第10章 開かれたドア
愛の秘密のために未来は何を持てるのか
その深淵で私は、愛がどのように結びつけるかを見た
飛び回る全ての生き物、宇宙に散らばっている生き物の全てをどのように結びつけるかを
物体、出来事、それぞれのやり方が一つに結びつき、
融合し、いわばその賢明さのなかで一緒になる
それはつまり、一つの単純な光だ
ー ダンテ「神曲」より
人間が解明したい、定義したい、予測したいと思う情熱 ーつまり科学への情熱ーをはじめに向けた自然現象は、夜空の天体の動きでした。
初期の天文学者は、論理的推論により、地球は回転する宇宙の中で止まっているハブ(回転の中心)であるという宇宙観を提出しました。彼らは星や惑星は回転する透明な殻の中に埋め込まれているとして、天空で宝石のように光る行列について説明しました。
実用主義(プラグマティズム)の要求は、すぐにそのモデルの美しい単純さに影響を与えました。
惑星と天体の動きをより正確に観測できるようになり、その観察結果に計算モデルを合わせるために、より多くの中空球を追加する必要がありました。
Eudoxusは27個のガラスボウルを仮定しました。
アリストテレスが彼のバージョンの宇宙観を出版するときには、彼はその中空球を55個必要としていました。 プトレマイオスは正確さを追求するために厄介な修正に取り組み、その天文追跡システムは、その後1700年間にわたりゆっくりと使われてきました。
しかし望遠鏡の発明がついに人類の星への扉を開き、
地球は自転し、かつそれは太陽の周りをビリヤードの玉のようにトップギアで回り続けている、ということを証明しました。
古い天文学者がずっと図式化してきた天空の動きは、実際には彼らの足の下にある地面が高速で動いていることによる結果でした。何世紀にも渡って天文学者に使われてきた天空説ベースの機械は、きしんだ音をあげ、壊れていきました。
私達の時代も、古くなり扱いにくくなったこれとは別のモデルを引退させる準備ができています:
それは、ずいぶんと昔の経験主義に基づく感情的な心のモデルのことです。
科学は、知性、理性、情熱、愛を生み出す脳を、せわしなく分解して理解しようとしています。
つまり、私達自身と、私達自身の心とを生み出す繊細な構造を分解しようとしています。
私達がその中に住んでいると教えられてきたイド、エゴ、オイディプスは、夜明け前の夏の星たちのように消えかかっています。 これらの過去の権威を拭い去ったのは
「理性によりそれらの永続的な真理性をはじめに仮定してしまうことなく、原理を探し求める」という奇想天外さを持つ科学
それはまた、全ての詩人が持っていなければならない傾向
プトレマイオスの天動説による宇宙図は、それはひどく間違ってはいますが、何世紀もの間に渡って星や惑星、太陽、月の見かけの動きについて天体観測者に情報を与えてきました。
そのモデルはしばしば非常に正確に、予測し説明することができました。
しかしそれは「十分に」説明することはできませんでした。その適用範囲の限界により、それをいじり回したりつなぎ合わせたりしても、それを持ち続けることはできなくなりました。
だからそれは、感情的な心についての20世紀のモデルと並ぶものなのです。
それらは私達に忠実に仕え、私達を忠実に欺いてきましたが、それらは今では、それら自身が是正することができなかった矛盾というしっかりした圧力により、きしみ音をたて、すり減ろうとしています。
私達は、古いスポンサーの保護の元で行われた観察結果の「全て」を放棄しなければならないわけではありません。
沈む船から救助された船員のように、それらの発見のコアメンバーだった船員たちが未来に航海を始めるでしょう。
彼らは新しい船の最上部デッキにある展望台から、古くなった船が波の下に沈んでいくのを見ることになるでしょう。
感情は1億年前までさかのぼりますが、認知はせいぜい数十万年前のものです。
新皮質はその若さにもかかわらず、その卓越した能力で西洋の世界を驚かせ、心のより静かな辺縁系の住民を食いつぶしました。
