第1章 心の城
愛の探求に科学が参戦
二人の少女が
ある詩の中で
人生の秘密に気がついてしまった
その詩を書いたのは私だが
私はその秘密を知らない
彼女達はそれを見つけたけれど
それが何であるかを知らないし
それどころか
それを見つけたのがその詩のどの部分だったのかも、わからないそうだ
彼女達はそれを、(第三者を経由して)私に教えてくれた
それから一週間以上すぎて
今では確実に
彼女たちは見つけたその秘密も
その詩の言葉も
その詩の名前も
すでに忘れてしまっている
私は彼女たちを愛している ー
私の見つけられなかった秘密を見つけてくれたこと
その詩を書いた私を愛してくれたこと
そしてそれらを忘れてしまったので、死が彼女たちを見つけ出すまでは、また千回でもそれを別の出来事の中に繰り返し見つけることができること
ーという、それらのことを愛している
何かを知りたいと思うこと
そこに秘密があるのではないかと思うこと
・・・そう、それがほとんど全てではないだろうか。
行動神経科学的な側面から愛に迫る本が1つの詩で始まることに違和感を覚える読者もいるかも知れません。しかしこの探求では必要でした。詩は感覚と理解とのつなぎ目から吹き出るものですーそして感情もまたそうです。300年以上前にフランスの数学者であるブレイズ・パスカルは「心には理性(Reason)が知ることができない理由(reason。原因、仕組み、因果関係など)がある」と書きました。パスカルは正しかったですが、彼はなぜそうであるかを知りませんでした。それから何世紀も経った後、私達は、神経システムの応答が、感情に対する応答と情報に対する応答とに別れていることを知っています。この分離が、人間が精神生活を送っていく際に、感情と認識との間に裂け目を作ります。この亀裂は、愛し愛されたい、相互に理解し合いたいと真剣に思っている人でさえも愛に近づくことを難しくさせているミステリーを作り出す当のものです。沸き起こる感情は、一遍の詩と同じように、理性を打ち負かします。それは脳の仕組みによるものです。両者(訳注:感情と詩)とも、夏の日の蜃気楼のように、近づけば遠くに消えます。
確かに愛の正体を定義することは簡単なことではありませんが、愛には固有の規則があり、理解可能な構造があり、発掘可能であり、探求可能です。感情的な経験は驚くほど複雑なので、ex vacuo (訳注:補腔性=空いた空間を埋めるために膨張すること。転じて、広がり続ける構造に追従して膨らむこと。hydrocephalus ex vacuo=真空水頭症)に明らかにすることはできません。それは神経システムの動的特性に起源を持つに違いないですし、生理学的な陰謀を特徴として持ち、複雑なパターンを刻むに違いないからです。愛が生理学的・物理的な世界の一部分であるということは、それは「法則的(法則に従う)」であるに違いないということです。愛は、それ以外の世界と同様に、私たちが発見できても変えることはできない原理に従い、その原理により記述されるでしょう。もしどこをどのように観察すればよいかが分かれば、感情の法則を見つけることができるに違いありません。たとえその法則が、「ある男が崖から落ちつつあるときにできることとは、重力にさからうことだけである」ということが分かるに過ぎないようなものだとしても。 愛についての法則を位置づけることは、人を怯えさせる作業です。愛についての概念の全ては、人の感情という、より大きな全体性についての視点に依存しなければならないからです。しかし、最近の些事を含む人間の歴史全体を見ても、そこに心の科学は存在しないことになっています。古代ギリシャの地理学、天文学、医学、植物学は発展しましたが、人間の感情についての理解は、その時代と同調し生き生きとしたものと感じられていたギリシャ神話に対する理解を上回ってはいませんでした。このような経験の不足は何千年とにわたって続きました。哲学者は人生における感情について説明したり議論したりしました −人体を構成する4つの要素であるとか、悪魔憑きであるとか− について。しかし、19世紀末における感情と心についてのシステム論的アプローチの出現を待つこと以外に、世界にできることはありませんでした。
