IT開発といってもこれまた多種多様で、既にあるものを改修する、導入する、といったものもあれば、新たに創り出すという場合もあります。業務につかうものもあれば、消費者向けのエンタメサービスやゲームもあります。
プロジェクトという言葉には「企業が主体となって行う経済行為、利益を追求する開発活動」というイメージがあります。しかしプロジェクトという言葉が指し示す範囲はさらに広く、必ずしも、そうしたものとは限りません。
例えば下図は寄付を募るプロジェクトの募集サイトの例ですが、このように、具体的な開発成果物をともなわないプロジェクトも、世の中には、たくさんあります。
https://gyazo.com/c285b313eda8227cc6c2a166cf2b42e9
(◯◯プロジェクトの用例 ©️天下一品)
ビジネスの場に限らず、小中高の学校生活のなかでも、あるいは大学の研究、NPO活動といった非営利的な場においても、しばしば「◯◯プロジェクト」と銘打った活動がしばしば展開されます。
もっと個人的なことにも、プロジェクトは発生します。恋愛をしたり、受験や就活に向き合うとか、結婚をするとか、家を建てる、旅行に出かける、新しい趣味の世界と出会う、といったことでも、プロジェクトと呼ぶにふさわしいと感じる場面はたくさん見つかります。
さて、色々な場面におけるプロジェクトをこうして見てきたわけですが、「プロジェクトとは、◯◯である」という定義を行うためには、これらのプロジェクト事例の全てに共通する要素を見出さねばなりません。それをやろうとすると、即座にその難しさに直面し、愕然とします。いったい、これらに共通するものとは、なんでしょうか?
プロジェクトという言葉を、外形的な条件付けによって定義するのは、意外と難しいものです。
これは、ちょっと不思議な話です。多くの場合、人工物を定義するのは、わりあい、簡単なのです。
例えば「時計」であれば「時間を計るもの。複数の人同士のあいだで、時間を明らかにするために、定量化するために針を備えた道具」といった形で表現すれば、かなり正確な表現といえるでしょう。「パソコン」であれば「電子計算のために、モニタ、演算チップ、入力装置、通信装置を備えた機械」とか。つまり、それが存在する目的と、主な構成要素を示してあげれば、その人工物を概念的に指し示すことができます。
「プロジェクト」もまた、人間が、人為的に生み出す人工物であるには違いないのです。しかし、これを「条件付けによる外形的な定義」によって表現しようとすると、これがなかなか、難しい。
まず、目的について絞ってみても、さきほど見たように、経済的なものからそうでないものまで、学究的なものから実用的なものまで、個人的なものから社会的なものまで、非常に幅広いのです。
構成要素の側面を見ても、たとえば「10名以上でやるものが、プロジェクトだ」とか「1億以上をかけるのが、プロジェクトだ」「ITソフトウェアを作り出すのが、プロジェクトだ」「少なくとも1年ぐらいをかけて取り組むのが、プロジェクトだ」といった形で定義することができるなら、話は簡単なのですが、これらの条件にあてはまらないプロジェクトなど、いくらでもあります。世の中で「◯◯プロジェクト」と名付けられるあらゆる現象に共通する外形的な条件とは、存在しないのです。
そしてまたややこしいことに、多くの人は、自分が潜り抜けてきたプロジェクト体験を、プロジェクトの典型例、代表例だと信じて疑わず、畑違い、分野違いのプロジェクトについて想像するという契機が、全然といっていいほど、ないのです。このことにより、プロジェクトとはなにか、という議論をしようとしても、一種の空中楼閣のようなものになってしまうことが、よくあります。
しかし、改めてふと考えると、言葉の定義が存在しなくても、人間はプロジェクトをちゃんと認知できるし、しているのです。定義はなくても、それがプロジェクトであるということは、わかる。なんだか不思議な話ですが、確かに、そうなのです。
人は、認知された現象のなにをもって、それが「プロジェクトだ」とラベル付けしているのでしょうか。
「未知なる要素を多く含んだ、初めての状況」に直面したとき、人間は「プロジェクト」と言葉を思い浮かべるようにできているのだ、というのが、プロジェクト進行支援家である後藤の出した結論です。
世の中には数多くの「プロジェクト推進手法」が提唱されていますが、その多くは
経済的な成果物を創出し、利益や社会的価値を創出するためのもの
10名以上でやるもの
数千万、数億億以上の資金を投じるもの
ITソフトウェアに代表される、社会的な新規性の高い成果物
少なくとも1年ぐらいをかけて取り組む
というプロファイルを想定しています。
こうしたプロファイルを想定すると、「計画の表現技法」や「進捗の確認、課題への対処」「品質管理やリスク管理」といった管理活動がイメージされます。
筆者は、こうしたイメージは、実に狭いと思うのです。ワインを醸すのだって、プロジェクトであるはずです。詩集を出すのも、結婚式を挙げるのも、海外旅行だって、引っ越しだって、それが「初めてのこと」であるならば、プロジェクトなのです。
確かにそれらの活動も、フェーズやマイルストン、タスク表や進捗管理といった概念を用いて扱うことは、不可能ではありません。いやむしろ、そうした概念で扱うことで、各種の効率化を図ることは可能でしょう。