論理と推論は非常に明確に行われるため、すべてのドアを開くマスターキーと推定されています。
心を最初に調べた人たちは、以下の計画を描きました。
その導く性質をもつ光、
真の現実を確信させる、負荷に耐えうる光、
分析的考え方の卓越性、
合理性という究極的なルール
心の先駆的な探検者たちは、理性という旗を掲げて空に浮かぶ城を想像しており、
私達の社会はあまりにも長く、その空想的な建物の中に住むことを試みてきました。
彼らの努力は賞賛すべきで、洞察的・創造的でありさえしましたが、彼らの作った構造物は、人間の生という非常に大きな不合理性が住むには適さないということが証明されました。
それらは、神経構造の進化という壁と塔であり、それは哺乳類が住むために作られたものです。
私たちの知性は、ほとんどそれらに盲目です。
心の真の構造の中で、理性に導かれることを許そうとすれば、壁にぶつかり、敷居の上で躓いてしまいます。
彼らは、この許されざる構造との痛ましい衝突から逃げようとしている愛をほとんど見ることができない、専門バカです。
私達の社会には、私達がより良い未来を迎えるためにはどう考えたら良いのかということを教えてくれる専門家で一杯で、彼れはあたかもそれが可能であるかのように教えてくれます。
彼らは、知性がショーを動かすものだという想定を、立ち止まって後ろを振り返ることなしに簡単に断言し、それを現金化します。
しかし事実は違います。
ブレイズ・パスカルが以下を書いています。
「理性の最後のステップとは、無限性が理性自身を超えていくことを認識することだ」
新しい千年紀が始まるに当たり、科学はその洞察力の頂点に近づき始めています。
私たちの文化は毎回彼らに反対するかもしれませんが、辺縁系の脳が要求する接続を開拓すれば、人々はまだ成功した生活を送ることができます。
人類の未来がどうであろうと、私たちは決して、神経生物、哺乳類、霊長類としての遺産を捨てることはありません。
私たちは感情的な存在なので、痛みは避けられず、悲しみが来るでしょう。
世界は平等でも公平でもないため、苦しみは均等には分配されません。
心の道を直観する人は、よりよく生きる可能性が高くなります。そうする人々の社会は、私たちだけが推測できる展望を持っています。
愛の理論を探求する冒険は、終わりからはまだ相当離れています。科学はこの塔やその高くそびえ立つ壁を間近で垣間見ることができますが、心の城はまだ天に高く垂れ下がっていて、雲に覆われ、霧に覆われています。 科学が愛の秘密を完全に解明したと発表する日は来るでしょうか? 経験主義は、心の城にある一番高い場所から確実性という地面の基盤まで、途切れない道をたどることができるでしょうか。
もちろん、そうはなりません。
経験主義が独力で人間の魂を定義しそれを生み出すことを期待するとすれば、それは多くを求めすぎだというものです。
科学は芸術と強調したときのみ、非常に正確になります。
どちらも私たちが世界と私達自身を知りたいと苦闘することのメタファーです。
つまり、どちらもインスピレーションを与えるフラッシュで内側と外側の景色を照らすことができますが、それが永続的に続くには、終わりのない再発見を必要とします。
カール・サンドバーグはかつて、「詩はドアの開閉であり、それを見る人達は中に何があるかを推測することしかできない」と書きました。
私達が分別をもって望むことができることは、科学がそのドアを時々開け、そのたっぷりつまった中の秘密をほんの一瞬覗き見ることを許してくれるように願うことです。
人類は、その開かれた入り口から光って出てくる新しい事実を待っています。
そのような発見の数々は、最終的には一つの目的を持つでしょう:
人間が充実感と喜びという潜在性に到達することを助ける、という目的です。
私達は愛の性質を変えることはできませんが、その指示を無視するか、それともそれが持つ壁の中で成長するかを選ぶことはできます。
そうするだけの知恵を持つ人達は、自身の心の声を聞き、関係性から力を引き出し、自分たちの子どもたちが将来同じことをするように、その子ども達を育てるでしょう。