科学が初めて心のミステリーに向かい合ったとき、それを解くために必要不可欠な技術は、まだ想像すらされていませんでした。19世紀末、多くの考察者 ージークムント・フロイト、ウイリアム・ジェイムズ、ウィルヘルム・ブントー 達は、人間の精神についての理論を打ち立てようとしていました。それらの先駆者達はとても優秀な人たちではありましたが、心の物理的な側面については何も知りませんでした。例えば、神経細胞が集まって精神生活の元となる光、音、思考、欲望、などを生み出しているということについて何も知りませんでした。愛の秘密は、世界が知りうる中で最も開けることが難しい宝箱(何百億もの神経細胞が絡み合い、数え切れないほどの電流と化学的信号とが一つになって形作る、生きている人間の脳)の中に埋もれたままになっていました。 20世紀のはじめから終わりまで、愛についての影響的な言説には、生物学的要素は含まれていませんでした。言われていたことといえば、神経症患者が空に城を作り、精神病者はその城に住み、精神科医はその家賃を懐に入れている、というようなことでした。しかし虚空をただよう城という名の理論に住んでいたのは精神科医と心理学者のほうでした。彼らが感情世界を理解するために立てた理論の中では、脳は理解不可能なブラックボックスとされていました。彼らの壮大な城の基礎地盤は、豊富な材料 ー100%純粋な憶測ー によって構成されていました。 人間の感情についてはじめに探求した人は、上記のような(訳注:物理的な裏付けが無いではないかという)他者からの論駁に立ち向かうための工夫を行いました。批判を避けるための聖地に置かれた金庫の中で、彼らは精神の仕組みを手品のようにメタファー(暗喩)と結びつけましたが、そのメタファーには物理世界に対応するものがありませんでした。心象風景の印象をスケッチすることを夢見たのはジークムント・フロイトだけではなかったのですが、彼は自分の調合を堅実・厳格に守ったという点では最も有能だったので、その領地を突き崩すことはできないように見えました。そしてフロイト派の建てた砦の塔と壁は空高くそびえ立ち、今もそこに残っています。検閲する超自我と迫りくる砲塔、内面を洞察するアーチ、妖怪がうごめく地下世界にあるイド。それらには物理的な基礎はないにも関わらず、その古いモデルは非常に長い影を残しました。フロイトは世代をつなぐ架け橋でした。彼の結論は私達の文化にさまざまな形で深く浸透し、彼の仮説は長年に渡って批判に耐え抜いてきたので、事実を見逃しているということを見逃していました。
フロイトの時代には、マスターベーションについての道徳的および肉体的な危険性に対する疑念が満ちていました。フロイトは生涯マスターベーションを認めず、オナニーのしすぎや膣外射精が、不安、倦怠感、ヒステリー症状、などの(彼の時代における感情障害の)原因であると確信していました。
次に彼は、幼少期の性的誘惑が本当の犯人だと結論しました。彼の視点は、両親との性交という幼年期の「空想」に移りました。彼が臨床で出会った患者のほとんどはその早熟なエロティシズムを否定しましたが、彼は最初の信念を疑いませんでした。彼は、患者の心が記憶を意識から弾き飛ばしているため、患者は若く感じやすかったときのことを覚えていない、と結論づけました。彼が患者の症状や夢を詳細に分析するとき、彼は自分が暗号化された手がかりを卓越した目で見ることができ、それは暗く性的な過去を指し示している、と信じていました。しかしそれらは全て、彼がはじめから想像し、そしてそれが想像でしか無いことに彼自身が気づくことができなかったさまざまな考えと同様の、想像でしかありませんでした。
感情に対するこのような理解のタイプには、フロイト派に親和性が高い構造が含まれています。すなわち、意識の表面の下には欲望の大釜が煮だって泡だっていて、太陽に照らされた自己と足元に潜んでいる地獄に気づかない自分、そして内面を癒す力と不吉でエロティックな過去。これらはそれがそのように定義にされたからこそ、そのように存在してるのです。このような心の説明は、愛を、性的快楽と倒錯とに、逃げられないように結びつけます。実際、愛は禁じられ、忌避され、近親相姦的な衝動の複雑な表現であると考えられます。フロイトはその名声と自身が打ち立てた思想の旗手であるという誇りを持って、ギリシャ演劇のリストを入念に見回し、神に呪われた存在であり不注意から変態行為と親殺しをしたエディプスを選び出しました。これは彼自身を盲目にするものであり、不幸への道でした。ここで採用された物語が伝える、変形された形の道徳とは、人間の獣性が話の通じない水準に落ちこまない限り(訳注: 話が通じる者同士のやりとりにおいては)、理性と文明の力が統治をしなければならない、ということです。
