第8章 石と空の間
道を踏み外した心を癒やすことができるのは何か
発見という真の航海は、新しい風景を探し求めることの中にあるのではなく、新しい目を持つということの中にある
—マルセル・プルースト
ローマの中心部には、世界で最も壮大な噴水があります。トレビの泉という名前は、それが3つの道路(tre vie)の交差点に位置することから名付けられました。
馬車に乗ったポセイドンが馬を引き、怒り狂う海と対峙します。シート状に広がった水は、一段下になった平らな部分に流れ落ちます。言い伝えによれば、噴水のプールにコインを投げた旅行者は、永遠の都ローマに再び帰ってくることができるそうです。
呼吸と呼吸との間で、一瞬時間が止まったと想像してください。トレビの泉のきらめく光が、一瞬固まった様子を。空中には水滴が停止しています。きらめく宝石がイタリアの青い空に浮かんでいます。
水でできた真珠の歴史、つまり水と風の意味のないぶつかり合いが、どのようにして分子の球状置換を生み出したのかを推理することに苦労するかもしれません。あらゆる物理的なパラメータを駆使して、相互に関連し合う力を描き出し、時間という廊下を覗き込み、目の前の事象をフレーミングできるかもしれません。雨滴であろうと感情的な心であろうと、発達論者が答えようとする質問:
「どうやってこのようになったのでしょうか?」
同じ構造から始めて、時間軸を中心に未来に向かって旋回すると、また別の謎のなぞなぞが現れます「このシステムの運命は何ですか?」この形は、1分後、1時間後、1年後にはどのようなものになりますか? 「カオス理論」と呼ばれる数学の理論は、そのような追求は不可能だと宣言しています。もし時間を逮捕することができれば、それらの水滴分子の位置は調べることができるでしょう。しかしその絵は止めることができず、時間は過ぎ、水滴はバラバラになります。数秒後にその水滴の分子がどこにあることを予言できる人はいません。それはローマ市内にあるのしょうか? まあそうでしょう。トレビの泉の中でしょうか? おそらく。しかし「正確には」どこでしょうか?
宇宙は神よりも小さいいかなる存在の具体像も見せてはくれません。竜巻から発生した雷の総数は、有限の生命しかもたない人間が一覧にまとめて数え上げるには多すぎます。
それは感情と心にもあてはまります。もし噴水がそれを覆っている岩のように固く凍っていれば、それがその後の数分間にどのような形を取るかについては、確実に予測することができるでしょう。水分子が取りうる「すべての」配置が同様な可能性を持てば、永遠の前で降参し、名誉の敗北を選ぶかもしれません。 水と心が持つ、その形態を作り上げる能力の計り知れないほど大きな(しかし無限に大きくはない)変動可能性は、「流動性」です。感情と心は水しぶきの球のようなものであり、それは石の不動性と空の自由さとの間にかけられた橋です。アイデンティティは変えられますが、それはその構造が許す範囲内でのみ可能です。
その可能性は、成人後の神経生理学に許され得る感情の学習に大きく依存しています。
放置または虐待された子供は、健康的な人生を望めるでしょうか?
彼の成人期において彼の過去を再現し、彼がすでにあまりにもよく知っている原則を再び証明することになるでしょうか?
神経症の進行と付き合いながら、どのようにその治癒が起こるのでしょうか? 現実をその人の型へ押し込むアトラクターをすでに持ってしまっている人が、どのようにその心を開放することができるのでしょうか。 心理療法はこれらの課題に毎日取り組んでいます。セラピストは、その人の感情という人生の軌跡をただ観察するのではなく、それをあるべき形に変化させることを望んでいます。
その人が捉えられている枠組みから逃げ出すのを手伝うということは、その刑務所の檻と壁の形を変え、それを愛が生まれたり人生を楽しんだりできる家に作り変えるということを意味します(訳注:ここで「脱獄」という表現を使わず「檻と壁の形を変え」としているのは、脱獄=人生からの脱出=自死を意味しかねないので精神科医としては使うことができないためと思われることに注意)。
この目標を達成するために、2人の人間は、そのうちの一人を誰か別の人間に変えるために集まります(訳注:変わるのは患者だけではなく精神科医やセラピスト側も含まれる、という著者の含みと思われる)。
変身(メタモルフォーゼ)が「どのように」起こるかについて同意する人はほとんどいません。 心理療法により引き起こされる心の変化というテーマは、十分過ぎるぐらいの熱い議論と、バルカン半島の歴史に匹敵するほどの党派的な確執を生みだしました。
それは当然といえます。
治療の中心となるのは、人間の中心でもある心なのですから。
失われたパラダイム(訳注: 原文のparadigms lost は paradise lost のもじり)
心についての2つの学派は、20世紀を通じて、上となり下となり戦い続けました。その煙と叫び声は今もなお、心理療法の中心課題がなんであるかを曖昧にしています。
一方の「生物学」に属するグループは、
精神現象は脳の物質世界から発せられると考えています。したがって、精神病理学は、その物理性を変形させることから始まります。
神経受容体の誤った形成形態、
脳の損傷、
などを治療の対象にします。
これらはすべて真実です。
この学派は、薬物療法、電気療法、磁気療法などの治療方法を好んで使用します。これらはときには機能します。
もう一方の由緒ある「精神医学」の教授会は、触れることのできない以下の内面世界が原因となって感情的な混乱が発生している、との見解を持ちます。
記憶という幽霊が歩く世界
感情が力を持つ場所
人間関係がその人を過去のパターンに縛り付ける
これらもまた真実です。
この集団は、いささか面食らうほどたくさんの種類がある心理療法を通じて治療を行うことを提唱しています。これもまた、断続的な効果を持ちます。
これらの争い合う各派閥はそれぞれ、自分たちの陣営にとって有利な証拠のみを採用しています。
しかし、心を「生物学的」見方と「心理学的」見方とに分けることは、光を粒子と見たり波として見たりするのと同じくらい、間違っています。
自然は、人間が考えるようなケチ臭かったり便利だったりする予測に合わせて自分自身を調整するというようなことはしません。実際に起こったこととして、光は、何十年もの間科学者を引き寄せ続けた一見単純な二分法(訳注: 光が粒子であるか波であるかという論争)を打ち破りました。
光が軽い粒子であるということを証明しようとしたすべての実験は成功しましたが、それが波であるというテストもまた成功しました。これは理論的には不可能です。
粒子であることと波であることはお互いに排他的です。
つまり、ある物はその一方の性質と反対側の性質との両方を持つことはできません。
実際には、「粒子であること」と「波であること」という各概念は、自然界に存在するのではなく、心の中に存在します。これらの大雑把なカテゴリー分けは、光の本質を捉えることができません。
同様に、感情という心は、それを心理的側面と生物学的側面とに分離するといった容易で魅力的な二元論を超越しています。
まず物理的なメカニズムが、世界の経験を生み出します。
次に経験が、意識の元である電気化学的メッセージを送る神経ニューロンを改訂します。
その永遠の編み紐を構成する一つの繊維束を選んで、他の束より卓越したものであると宣言することが、その宣言の真理性の当てにならなさを作り出す当のものです。 私達のポスト・プロザックの国(訳注:アメリカ)では、現代の薬物療法を用いることにより、個人の人格特性を変えることができるとほとんどの人が認識しています。 あまり知られていませんが、(薬物療法とは異なる)もう一方の心理療法により、脳の状態を変化させることができるという対照実験の結果が(先進的な画像認識技術によって)確認されています。