しかし、効率化をしたその先に、人間の幸せが待っているかというと、存外、そんなことはないのです。
そして、実は経済行為におけるプロジェクト活動においても、いわゆるプロジェクト管理技法の扱いに未熟なままで、管理のための管理におぼれてしまったがために、取り組みを推進させようとして、かえって停滞の原因を作ってしまう、なんていうバカみたいな話が、結構頻繁に起きているのです。
2.プロジェクトが前進するということの内実とは、一体どういうことなのか
単純に考えると、最初に描いたなにかしらのプロジェクト計画があって、計画どおりに自体が推移していくことが「前進」であると思われます。しかしこの進捗のイメージは「ルーチンワーク」の領分における話なのです。
ルーチンワークとは、プロジェクトの反対語です。
つまり、既知の要素が多くて最初から全体像を描くことが容易な活動、どのような入力をもとに、どのような出力を得ていくのかが事前に明らかになっている取り組みです。こうした活動であれば、確かに計画を計画通りに実行するのが進捗であると言えます。
しかし、プロジェクトは、未知の要素を多分に含んだ活動なのです。未知に直面しているのに、自分の頭の中で好き勝手に計画を描き、それが実現しないと嘆くのは、一歩引いた目で客観視すると、なんだかとても滑稽な話に見えてこないでしょうか。
プロジェクトが、前進するとは、どういうことか。
「未知」の総量が減少し、「既知」が増えている、ということです。
そして、叶えたい未来が近づいている、ということです。
3.改めて、プロジェクトは、なにか
改めて、プロジェクトは、なにか。これは、いろんな表現があり得る問いなのです。プロジェクト工学における究極の問いです。このScrapbox自体が、この問題に対して、どうにか答えを出そうとしている活動であるわけで、いくつもの案を出しては戻して、ということを何度も何度も繰り返しています。
ちなみに、初めての著書「予定通り進まないプロジェクトの進め方」では、ルーチンワークでなければ、プロジェクトだ!ということを主張したのでした。その表現そのものに誤りはないと、引き続き思っていますが、何でないか、では、定義としては不十分であることは間違いありません。
また、思索を深め、実践を重ねるなかで、ルーチンワークも十分大きくなれば、プロジェクト性が生じるものだと思うようにもなりました。あるいは、プロジェクトという概念が成立するということは、プロジェクトという概念自体が、そのルーチンワーク性を萌芽させているのかもしれない、なんてことも疑い始めていたりもします。
あるいは、あらゆる行為にはプロジェクト性とルーチンワーク性のどちらも同時に備えているのかもしれません。光が粒子であり、同時に波でもあるように。
結論を出すならば、プロジェクトとはなにか、という問いは、それを問う態度によって、答えが変わってくるのでしょう。つまり、この問いを哲学的に問うのか、実存的に問うのか。現実問題として問うのか、はたまた倫理の問題として考えるのか。
観察者の立場によって、観察結果が変わる。観察者が介入することで、測定値が変わる。
なんだか、不確定性原理を思い出します。
さて、プロジェクトとはなにか、という問いに答えることが、いかに難しいかは、以上に述べた通りです。
以下、その具体案をご紹介し、この小論を締め括りたいと思います。
通俗的な定義
有期性の、新たな価値を生み出す行為。
もっとも普遍的、包括的に定義するならば
主体者にとって、未知の要素が過半を占める状況。
経済活動における典型的なあり方として位置づけるならば
新たな量産システムの構築。つまり、ある主体が環境との間に新たな関係性を構築するために、新たな人工物の元型(アーキタイプ)、祖型(プロトタイプ)、典型(ステレオタイプ)を生み出す一連のプロセス。
華厳的にその本質を言い当てるとするならば
ごくわずかな既知の情報をもとに全体像を類推する行為主体同士による、不断の相互作用。ある観察者の視点により、世界の部分集合を切り取る行為。
倫理的な表現を目指す場合
自分(たち)でなければ生み出すことのできない、意味のあるなにかを、この世界にむけて贈与するということ。すべての執着を絶ち切り、全力を尽くすことができる「いま、ここ、目の前、この瞬間」に、一期一会する、ということ。
現実的、実践的な表現
勝利条件を探索し続けること。
究極的に、成就させるためのありようを述べるならば
あるべき人と、あるべき物が、あるべき時に、あるべきように、あるように導くための、世界への奉仕。
他力的宇宙観により表現するならば
未知なる価値を生み出したい、という「願い」によって端を発し、「縁」によって成就するものごと。
禁欲的に捉えるならば
自己愛からの脱却の契機としての試練。暴力との闘争。
認知科学的な見地による解釈
変わっていく世界のいち過程に、いち個人が触れ合っていくなかで、変化が知覚される現象。
ありとあらゆる側面から問い続け、問い直していくと、もしかしたら、その先に唯一解に辿り着けるのかもしれません。もしかしたら、最初から答えは存在しないのかもしれません。
二重性と不確定性原理。このふたつのキーワードが鍵を握ることはまず、間違いないように思われます。
つまり、結論は極めて禅的なものになるのだと、思われます。