「人は信じる動物であり何かを信じずにはいられない」とバートランド・ラッセルは書いています。「もし信じるに足る十分な地面がなければ、悪い地面であってもそれに満足するだろう」と。どこでも、いつでも、人はなにも理由が無いよりは、なにかの理由(それが欠陥があったり信じがたいものであったとしても)がある方を好みます。フロイトが人間の感情の真っ暗な深さをついに掘り当てたと発表したとき、世界は安心感を求めており、彼のビジョンに皆が群がりました。
しかし、独裁政権の終わりには、ツケを支払わなければなりません。フロイトの理論は紛れもなくメビウスの輪でした。患者がフロイトの言う通り幼児期の性体験を覚えていると言ったらフロイトはその患者を抜け目のない者(訳注:相手に受け入れられるために嘘をも厭わない者)だとみなし、患者がそれを覚えていないといえばフロイトは患者が真実に抵抗し、真実を抑圧しているとみなします(否定と告白のどちらも同じ結果に導くことは、何にでも使える卑劣な方法であり、多様な活動、例えばセーラムの魔女狩りや異端尋問に使われてきました)。今日、フロイトの結論は内面志向の精神療法において継続的に検証されていると言われています。しかしそれは、その効果を後で報告するという約束を事前に受け入れた人たちに対してのみ見られる報告です(訳注:フロイトの理論を受け入れない人には施術されない、効果がなかったことの報告は基本的に行われない、という著者の含み)。このような回転ドア式の推論は、どんなに欠陥がある推論でもそれを裏付けてしまうという可能性があります。
人間の心と感情に関するその他の説明がなかったため、精神分析の考え方は、当時優勢だった文化を魅了しました。しかしフロイトのモデルは、愛の謎を解き明かすための探求としては、前史時代に属します。そのような神話の終焉はいつでも起こり得ます。脳が謎のままである限り、心の物理的性質が遠く離れてアクセスできないままである限り、その証拠の無さは、心についての反論不可能な説明が自由に流れるままになることを許すことになります。 これらの概念がどれだけ長く受け入れられるか、またどれだけの人々に広く受け入れられるかを決定する要因は、政治と同様に、それらが真実か否かではなく、その概念が普及することの促進に捧げられたエネルギーと、それを広めるためのさまざまなアイディアがどれだけ優れているかということでした。
心についてのさまざまな憶測が自由に行われていたときには、選挙の年の公約のように、風変わりな公約が積み重なります。ある理論では、(訳注: 脳や心臓の)発作は、オルガスムスによるエクスタシーが無意識下で表現される方法の1つである、とされました。子供の読み書き能力の獲得が遅い場合、それは両親が自分たちのベッドからその子を追い出したことに対する子供の復讐とみなされました。偏頭痛は処女による性的な空想の現れとされていました。これらの様々な主張はすべて、脳に関する科学的な無知があったからこそ現れたものです。
私達3人は臨床医なので、実践上の日々の要求に応えなければなりません。愛の本質を見極めることの背後にある目的は、象牙の塔の議論を満足させることでも、学問的な嗜好を満足させるための餌を提供することでもありません。その代わり、私たちの仕事が明確にした(しすぎた)ように、世界は愛することと愛されることについて苦労している生きた男女でいっぱいであり、彼らが幸福になれるかどうかは、そのような状況を入手可能かつ最大の効果を及ぼす方法で解決できるか否かに依存していることは、明らかです。心のモデルが神秘的だったり神話的だったりするかもしれないにせよ、それが臨床的に効果的であるとわかった場合 ーつまりそれを使って患者が自分の心を知ることの助けになるのであればー、私達はそのモデルの導入を拒否したくありません。