両軍とも、すでに常に、すべての領土を占領していたというという理由だけをもって、心についての戦争を止め、休戦を宣言することができます。ドードー鳥が不思議の国のアリスを見つけたように、誰もがすでに勝っており、「すべて」が称賛される必要があります。
心と体の分離という考え方は、心理療法とは生理学であるという真実を隠した、偽りの考え方です。
ある人が心理療法を始めたとき、それは白々しいやりとりが始まるということではありません。彼は関係性についての身体状態に踏み込もうとしているのです。
進化は哺乳類を現在の形に作り上げました。
哺乳類は、他の個体が呼び起こした信号に自らを同調させ、他の個体の神経システムの状態を変化させてきました。
心理療法が持つ変換の力は、これらの古くからのメカニズムが持つ、引き寄せる力、方向性を指示する力に起源を持ちます。
心理療法は、消化や呼吸と同様の現実性を持った、生きた体にある辺縁系への働きかけの形態です。辺縁系の働きに影響する生理機能がなければ、心理療法は実際のところ、一部の人がそう考えている通り、意味のないジョークに過ぎないものになってしまうでしょう。
「イドがあったところには、エゴがあるはずだ」というのが、フロイトの戦いの叫びであり、会話による治療という行為の概念をカプセル化してその有効性を長く説明付けるものでした。彼は、スペインの征服者がジャングルを打ち負かして都市を建設したかのように、人の内面と知性とが、心という暗い下部を打ち負かす様子を想定しました。 会話をすることは大脳新皮質の想像力が可能にさせるスキルですが、セラピーはそれより古い現実性である辺縁系が司る感情という領域にアクセスします。セラピーは文明の誕生よりも前から威力を奮っていた力(訳注:感情)を支配する方法を探すべきではありません。なぜならセラピーは、愛と同じように、これまでもそれら(訳注:感情という相互作用)の一つだったからです。
人々は、愛することができないためにセラピーを受け、その能力を回復してセラピーを終えます。しかし愛はセラピーの終わりであるだけではなく、すべての目的に到達する手段でもあります。
この章で私達は、愛の3つの神経学的な側面
辺縁の共鳴、調節、修正
がどのように心理療法の中核となり、成人後の心の成長を背後で支える原動力となるのかを検証します。
感情的な心を変える
辺縁系の共鳴
人はみな、内部世界の情報を外部に発信します。
密集した物質が、その見た目を裏切るように周りに電磁放射を浴びせるように、人の感情的なアトラクターは辺縁系の音色というオーラを周りに放射し自分の存在を表します。
それを聞いた人が自分の新皮質のおしゃべりを静かにさせ、辺縁系が自由に感覚を感じ取ることを許すと、メロディーは匿名の静けさに浸透し始めます。
個人の反応、希望、予期、そして夢という物語が、そのテーマへと解決していきます。
恋人、教師、友だち、ペットたちの物語は前後にこだまし、いくつかのモチーフと融合します。
聞いている人の共鳴が大きくなると、彼はその個人という世界の中で他人が見ているものを見るようになり、そこに住んでいるかのような気持ちを持ち始めます。
セラピストたちはときどき、患者の流暢なおしゃべりを分類し分析したいという欲にかられるときがあります。しかしそれは魅力的ではあるけれども意味のない回り道です。
イタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギの「ローマの噴水」からいくつかのものさしをもってきましょう。その音は聞いている人にトレビを思い出させます。どのようにしてそれは開示されるのでしょうか。
人は入ってくる音を分析し、音の周波数を精査し、無音部分の感覚を図にしてまとめあげることもできます。しかしレスピーギが言いたいことを受け取りたい人は、その音を聞くだけで良いのです。
脳は、音の組み合わせを、より高い次元で組み立てることが出来ます。レスピーギの熱狂的な表現を把握するためには、学校教育を必要としません。ベートーヴェンによれば、音楽は哲学よりも高いレベルの啓示だといいます。脳の他の部分は、感情の信号をより高いレベルの啓示に変換することができます。セラピストはこの音楽を見逃しています。
感情的な癒しは、辺縁系から始まります
鋭い耳を持つ誰かが、あなたが発する音楽の旋律の背後にある本質を捕まえます。
ぼんやりとした感情しか持たない両親から生まれた子供は、暗闇の中で美術館をさまようように自分自身を知ろうとしていることに気付きます。
つまりほとんどすべてのものがその壁の中に埋め込まれています。彼は自分が何を感じているのか確信できません。
大人の世界では、優れた占い師が持つ光こそが暗闇を照らし出し、長い間失っていたと考えられている宝物を照らし出し、多くの恐ろしいものを影と塵に戻すことができます。
自分を他者に晒すことに成功した人は、自分の視野を覆っていた曇りが少なくなっていることに気づきます。夢から覚めた人のように、彼らはこれまで積み重ねてきた、体の大きさに合わない装飾品という罠を脱皮するように脱ぎ捨てます。こうして投資信託マネージャーが彫刻家になるかもしれませんし、またその逆もありえます。
徐々に、これまで親しんできたいくつかの友情は古くなり的外れであるように感じられ、同時に新しい友情が深まります。都市生活者は田舎に引っ越し、やがてそこが自分のホームだと感じるようになります。辺縁系の透明度が上がるにつれ、人生が形をとるようになってきます。
辺縁系の統制
関係性を通じたバランス調整
ある種の身体リズムは、昼と夜という潮の満ち引きと同期します。
このリズムは、ラテン語で「約一日」という意味をもつ「サーカディアン circadian(訳注:概日リズム)」と呼ばれます。 この呼び方は、「サーカムルーセント(circumlucent)」のほうが実情に合っていると思います。というのは、このリズムは地球の公転と同じくらい確実に起こるものであるからです。
回転運動の中心点といえるものは、宇宙の中にあるだけではなく、人の生理学にもあり、それは大脳辺縁の近くで作動する和音作用の中にあります。
私達の神経機構は、人と人との関係性を生の核心に置いています。
それは、燃えるような温かさで生を「安定させる」力を持っています。
人が傷ついたりバランスを崩したりすると、関係性の調整機能が、人を何らかに所属させます。 仲間、同好会、ペット、結婚、友情、マッサージ師、カイロプラクター、インターネット、などはその所属機能の現れです。これらはすべて、感情的にだれかと繋がれるかもしれないということを潜在的に可能にします。と同時に、これらの絆は、地球上のすべての心理療法士が行うセラピーよりは優れています。
一部のセラピストは、関係性という極めて強い力に対して反発しています。
彼らは、(訳注: クライアントの)内面についての分析・洞察をクライアントに提供するように教育されました
その分析結果とは、都市計画や資産コンサルティングの資料を机の引き出しから取り出すかのように、クライアントに提供されるものです。
(訳注: クライアントからの)依存を恐れるセラピストは、患者に対して、ときには公然と、クライアントの依存したいという衝動は病的であることを伝えます。そうすることで、そのセラピストは非常に大きな力を持つツールを手放してしまうことになります。 そのようなかつての子供たちは、助けを求めてやってくる大人たちの中にしばしば含まれます。
私達はそのような人たちに対して、「誰もが寄りかかる腕を見つけられず、個人的な悲しみを和らげるためには働かなければならない」ということをもう一度伝えるべきなのでしょうか。
その場合私達は、すでに十分に行なわれてきた実践を厳かにもういちど繰り返してしまうことになります:
多くの人は、この言い聞かせが十分に効果的でありすぎるということを知っています。