私達はフロイトのモデルとそこから派生した数多くの流派の考え方を利用しようとしましたが、それらのモデルのさまざまな利点の中に、有効性を見出すことができませんでした(訳注:フロイト派を過度に刺激しないように遠回しの表現になっている)。私たちはそれぞれ、自分たちの患者の感情的な問題に取り組もうとしましたが、古いモデルが描き出す図は、目の前に生きて存在している人の中に重ね合わせることができない領域を示すのみでした。私達の患者の中には、(訳注: モデルから導かれるような)予測の通りに振る舞う人はいませんでした。 彼らは、モデルが描き出したものから何の恩恵も受けず、何が彼らを助けたのかを私たちが理解することはできませんでした。 それらのモデルのフレームを限界を超えて伸ばしたりゆがめたりしない限りは、私たちがオフィスで毎日出会う患者達の話を解明し、その感情を理解することはできませんでした。だから私達は、心の当惑させるような謎を解き明かすための手がかりを、他の領域に探し求めました。
感情・心についての科学は20世紀の前半にゆっくりとしたスタートを切りましたが、20世紀の後半に、第二の、そして偶然の風が吹いてきました。 フランスの医師たちが抗ヒスタミン薬を探しているときに、抗精神病薬を作成しました。 この結核のための薬は気分を改善することが観察され、その後、いくつかの短い化学的観察を経て、抗うつ薬の時代が花開くようになりました。 あるオーストラリア人は、リチウムがモルモットを従順にすることを偶然発見し、それがそううつ病の治療に使われるようになりました。またある 小さな分子(訳注:明記されていないがエクスタシーなどの薬物のことか)は、摂取されて脳に届けば、妄想を消し、抑うつを取り除き、気分変動を穏やかにし、不安を払拭することができました。「感情問題の全ての原因は性衝動に対する過度の抑圧である」という仮説を元にすると、これらのことは説明できません。
1990年代には、薬理学的効果と精神分析的説明とが衝突し、精神分析的な説明はほとんどばらばらになるほど減少しました。 同時に、この支配的なパラダイムの変位により、私たち全員が、私たちの生活と愛について一貫した説明ができなくなりました。 20世紀の最後の10年間に起こったフロイトの権威の失墜により、私たちの切望、欲望、夢についての説明は、それらが不可解であるとは言えないとしても、困難なものになりました。 科学はフロイトの後継者としての地位を獲得していますが、健全で可能な愛の説明を描き出すことはできませんでした。 そこには2つの動かない障害物があり、道をふさいでいます。
まず、科学の厳密さとその冷徹さの間には、不思議な相関関係が広がっています。心のモデルが事実に基づいているほど、そのモデルは心とは疎遠になります。 行動主義は最初の例でした。あらゆる場面で経験主義を振り回し、人間生活の主要作物が思考や欲望であると認めることを拒否することによって、徹底的に不利になりました。認知心理学は、知覚と行動をつなぐ箱と矢に満ちており(訳注:知覚と行動を説明した図のこと)、人々が最も大事にしていて、かつ思考されることのない自己の中心については何も説明しませんでした。 進化心理学はダーウィンが心の動きについて見過ごした部分について希望の光を投げかけていますが、そのモデルは、友情、優しさ、宗教、芸術、音楽、詩などの、明らかに生存の利点を欠く側面を持つ人間間の生活の特徴を、幻想であると断言します。 現代の神経科学も同様に、魅力も魂もない還元主義を広めるプロパガンダになっています。 精神分析医が空中に浮かぶ城を紡ぎ出しそこに人間を住まわせようとしたとすれば、神経科学はコンクリート製の粗末な小屋を準備したといえます。人が醸し出す雰囲気や心遣いなどが全て、頭蓋骨の中をコロコロ回ってはぶつかりあう分子の玉突き作業として理解されることが可能でしょうか? 感情的な問題が発生した場合、子供向けにはリタリン、大人向けにはプロザックの量を調節することが、私たちの国(訳注:アメリカ)のあるべき対応だと思いますか? ある女性が夫を失いうつ状態になった場合、彼女の悲しみには深い意味があるのでしょうか、それともそれは、彼女が化学的な調整に失敗しただけのことなのでしょうか? 科学は人間の正体を定義するものとしては新参者ですが、これまでのところそれは、ヒューマニズムに反するものでした。 意味の探求者はドアのところで入室を断られます。 愛全体を科学的に記述することの2番めの障害となるのは、実データの不足です。システマチックな調査手法は、それが脳を知ろうとする者にとって魅力的に感じられる様々な誘い文句を、締め出すような側面があります。経験主義が親切に教えてくれるところによると、魅力的な誘い文句はあとでそのコストを回収しようとするものです。