もしクライアントとセラピストが治療に効果のある道を辿ろうとするのであれば、彼らは辺縁系による調整機能が働くことを許し、その調整機能に付き物である依存を許し、これが魔法のような革命を起こすことを許す必要があります。
多くのセラピストは、甘えが有害な依存症を助長すると信じています。その代わり彼らは、患者が「自分でなんとかする(DIYする)」ようにするべきだと指示します。あたかもそれは、患者が自分の人生を好転させるスイッチ以外のすべてを持っているかのように扱っているということです。
しかし人は、地理や州都所在地を覚えるようには、感情を学ぶことはできません。
そのスキルは外部の熟練した調節者の存在を通して、生きていく中で身につけていく必要があり、かつそれは暗黙的に学ばれる必要があります。
知識は、ある人と他の人との間にある心のギャップを飛び越えますが、その知識の学習者はその伝達された情報を明示的に記述された内容として経験するわけではありません。 その代わり、自転車に乗ったり靴紐を結んだりすることを学ぶのと同様に、自発的な能力が発芽し、それが身につけた自己の能力の一部になります。苦労した最初の始まりは記憶から徐々に消えていき、やがて完全に消えます。
このような調整機能を必要とする人はしばしば、治療のセッションを終えるころにはより穏やかで、より強く、より安心して、より世界をコントロールできる感覚を持つようになります。
そしてその理由をしばしば知りません。
明らかに助けになるようなことは何も起こらなかったーただ自分の痛みについて他人に話すことは、苦しみを緩和する明確な方法であるようには聞こえません。
そのとき感情全般が必然的にマイルドになり、ときには数分以内には温かさと安心感を感じるようになります。しかし患者がより長く依存していればいるほど、彼の安定性はより大きくなります。それは治療セッションごとに限りなく広がり、機織り機により糸が織り込まれて布地が広がっていくかのようです。患者はその生地を十分に織り上げた後、広げた翼のように自分を独立させることができます。
ついに自由が到来し、彼は風に乗り、別の土地へと飛び立ちます。
薬物治療によるバランス調製
大脳辺縁系の繋がりは、制御不能な感情状態に陥っている人を安定させることができます。
しかしそのような愛着が調整できるような範囲を超えているような状態もあります。 例えば、性格的な問題を抱えた大人に対する治療としては、辺縁系の調整が果たす役割は比較的小さいです。重度なうつ病もまたその範囲外です。 うつ病は多くの場合、人を社会的接触から退却させるように導き、その人の社会的絆に与える感情的調整の影響を無効にします。たとえうつ病の人が交流を持ったとしても、その人は視線をそらし、感情的な信号の交換から自分自身を切り離す可能性があります。また、うつ病は辺縁系回路を遮断します。ある研究では、うつ病の患者は、その機能の原因となる領域に脳損傷を負った患者よりも表情を認識できませんでした。 薬物治療は、愛着感情の調整が効かないときに、ときどき効果を発生させることがあります。
感情という神経化学状態を直接操作しようとすることは、慎重さを必要とする試みです。
その介入手法が未熟なものであった場合、予測される興奮状態と損害の大きさが恐ろしく大きくなるためです。
薬を使用して感情的な心を変えることは、自分が作ったものをいじることを意味します。正しく使えば、その錬金術は命を救うことができます。
薬物療法を取り入れる精神科医は、その使用への反対意見とよく出会います。
大うつ病に対して薬物療法を行うことは、医師と患者との間に信念の衝突を引き起こし、それはガリレオと教皇との間に起こった衝突に匹敵します。
一方は鉄のような絶望からの逃れられなさ、永続的な絶望感、硬い一枚岩のような寒々しさ、痛み、不安、恐怖、そして死を頑固に数え上げます。
もう一方は、錠剤の形をした楽観的な予測により応えます。
患者の視点から見ると、医師の主張は異世界です。
抑うつという暗いプリズムは、彼が幸せだったときに薬物治療に対して抱いていた信頼性を何であれ闇の中に投げ入れます。
すべての問題を評価することは不確定なビジネスです。感情に起きた他の重要な動きと同じように、抑うつ状態もまた、外国の軍隊による占領ではありません。
それは市民による暴動であり、アイデンティティという共和制国家を内部から転覆させる試みです。
うつ病者は生きるエネルギーや食欲を失うだけではなく、彼自身を失い、「クーデター」前の自分なら下してたであろう決定を下す能力を失います。
従って、もし彼が抗うつ剤を服用した場合、それは彼の論理的認知を変えるための服用ではありません。彼は、精神科医が住む晴れた世界を見ることが出来ないのであり、それがあるということを全体的に(または遠くから見て)信じることができないのです。長方形のカプセルは彼にとっての十字架像になり、ダビドの星になり、ロレーヌの丘でキリストが貼り付けにされた十字架になるのです。つまりより良い世界が到来するという約束の証となるのです。
その信頼の種は、心理療法と精神薬理学との両方に先行しなければなりません。 精神科医が治療の前提条件(訳注:治療の有効性への信頼が前提として必要であること)を宣伝することはめったにありません。それは見抜かれたり見抜かれなかったりします。
患者は自分の現実以外の現実をスパイする必要はありません。実のところ、彼は通常それをすることはできません。2つの世界に橋をかけるのはセラピストの仕事です。
しかし患者はセラピストの感情的な信念が実のところ虚構であり、誰か別の人の感情的な信念のほうが良いのではないかという問題提起を飲み込まなければなりません。
だれもがそうできる訳ではありません。
精神科医のオフィスには、ジェットコースターに乗れる人の最低身長を表す掲示のようなプラカードを掲げる必要があります:
「この乗り物に乗るためには少なくともこれを信用しなければなりません」というプラカードを。
例えばある若い女性は、セラピストが使っている治療用のフレームワークが本当に信用に値するかについて説明してほしいと要求しました。
「私が私自身ではなくてあなたを信じるべき理由はなんですか」と彼女は根気強く尋ねました。「一つでも良いので、納得できるような理由を教えていただけませんか」、と。
彼女の要求は正当なものであるように見えました。2人はそれを考え、議論し、何ヶ月もの間じっくりと熟考しました。
しかし彼女たちはその理由を見つけられませんでした。なぜならそんな理由はなかったからです。
精神科医が行うトレーニング、教育、これまでの業績、何年もの実践、などは、完全になにも打ち立てることはありませんでした。
どんな問題であれ、その道の権威が間違うことはあるし、初心者が(偶然であれ)正しいこともありえます。
経験豊富な専門家は、自分の領域内のトピックについては正しい「傾向があります」が、2つの仮想性(訳注:お互いの感情をともなう主観性)が出会う場所の正当性を証明も保証もできません。 精神医学は、その残りの部分である薬学を駆動する燃料と同じ燃料で動いています。
それを信用する人は、他人が真の解決策を持っているということを望んでいます
それをあまり信用しない人は、それが信用すべきかどうかということに掛け、もっと信用することを学ばなければならないと感じます
信じて高く飛ぶ、ということをしない人は、幸運から締め出されます。
精神の健康は、お金や力と同じくらいにそれ自身を惹きつける作用を持つものです。
多く持てば持つほど、より多くを得ることができる、ということです。
一部の人は、感情的な病気に対する治療方法としては不適切な薬理治療を信頼しています。いつの日か、現代の薬学療法が持つ潜在的な力とその射程が、古くからの信頼ー治癒という感情の仕組みに取ってかわるべきなのでしょうか?
対象となる患者が社会的生き物であるということは変わらない事実であるため、その答えはノーです。
うつ病に対するプラセボ(偽薬反応)の効果率はたいてい、30パーセント付近でばらつきがあります。不安障害に対する場合は、40パーセント以上です。一部の観察者は、このデータを誤って解釈し、プラセボには意味がないとし、もし薬がよく効かないとしたらそれはその処方量が弱すぎるからだと結論づけています。それはまったく逆です。患者と治療者の間の辺縁系による相互作業は非常に結果に影響を及ぼすため、最も強い薬剤だけがその効果の強さを明確に「証明」される、というだけのことです。 落ち込んでいる人にとっての治療薬は、凍った海に閉じ込められてしまったときに脱出するための斧になりえます。睡眠状態と食欲が最初に改善し、以前の逸脱状態から正常な状態に戻り始めます。配偶者や友人は、親しみがある以前の様子が時々現れることをキャッチし始めます。
物事への興味が戻り、喜びがでてきて、ついに笑うことができるようになります。
それに伴い、暗い考えは退却していきます。
病的な考えはかすんだ廊下から滑り落ちます。
数カ月後、憂鬱さは午前中の悪い夢のように消え、不快感の残像だけが残ります
精神科医が利用可能な2つの装備があるとします。
一つは人間、一つは化学物質であり、両方とも強力な辺縁系の作用を持ちます。
そのときその医師は、それぞれをいつ使うかを決めなければなりません。
最初の選択肢は簡単です:
生物としての心をもつ治療者は常に辺縁系の作用を考慮し、それは生まれつき備わっており効果的で副作用がないので、それによる治療がベストの選択です。
しかし、医者本人(訳注:の心理療法)以外の治療法を採用しなければならないのはどんなときでしょうか。
いくつかのケースでは、薬物治療が文字通り救命用具になります。 大うつ病と双極性障害は、今でも、毎年何千件も報告されています。
明らかな苦痛を和らげ感情の病的な状態を抑えることは、先進的な薬理学が発展した現代においては、多くの人が疑問なしに受け入れることができる治療法です。
それでも、多くの臨床の場面には、そのような緊急性はありません。
多くの場合患者は、死の危険や特定の承認された病気を治すためではなく、幸福な状態に達するために薬物を服用します。
一部の人たちは、薬物というルートは不道徳な近道であり、そのルートを取る人は冷酷な宇宙が要求する試練に耐えることなく恩恵を受け取っていると考えています。
心理療法に参加して、その数年後に悪い気分や不安が消えたりした場合、その人が運命をごまかしたり神に背いたりしたとは誰も思いません。 別の誰かが錠剤を飲み、その数日後または数週間後に同じ目標に到達した場合、多くの人は疑問に思うでしょう。これは許されることなのか、正当なことなのか、『フェア』なのか、と。
「人は自分を良くするために『努力し』なければならない」というのは直観的な(そしてしばしば正しい)哲学であり、患者に対して「服薬とセラピーという努力を混ぜてはいけない」と教え諭す多くのセラピストのなかにある声です。
現実においては、(薬剤治療への)反対論者は心配する必要はほとんどありません。歴史のほとんどの期間において、人類は
アルコール、
アヘン、
コカイン、
大麻、
その他少数の感情調節物質
を利用してきています。それらのすべてには大きな欠点があります。
感情という真に効果的な化学的変化は、その根本的なメカニズムは未だ不可解な謎のままであるとしても、眼を見張るような科学的な効果です。しかし、薬剤治療は、辺縁系の苦境のすべてを、それどころか半分でさえも、改善することはできません。薬による治療は、微妙なニュアンスに欠けているところをその効果の強さで補いますが、ときにはその微妙なニュアンス自体が求めらているものとなります。
人生初期の感情的な体験は、脳内の神経ネットワークという長続きする織物を折り込みました。その細かい縫い目を変更するためには、全く異なる種類の薬が必要です。
辺縁系の改善
その人のことを知ることが、治療セラピーの最初の目標です。
感情を修正することは、2番目の目標です。
ーそれが関係性によるものか、精神薬理学によるものか、もしくはその両者か、ということかはさておき
セラピーの最後の、そして最も野心的な目標は、感情的な生活を方向づける神経のコードを修正するということです。人間の脳内のどこかには、彼の辺縁作用を具現化する無数のつながりがあります。それは、感情的な認識を曲げ、愛の行動を導く強力なアトラクターです。セラピストは、満たされない人間関係や変えられない自己評価の欠損に苦しんでいる患者を助けたいときその人の脳の組織構造を変えたいと考えます。 もし何らかの作用によりニューロン同士をつなぐ橋を作ったり壊したりできれば、つまり接続を強めたり弱めたりできれば、神経的な認知は変わるでしょう。しかし脳は複数の学習システムを持つので、すべての情報が同じように変わるわけではありません。
「7足す3は10になる」とアウグスティヌスは書いています。「いまそうであるだけではなく、常にそうである」
「7と3が10以外を作ったことは今までなく、これからも決してない。したがって私は、数字同士の変わらない関係は、私にも私以外の理性的な生き物にも共通するものだという立場をとる」
ここで、アウグスティヌスが墓の中で考えを転向させ、数学ルールが急激に変更されて、7足す3が11になったとします。
この変更を今朝の新聞で読んだ人は誰でも、足し算の規則をすぐに変更するでしょう。大脳新皮質は事実を素早く集めます。大脳辺縁系はそうではありません。
感情的な印象は洞察を欠いたものになりがちですが、別の説得力を持つことがあります。それは、辺縁的な接続への入口となる他人のアトラクターを動かす、という力です。心理療法が人を変えることがあるというのは、哺乳類が他者の大脳辺縁を再構築することができるからです。
関係パターンの修正
それは例えば、
一輪車に乗りたい、
ゴールドバーグ変奏曲を演奏したい、
スワヒリ語を話したい、
という欲望のなかからどれか一つを選ぶようには選ぶことができない、ということです。
これらの活動を実行するために必要な神経ネットワークは、命令により結合して1つになることはありません。
積極的に展開される自助運動(訳注:自己の分析や洞察により自己を変えることができるという考えかたに基づいた諸活動、セルフヘルプ活動)は、「強い意志を持った人間、正しい方向性を身につけた人間が良い人間関係を選択することができる」というでっちあげを守り続けてきました。
迅速な解決の約束に魅了された人々は、それを飲み込んでしまいました。しかし、感情という生理現象は、2、3個の言葉で一掃されるようなことはありません。誰かとの良好な関係性を、どんなに正確にまたはどれだけ頻繁に説明しても、その説明は愛を生み出すニューラルネットワークのなかに「刻み込まれる」ことはありません。 自助の本は車の修理マニュアルのようなものです。
それを一日中読むことはできますが、それで問題は「解決」しません。
車を修理するということは、袖をまくり上げてボンネットの下に入ることを意味し、そして手を汚し、指の爪の間に油が染み込むということを覚悟しなければなりません。
感情的な知識の見直しは観客のいるスポーツではありません。
それは、ある場所を引っ張ったり、いじくり回したりする、辺縁の結びつきからやってくる乱雑な経験を必要とします。