技術が銀河的に進歩しているにも関わらず、脳科学はいまだに枕の柔らかさについての多くのいらいらするほのめかしのような(訳注:みんなが違うことを主張することの例。枕が柔らかいほうが良いという論と硬いほうが良いという論の両方が巷に溢れている)、曖昧さの生まれる場所になっています。これらの暗示は正しい方向を指しているかもしれませんが、最終結論には連れて行ってはくれません。科学は脳の理解への道のりをはるかに進んでいますが、その道は地平線まで続いています(訳註: 終わりがないことの暗喩)。愛について知ろうとする学生は、確実性と有用性との間関係に直面します。それは、愛について知っておく価値のあるものはほんの少ししか証明できず、そのわずかに証明できるものは全て知っておく価値がある、ということです。
妥協を許さない経験主義者が愛の領域に踏み込むと、議論の余地がほとんどなくなってしまいます。 子供から両親に向けられた荒々しく言葉にできない訴え、若い恋人同士の激しい情熱、母親の揺るぎない献身などは全て、つかもうとすれば消えてしまう霧のような存在であり、それらはすべて、合目的的性(事実性)が真摯に追い求め、遺伝子や細胞の集まりが自己を複製しようとする営みの模倣です。
いつの日にか、もしかしたら、すべてが明らかになるのかもしれません。しかしその日の到来とは、想像を絶するほど遠くからの呼び声と同義である気がします(原文: but that day beckons from an unimaginable distance)。 そして、それを検証可能な事実へつなぎとめておくロープがなければ、誰もが愛について限りのない激しい空想 ーその空想の実現性はウイジャ盤 (訳注:占いなどに使うボード、日本のコックリさんのようなもの)による結果と同程度ですが- に吹き飛ばされて、自分の位置を見失ってしまいかねません。 経験主義・物質主義が実りなく不完全なものだとすれば、一方の印象主義の推測結果は、あらゆる方向に向きかねない、不安定なものです。人間の心について有効な理解を得るためにはどのような希望があるでしょうか。ウラジミール・ナボコフによれば、空想のない科学はなく、事実を伴わない芸術もありません。愛情は脳から沸き起こるものであり、脳は物理的存在です。したがって、キュウリや化学を科学の主題にできることと同じように、愛も科学的な主題にできるはずです。 しかし、愛は個人的で主観的な色彩を帯びるものであらざるを得ないため、蝶類学者がピカピカに光る蝶を瓶詰めにしてピンでボール紙に止めておくようには、愛を止めておくことはできません。科学の教えがどうであるにせよ、証拠と直感の絶妙なバランスのみが、心についての真の視点を生み出すことができます。還元主義の実りの無さと、印象主義の根拠のない盲信という双子の危険性に陥らないようにするためには、検証できない証拠、検証不可能性一般に対する愛着と尊敬のバランスをとることが必要です。常識は、それまでの伝統性への適度な疑いと、空を飛ぶという空想や憧れとを、同じ量で組み合わせることによって作られます。
科学は自然界を探索し定義するための非常に有用な道具を提供しますが、人間は心とその周りを探索し見極めるために、科学よりも古い方法を用いてきました。この2番めの方法は、論理と同じぐらい影響力があり、多くの状況では、その影響はかなり大きくなります。この本は、あなたの友だち、パートナー、子ども、そしてあなた自身の感情の秘密を探るための正しく十分な方法を、この両者の方法でお伝えします。
何年もの間私たち3人は、結び目を解き、その結び目を作っていた編み紐の繊維をほどくことができる(訳注: 単に目の前の課題の原因だけではなくその原因の原因までさかのぼって解きほぐす、という比喩か)ような事実を求めて、神経科学に関する文献を調べました。 要するに私たちは、愛の科学を探しました。 私たち自身の分野ではそのようなシステムは見つからなかったので、他の分野へ狩りにでかけました。 このような探索の旅は、知識欲の満足を目的とした単なる遠足ではありません。人は自分の人生を理解するための答えを持たなければ「なりません」。私達はこの答えの必要性を毎日のように認識しており、またこの答えの欠如が招くことがある苦い結果も認識しています。