現在の誰かの関係が問題となる刷り込みを持っている場合、それはその人の子供の頃の影響的な関係性が残した印によるものだと言えます。辺縁系の接続が神経パターンを確立したのであれば、それを修正するためには辺縁系に働きかける必要があります。 感情的によく調整されているセラピストは、患者の辺縁系アトラクターの誘惑を感じます。 それは、そのセラピストが他人の感情をただ聞いているということではなく、彼ら2人がその感情的な人生をそこで「生きて」いるということです。
この患者の感情世界が持つ引力は、それが当然であるかのように、セラピストをセラピスト自身の感情世界から引き離そうとします。
決然とした意志を持つセラピストは、患者と良い関係を築こうと努力はしません。それはできません。
もし患者の感情的な心が良好な関係を求めてきたとしても、そのセラピストはその関係を受け入れません。
その代わりセラピストは、自分の世界を掴んでいたグリップを緩め、患者が心の中に描く関係性に向けて漂流し、目を向けます。その結合があまりにも暗くそれに触れることがセラピストにとって最悪のことであるとしても、です。
彼には代替手段はありません。他人の世界の外側にとどまりづつける限り、その他人に影響を与えることはできません。
セラピストがその場所(他人の世界)に入り込むと、彼は異質なアトラクターの力を感じ取ります。彼がその世界に滞在するのは、それをただ観察するためではなく変えるためであり、最終的には、それを転覆させるためです。辺縁系の交換がもたらす親しみの感情を経由して、セラピーは究極的な内面の作業になります。
すべての感情的な心は、親のそして家族のアトラクターという場の力の中で形を作ります。すべての心は、このような力でいっぱいに溢れた環境から吸収した、根源的な原理に則って作用します。患者のアトラクタは、人との関係とは「この」ような感じを持つという直感を患者に持たせ、「この」原則に患者は従います。
2つの心が出会うとき、それぞれの心は自分の調和音を持ち、お互いを互換性のあるキーに引き込む傾向があります。そしてセラピストと患者のダンスは、患者が想定するのと同じ道を再び辿りはしません。なぜなら患者のパートナー(訳注:ここではセラピスト)は別のメロディーへと動くためです。
セラピストが患者の辺縁系の世界に近づくことは、セラピストの真の感情的反応を呼び起こします。セラピストは、相手と交換する感情というある種の磁気の力により、自分の心の一部が動揺していることに気が付きます。セラピストの使命は、自分の応答反応を否定することでも、それらを走らせたままにすることでもありません。彼は関係を別の方向に動かす瞬間を待っているのです。
彼はそれを繰り返し行い、1万回でも繰り返します。治療の進捗は、反復的なものです。
有効なプッシュが続くたびに、患者の仮想性は元々のアトラクタから少しだけ離れ、セラピストの仮想性に近づきます。 患者は無数の相互作用を介して新しい神経パターンをエンコードします。
これらの新しい経路は春の若草のような生えたての脆弱性を持っていますが、それは辺縁系の成長という単純で持続する環境に深い根をおろしています。十分に繰り返すことによって、その駆け出しの回路は新しいアトラクタとしてまとまります。そこまでいけば、アイデンティティが変わります。この時点で患者はもはや過去の彼ではなくなっています。
セラピーによる変容は、
鈍感な感情の上に正しい根拠を積み上げることにあるのではなく、
静かで動かすことができない直感を機能するものに置き換えるということにあります。患者はしばしば「説明」に飢えています。
なぜなら彼らは、「言葉で説明する」といった新皮質の仕組みがものごとの役に立つ、と考えることに慣れているためです
しかし洞察はセラピーにおけるポップコーンです。
患者とセラピストがいっしょに「行く」場所、彼ら2人の旅という還元できない全体性とは、映画です
2つの音を重ね合わせたアトラクターしかもたない日本人の成人は、「right(正しい、右)」と「light(光)」とを聞き分けることができません。
研究者たちは最近、日本人の成人に対して音を聞き分ける訓練を行い、若い頃から持つ病気を克服させようとしました。
基礎神経認知研究センターの Jay McClelland 博士は、日本語のネイティブスピーカーの前で、標準的な英語の会話を再生しました。そして、よくある会話を聞くと実際に「r」と「l」を区別する能力が低下することがわかりました。それはアトラクターの働き方 (modus operandi)を示すものでした。
個々の「r」と「l」は、アトラクタの「r-l」という広いじょうごの中に落ち込みました。2つの音の発音が別であるという外側の現実は、1つの内側の仮想性に縮小され、心の耳は「rl」を記録しました。そのことの繰り返しは、その選択できないアトラクターの作用を強化させました。
しかし、McClellandが純粋な「r」と「l」という音を、その音の特長を強調して被験者に連続して聞かせると、各人の r-l アトラクタは次第に、2つのペアに分割されました。そうすることにより日本人の大人が、「right」と「light」とを、ブルックリンやマンハッタンビーチの住人と同じように区別できるようになりました。
McClellandの研究は、成人の脳が新しいアトラクタをエンコードするのに十分な可塑性を保持しているだけでなく、特殊な環境下に置くことにより元々の生活では経験できないような神経学習を植え付けることができることも示しています。
心理療法は、感情的な差別についても同様のプロセスを行うことができます。 あり得る関係性についてのすべての物語、苦難へと導くすべての愛の形は、無限の種類をもちます。その無限性は、日々の精神療法という営みを、心の限界を広げてくれる作業に変えてくれます。
患者がドアから入ってくるとき、私達は通常、その患者がこれまでに知ってきた関係性をこれから再度つくりあげ始めるだろうことを予想します。しかし私達の側は、その(訳注:彼がこれまで培ってきた)関係性を見てきてはいないわけです。
しかしセラピストは不幸な関係とはどういうものかを百科辞典的に集めた一覧表を必要とするわけではありません。
その代わりに必要不可欠な道具は、セラピスト自身の中にある健康な関係性のテンプレートと、自身と患者が親しんできた領域を離れて間違えつつある場合にそれを感じ取る感受性です。 セラピーが誰かの人生における関係性を変えるとき、それはまたその人が「誰と」愛を結ぶかということも変えます。意思によりこのような変更を起こすことはできません。パートナーを変えることを繰り返すことは、心の方向性を調整することができないことだということを知ることになります。
多くの人は、セラピーにより苦痛に満ちた「情念」が明らかになり、それが照らし出され、将来その情念が実体化して大きな妨げになることを防ぐことができるようになると思っています。
しかしそれは誤りです。
欠陥があるアトラクターを持つ人に対して、外に出て愛情のあるパートナーを見つけなさいと言うことはできません。 その人にとっては、外には誰もいないのです。
彼を愛することができる人は、彼には見えないのです。
雲が突然割れ、空から完全に情熱的で思いやりのある恋人が光とともに彼の目の前に降りてきたとしても、「彼の」心はずっと、別の種類の関係性にチューニングを合わせようとするままでしょう。
「彼は」何をしたらよいかわからないままでしょう。
賢いセラピストであれば、T. S. エリオットを引用して以下のようにアドバイスするでしょう:
ー希望しないで待ちなさい。なぜならあなたの希望は間違ったものへの希望になるだろうから。
ーそして愛を忘れて待ちなさい。なぜならあなたの愛は間違ったものへの愛になるだろうから。
セラピーは欲望の対象を明確にはしないので、酩酊した旅行者はそれをひらりとかわして、残りの人生を過ごすこともできます。