もし加速とは何か、慣性(止まりにくさ)とは何かを直感的に把握できない、もしくはそれに注意を払わない人がいたとすれば、その人は骨折してしまいます。愛の原則を理解しない人は、人生を無駄にし、心を折ってしまいます。その痛みとは、結婚の失敗、傷ついた人間関係、育児放棄された子供、達成されない野望、成就されない夢という形で、私たちを取り囲んでいます。そして多くの場合、これらの傷は束になって、私達の社会生活、特にその感情的な苦しみとそこからの派生効果が日常となっている場合に、それを傷つけます。この苦しみの根本原因は目に見えず、しばしば通り過ぎて見過ごされてしまうものですが、それに対処しようとしても、その対処方法は社会が理解するような感情の規則には反しているため、首尾よく成功することはありません。 この法則は、どれだけ長い間発見されないままだったとしても、心のどこかに石で刻まれています。そのような秘密が小さな小さな迷路のどこかに隠されていることを思い浮かべると、脳がその最後の秘密を明け渡すまでにはまだ何世紀もかかるような気がします。今生きている私達は、そのような啓示の夜明けを見るまで生き続けることはできないでしょう。
続くページでは、科学自身が現時点でその手の届く範囲にあると考えている様々な挑戦について取り上げます。愛の起源を探り、想像した内容を現実化し、発明を行い、そして有用性が認められ急激に増加しつつある生命科学の各論に押し出されて出現してきた、それぞれの分野で優勢な各理論を紹介します。本の構成上の理由により、脳科学についての包括的な百科事典を作ろうとはしていません。神経生理学を説明するために長い用語を散りばめた詳細図は記載していません。私達はこれでもかと言わんばかりに専門用語をならべて読者の頭を麻痺させようとは思っていません。人間の魂の内部にある風景をざっと偵察するための先導役を務められたらいいなと思っています。
科学者と医師がその土地の唯一の測量士ということはなく、実際にも最初の測量士ではありませんでした。 心の秘密を抽出して伝達するという願望は、小説、戯曲、短編小説、詩の中では他に比べるものがないほど明快に表現されています。 物質とエネルギーの等価性のようにコンパクトで驚くべき対称性を通して、愛の詩と愛の科学とは、予想していなかった類似性を見せるようになります。それぞれの道路は、知性という道具を手に入れて、その先に進ませることを可能にしつつあります。それらは、これまで手に入れられなかったものを手に入れ、その存在を「知らせて」くれます。真実がしばしばそうであるように、熱く衝撃的な事実の認識を携えて。科学は詩的な現実世界を旅し、その苦労によりそれら2つ(訳注: 科学と詩)は実際には双子であるということを知らせてくれます。 科学が登場する前は、眼光の鋭い人たちが、人とはどのようなものかについての物語をお互いに語り合い、また人はどのようにしてその力を失わずにやってこれたのかについて魅惑的に語り、教え諭してくれました。人間の本質に科学の力でせまる目的は、その物語を書き換えることではなく、それを補強し、深めることです。ロバート・フロストは「あまりにも多くの詩人が、心は危険だと考えそれに深入りしようとしない事により、自分自身に嘘をついている」と書きました。これは脳研究にも同じようなことが言え、あまりにも多くの専門家が単純な恐れから、愛について言及することを避けています。
私達は心が危険なものだと考え、そして(訳注:だからこそ)そこに飛び込まなければならないと考えています。詩的なものと現実的なもの、証明されるものと証明されえないもの、心と脳、それらは反対の極性をもつ電子と陽子のように、互いに反対の方向に引っ張られます。その2つが一緒になるところでは、熱が発生します。
それらの放射が交差する場所で、愛は自身の姿を表し始めます。これから私達が始めようとする旅は、決して完全なものではありません。現在の科学は全体の構造をほのめかしはしますが、それを定義するところまでには至っていません。実のところ、心の城はまだしっかりとした根拠を持つには至っておらず、その敷地内には、推測されたもの、発明されたもの、詩的なもの、などが格納された多くの部屋が残っています。神経科学が脳の秘密の鍵をあけるにつれ、愛の本質を覗き見ることができるようになり始めるでしょう。その過程こそがこの本の内容です。もしそれが人の生の秘密ではないとすれば、私達もまた、それが何であるかを知りません。