セラピーと呼ぶにふさわしいセラピーは、彼が望むもの自体を変えます。
セラピーが終了すると、彼の心はより健康的な方向に向かっていき、以前あった病理への魅惑は小さくなり、彼がこれまで気づいていなかったことが彼の新しく望むものとなります
心理療法が辺縁系のつながりを通じて癒やしの効果を発揮したとしても、なぜ「他の」愛着行動は治療手段とはならないのだろうか、と不思議に思う人がいるかもしれません。 彼が良くなるために長い時間を費やしてきたのだとすれば、なぜ配偶者や友だちやバーテンダーやボーリング仲間が、彼の魂を健康的な感情世界に導いてはくれなかったのでしょうか。
それは運命の問題と言うよりは、確率の問題です。
辺縁の修正を必要とする人は、病理的なアトラクターを持っています。
彼に近づく人はすべて、彼の世界の中に不幸な感じを持つ雰囲気があることを、少なくとも少しは感じ取るでしょう。そしてそのような雰囲気は、多くの潜在的には健康なパートナーを撃退します。
そのような状態にしばしばなる人は、その人がその人自身の過去からやってくるパターンを認識しているがゆえにそうなるのです。
彼らにとってそれは、サイレンの歌なのです(訳注:サイレンとは美しい歌声で船乗りを誘い寄せて難破させたという、ギリシャ神話上の海の精)。
人間関係は、ビール会社が好んで武器にするような「ブランドへの忠誠心」を生み出すのです:
あなた自身の人間関係スタイルが、それを呼び寄せるのです
他の人はそれに辟易し、それを食べてすぐに口に合わないと感じるのです
従って、愛がどのようなものかについての暗黙の想定を共有し、かつその前提の下にあるアトラクターが変更を必要とするような人達は、しばしばお互いに助けあうことが最もできそうにない人たちとなります。
それでも、60億人が絶え間なく分子のブラウン運動のように衝突し出会う惑星では、ありそうもないことが時折起こります。
不適切なアトラクターを持つ人が偶然により誰かと出会い、その人が学ぶ必要があることとは何かを教えてくれる、ということがある「かもしれません」。
教える側の宿命として、例えば夫や妻、兄弟姉妹、友だちなどから問題のある感情的なメッセージが送られてきたとしても、友好的な態度を崩しはしないがその感情には動かされない、ということがよく起こります。
関係性という射程の中で、彼は自分が持つ相対的な影響されにくさという性質を使い、自身の生徒が悲しい終わりを迎える道へと向こう見ずに落ちていくことを説得により止めようとします。
人間の心の形の多様性と、人々同士を結びつける偶然性は非常に大きなものであるため、その2つを適切に結びつけることは非常に価値のあるものであると同時に、それを避けて通ることはできません。
生きることは、生命の始まりからそうであったように、確率にさからうことであり、何らかの道を見つけることと同義です。 心理療法が間違う場合
セラピストは患者に影響を与えるために、自分と患者との間に辺縁系をつなぐパイプを作り、同時に患者の感情的なアトラクターに対して自分自身を開きます。
セラピストの奇妙な贈り物は、奇妙なメロディーにチューニングを合わせてそれを聞くためのものです。この試みは明らかに不安定なものであり、その綱渡りロープの両側にある隙間はあまりにもよく見えています。
セラピーがつまずいたり失敗したりするとき(それは珍しいことではありません)、2つの理由が考えられます:
一つは、患者の辺縁との全体的なコミュニケーションを行うことができなかったという災難が起こった場合
もう一つは、外部のアトラクターによる不愉快な調整という事態に陥るという場合です
硬い氷
芸術作品は常に新しい世界の創造であることを常に覚えておく必要があります。
そのため最初にすべきことは、その新しい世界を可能な限り綿密に研究し、それが全く新しいものであり、私たちがすでに知っている世界とは明らかなつながりを持たないという前提に立つことです。
その新しい世界がほとんど研究されたという状態になったら、そしてそうなった場合に限り、私達はその世界と他の世界つまり枝分かれした他の知識とのつながりを調べることが許されるのです」
上記のナボコフの言及は、小説を読むときに必要な要件についてのものですが、彼の要件は、私達が周りの人たちの平行世界である辺縁という現実を理解するのに最も適切な展望であるかもしれません。
有能なセラピストは、良い読者と多くのことを共有します:
彼は自分の知っているルールへの信念を自発的に一時停止し、
それに慣れていない人にとっては想像を絶するような内容を持つ他者の個人的な世界にアプローチする必要があります。
セラピストは、十分に受け入れられる状態に達することができれば、偉大な芸術がそうであるように、他者の心が目の前に現れる瞬間を見ることができます。
このようなオープンアドベンチャーに参加できないセラピストは、相手の本質を把握することができません。
クライアントがどう感じる「べき」かというセラピストのあらゆる先入観は、そのクライアントが実際にどう感じ「ている」かについてのセラピスト側の誤解を招きます。セラピストが脳の辺縁系で感じ取ることをやめたとき、彼は共鳴の代わりに推論を使いがちです。 辺縁という視力を放棄する傾向があるセラピストは、クッキーカッター式の解決法(訳注:同じ形を量産する)を身に付けさせる学校が生みだしたものです。
定型的な想定は年数の経過とともにぐるぐる回りはしますが、その誤りは残ったままです。
世紀の変わり目には、感情的な問題はすべてチンポへの羨望と去勢への不安が原因とされていました。
現在支配的な政治状況の元では、これらを病気として扱うことが禁じられていますが、現代では「抑圧された記憶」と「注意欠陥障害」が、それらに代わって神聖な苦悩という立場を占めています。明日には別のものになるかもしれません。
ある精神疾患が精神病理的な花咲く活力により新たに生まれる一方、ある別の疾患はどのようにして消え去るのでしょうか。よくある偏見により、感情的な症状の流行は、気にされなかったり誇張されたりします。
しかし、事前に決められた病名をつけられたまま放置され、手当されないままになり、治療を探し求めている人たちは、すでに十分に苦しんでいます。
セラピストは、他者の内的世界を最小限の誤りで知覚するために、自分の内部にある子供のように驚く力、この葉っぱの下やあの木の後ろやこの心の中にある驚くべき何かを発見する許容力、を持ち続ける必要があります。
この能力を失ったセラピストは、リーダーズ・ダイジェストのようなコンパクトにまとめられた本に描かれているかのような患者像を描き出すでしょう。その本の中の患者像は、固有なものを失っており、その物語はみな奇妙に似たようなものばかりです。
セラピスト教育が植え付ける間違いは、ステレオタイプの獲得だけではありません。
心理療法を机の上だけで勉強したことによる動きの無さほど、治療をダメにしてしまうものはありません。
「医師は患者からは見えない存在でなければならない。鏡のように、患者自身以外のものを見せてはならない」
フロイトは、彼が外科医に必要な資質と考えた冷静さを称賛し、彼の信奉者には
「セラピストが成功するためには、自分の感情だけでなく自分の人間的な共感力をも脇に押しやり、可能な限りの正確さと効率性を発揮するため、自己の精神力を集中させなければならない」というアドバイスをしました。
これらの言葉は、将来のセラピスト世代に対して、動かない像というセラピストのあるべき姿を伝えることになりました。 この結果として、この職業に付く人が以下のように奇妙な態度をとらせることになりまし
セラピストが患者に対して、自分の婚姻状況を明かさないようにすること
患者と握手することを拒否すること
あるケースでは、セラピストは患者に、自分はジョークに対して笑わないというポリシーを持っているということを伝えていました。
フロイトを神棒する原理主義者は彼の言葉をこのように捉えてましたが、その一方でフロイト自身の治療スタイルは、このような無菌状態からはかけ離れたものでした。
彼は患者と夕食をともにし、お気に入りの患者と友情を育みました。
彼はマックス・アイティントンを友人として扱い、ウィーンの街を散歩しました。
彼は裕福な顧客から精神分析学の発展のために寄付を募りました。彼は自分の娘を精神分析しました。
フロイトのうらやましい美点は、彼が自分自身のアドバイスに真剣には従わなかったということです。
多くの有望な若いセラピストは、患者に対しては中立的な観察者であるべきだと教育されているため、自分の反応性を消滅させてしまい、外科医が未滅菌の手で開いた切開部に触れないようにすることと同じように、クライアントとの感情的な接触を避けてしまいます。
結果は致命的なものになります。
心理療法が単なる長い対話である場合、沈黙は単に退屈に感じられるにすぎません。
しかし治療は辺縁系の関係であるため、感情的な中立性は治療プロセスから生命を奪い、言葉という空っぽの殻を残すだけのものになります。
流れに身を任せる
反応の良いセラピストは、患者の心の牽引力を感じ、静かで感情的な信念のいくつかを共有しはじめ、患者が何を知っているかについて「知る」ことになります。
セラピストの認識、記憶、期待は、他人の中にある嵐という風で折れ曲がります。
セラピストは最高の状態で、このプレッシャー「および」悪い要素をいっしょに感じ取ります。
そしてセラピストはそれに対処するために、小さなステップで進みます。
「この方法じゃない」
彼は自分自身や患者に対して言うかもしれません
「この方法だ」。
しかしもし患者の精神という磁石が強かったり彼自身の磁石が弱かったりすれば、彼は知らない間に(患者の)奇妙なアトラクタの流れに流されてしまうかもしれません
彼らの関係性は、トラウマ体験の反復という領域に入ります: 患者とセラピストは、患者の心にすでに入り込んでいる原理原則を全て実行します。
それからセラピストは、以下を行います
子供の頃に非難を受けていたクライアントを批判すること
母親に捨てられた子供時代を持つクライアントを拒否すること
父親の窮乏により抑圧されてきたクライアントの独立に反対すること
若い頃からその才能が押さえつけられてきたクライアントが達成した成果を足で踏みつけること
セラピスト自身のアトラクターの強さは、彼自身の感情世界についての力と粘り強さを生みだし、セラピスト自身を地に足がついた状態にします。 それはちょうど登山家が、滑り落ちていく仲間の登山者に手を伸ばして助けることはできるのは、自分のアンカーライン(命綱)とハーケン(ロープを通す輪のついた釘)が十分に強いときのみに、そのような勇気を見せることができる、というのと同じようなことです。
そのセラピストは両者(訳注:セラピストと患者の両方)の仮想性に足を踏み入れています。
もしセラピスト自身の内面が患者のアトラクターによる影響に耐えられない場合、もしセラピスト自身の辺縁系というつなぎとめが彼が思うよりも強くなかったりしたら、彼は自分の足場を失い、二人は患者の世界へと倒れ込んでしまうでしょう。
「効果のある治療(そして患者からは人気のない治療)とは何か」ということについての皮肉 うまくいくセラピーにおいては、そのセラピーを通して武装解除しようとしているクライアント のアトラクターが刺激されて引き起こされてしまうことが避けられない、ということです。 つまり、患者は、以下を避けることができません
患者自身が自分から最も取り除きたいと思っている経験が引き起こす感情が再び蘇ってしまうこと
もし心理療法が洗練され、それを想像を絶するような精度の道具に磨き上げることができたとしても、それは心的外傷(トラウマ)の繰り返しを伴いつづけるでしょう。
そういったトラウマ的事象の再現に対抗できる唯一の方法は、感情的な距離をとるということであり、それが辺縁系の効果を引き起こします。
世界が出会う場所
心理療法は、あらゆる愛着行動と同じぐらい具体性のあるものです。 ローレンツがガチョウに刷り込みを行なったとき、ガチョウのヒナたちはローレンツの後をつけたのであって、他のオーストリア人動物学者の後をつけたわけではありません。 不安な帰結:
セラピーの結果は、セラピーでつくられる関係性に固有のものです。
患者は一般的に、より健康になるのではなく、よりセラピストに似た存在になります。
新しく咲いた関係性のスタイル、関係性に関する知識とそれをどう導いたらよいかについての知識、愛のバレエにおける思いがけない振り付け、それらの全ては、患者が選んだ治療者の心の中にあるそれらに近づきます。
心理療法というパッチワーク的な風景の上には、さまざまな場所から集められた雲が1つにまとめられて浮かんでいます。
心理療法の技術について確実になってきたことは、数十年におよぶ内容の修正と精緻化とにも関わらず、それ(心理療法)は「それ自体(per se)」としては、その療法による予後の結果とは関係がない、ということです(訳注:心理療法の種類はその心理療法が成功するか否かにはあまり関係がないということ) 米国内だけでも、精神療法における宗派と学派の様々な変種が作り出されています:
フロイト派、ユング派、クライン派、
ナラティブ(物語)療法、対人関係療法、超個人心理学的療法、
認知療法、行動療法、行動認知実践者、
コフート派、ロジャーズ派、カーンバーグ派、
コントロール技法マニア、催眠療法、神経言語プログラミング、眼球運動による脱感作療法
これらのリストで上位20位を網羅できているわけではありません。
急速に増殖したこれらの療法群は、その本質が異なるため、その治療法の妥当性について相互に排他的な結論を導き出します:
何を話題にし、何を話題にしないか
質問に答えるか、答えないか、
患者と向かい合わせに座るか、患者の隣に座るか、患者の後ろに座るか、
しかし他の方法よりも優れているということを証明できたアプローチ方法はありません。
もし、セラピストの治療方針説明、セラピストが読んでいる論文、本棚の本、彼が出席する学会など
ーつまりセラピストの理性的な心が要求する認知的なフレームワークー
を全て取り除いたら、そのセラピストが提供する心理療法を定義するものとして最後まで残されるものは何でしょうか。
それは彼(訳注:セラピスト)自身です。
彼という「個人」こそが変化を起こす触媒であり、
それは彼の指示でも信条でもなく、
カウンセリングルームで座る場所でもなく、
よく考えられて選択された言葉でも、
宗教的な沈黙でもありません。
その心理療法のルールが辺縁系の転移 ーこれは告知必須の重要事項ですー を妨げない限り(訳注:原文は「妨げる限り」の誤りか)、それは取るに足らないものであり、大脳新皮質の気晴らしであるに過ぎません。 これらの教義にある不要な飾りは、以下を決定づけるかもしれません
セラピストが自分のしていることについてどのように「考える」か
セラピストがセラピーについて語るときに彼が語っていることは何か
しかし変化を起こすのはいつでも、彼(訳注:セラピスト)が「誰である」かということです。
そのため、セラピストを選ぶことは、人生の決断であり、それは(柔らかな言い方をしたとしても)広範な影響を伴います。
不快な多くの治療は中立的な結果をもたらします
彼らが存在したことを記録するものは以下だけです。
費やされた時間、
こぼれた言葉、
そしてお金の持ち主が変わること(訳注:治療費の支払いのこと)
しかし、治療が機能すれば、患者の大脳辺縁系の脳と彼の感情的な風景が永遠に変わります。
セラピストという個人は、患者が拘束されることになる新しい世界の形を決定します。
したがって、セラピストの感情という家を正しく配置することは、緊急の課題です。彼の患者はその家に滞在し、残りの生涯の全てをそこで過ごすことになるかもしれないからです。
神話と山
辺縁系アトラクタの修正には多くの時間、それこそ3年や5年や、ときにはそれ以上の期間が必要になります。
セラピストが自分の職業に必要とされる「口をぽっかりあけた大峡谷(訳注:原文は yawning temporal gulch。temporal gulchはアリゾナ州にある渓谷のことで、セラピーにかかる莫大な費用のことを差していると思われる)」について話すと、人は顔を青くします。そのような落胆は理解できます: セラピーには、多くの時間と、大学教育と同じぐらいの費用がかかります。
しかしハーバード大学学長のデレク・ボックの言葉を言い換えると以下になります。
「教育費の高さにより教育を受けられなかった人は、後になって、無知であることはそれ以上に高く付くということに気がつくかもしれない」
感情的な混乱状態にあるということは、文明水準が未開であると同じぐらい、生涯に渡る高い生活コストを必要とするということです。
辺縁系からの命令による行程を、数年という長さから数週間または数日に短縮できたとすれば、すばらしいこととは思いませんか。
このように誘いかける短い(かつ安い)心理療法という蜃気楼、クールで魅力的なオアシスは、不可能性という乾いた砂の向こうから多くの人を魅了してきました。
効果のあるファーストフード的な心理療法は、神話上の生物であるユニコーンと同じようなものです(訳注:実在しない、という遠回しの表現と思われる)
精神分析医は最初に、患者が持つ「抵抗」のために、治療に必要な期間が不愉快なほど長くなるのだ、という説明をしました。
つまりそれは、下記のような患者自身の心による抵抗が原因だ、という説明です。
患者の変わりたくないという心、
患者が自己認識する「欲望」の下に身を隠した、橋の下のトロール(訳注:子供を誘拐する怪物) 感情の学習という反復的な性質を明らかにすることは、そのゴブリン(訳注:小さいモンスター。ここではトロールと同義)という説明を取り除きはしましたが、心理療法に必要な期間の長さはしつこく残り続けています。
脳に可塑性があるとき、つまりニューラルネットワークがまだ若く順応性があるうちに、辺縁のテンプレートが形成されます。大人になると、丈夫なアトラクターはボウリングの球のような慣性を持ち、簡単に転がります。 飛行中の生き物の飛ぶ方向を変えるためには、ある人の直感から別の人への直感の転送という、一歩一歩進めなければならない骨の折れる作業が必要です。そのためセラピーには時間がかかります。しかし私達の社会は、漸進的な進歩に対する忍耐力が乏しく、すぐにできる治療法を発明しようとしつづけています。
現在はこれまでで最もその傾向が強い状況にあり、保険会社からの圧力により長い治療期間が必要な治療法は脇役に押しやられ、その勢いははずみがついてますます強くなっています。
あるサービスが効果的であるか否かに関わらずそのサービスへのアクセスを拒否することは、今や保険業界の「存在理由(raison d'etre)」になっています。
複雑な法的手続きという手を前に突き出した拒否により、関係者は落胆し、進路を変えさせられ、思いやりのある方法を黙って受け入れさせられます。
このようにして保険会社は、提供するものを小さくすることを称賛してきました。
「20回のセッションでニーズを満たせるのに、8年間の精神分析が必要な人がいるのでしょうか」と、行動科学研究所所長のマイケル・フリードマンは、1995年に、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事で高らかに宣言しました。
1995年には、必要と言われてきた20回のセッションは、ときどき実施可能になるようになりました。
今日においては、そのような回数の多さは考えられない贅沢です。
マネージドケアにおいては、2回から6回の初期セッションが行なわれますが、受診者はそれがいつ終わるかを知ることができません。クリニックの事務員は彼のカルテを見て2回か3回の延長セッションを許可するかもしれませんが、しないかもしれません。 数回の面会ごとに追加報告書を提出する必要があります。
治療は時々適切になったり始まったりしながら、辺縁の絆とは相容れない、不確実性でいつまでも続く暗い雰囲気の下で行なわれ、進んでいきます。
短い時間のミニセラピーは、効率的な治療の邪魔をするもう一つのものです。
大脳新皮質は、教訓という情報をすぐに習得しますが、辺縁脳は繰り返しの山しか受け取りません。
6回のレッスンでフルートを演奏したり、10回のレッスンでイタリア語に堪能になれると思う人はいません。
しかし、ほとんどの人が幸福を犠牲にすることなくラヴェルとダンテを自分の人生から外すことができる一方で、同じことは感情的および関係的知識については言えません。それらを手に入れるためには、私たちの文化が出し渋るような多くの時間の投資が必要です。
保険会社のケチな監視により治療方法は萎縮し、それらは最小限という状態から、機能的に存在しない状態になりました。
3回しか行なわれないセッションは、そのセッションを提案したという誠実さを除いては、セッションをしないことと同じです。
超短時間型セラピーを推奨する業界の火付け役は、今日において、有望な人たちと騙されやすい人たちを欺いているかもしれません。
その実践が十分長く続けば、ある世代における患者と実践者(治療者)達は、過去に感情的な痛みを伴う別の治療法があったということを忘れてしまうでしょう。
もしマネージドケアの供給業者達によるメンタルヘルス治療が全体的に禁じられてしまったとしても、患者たちは、何が得られなかったのかについては、少なくとも気づくことができます。現在の状況は、患者とセラピストの両者を王様の新しい服(訳注:裸の王様の服)で包み込み、そうすることで両者を温めることができるというふりをしています。
複雑なカノンと計算され尽くしたテクニックという無意味さがある一方で、全てのセラピーが同じである訳ではありません。いくつかのセラピーには人間の心との互換性があり、それらを健康を最大化するように働かせることができます。
それ以外の、現在主流となっている短くちらばった治療は、辺縁の法則を軽んじており、その潜在力の発揮を妨げています。そのような無駄な治療が行なわれているのを目撃すると心が痛みます。なぜなら効果のある心理療法は、並外れた勇気を必要とするものだからです。
患者はこれまで自分が関わってきた人生を放棄し、これまで見たことのない感情の世界に入ることを申し出ます:
彼は自分がこれまで想像もできなかったやり方で変えられるために、自らをいけにえとして差し出します
その変身の成功を祈願するため、彼は信頼(信仰)という細い糸だけを身につけます。 その旅が終わると、彼はすでに過去の彼とは別人となっており、彼のガイドはあらゆる意味で疑わしい誰かに変わっています。
リチャード・セルツァー医学博士が手術とは何かについて残した以下の文章は、セラピーについても当てはまります:
「人の愛だけが、それを2人の狂人による行動ではないものにする(訳注:ここでの2人とは施術者と 被施術者)」