第7章 人生という本
愛はどのように子供の感情という心を形作り、ガイドし、変更するのか
ジョン・ワトソン博士がベーカーストリート221Bのアパートに引っ越したとき、偶然、将来のルームメイトに関する雑誌広告を見つけました。「命の書」と題された大きな記事がマークされており、ワトソンは「推論の科学」というものについて書かれた以下の記事を読みました。
推論を得意とする者は、一滴の水から、それが大西洋になるかナイアガラの滝になるかという可能性を、そのどちらか一方を見たり聞いたりすることなく推測することができます。したがって、すべての生命は偉大な連鎖であり、その接続のうちのたった1つが私達に示されるだけで、私達はそれを知ることができます。
男の指の爪、コートの袖、ブーツ、ズボンの膝、人差し指と親指が無感覚であること、表情、シャツの袖口、これらのそれぞれによって、男の職業は明白になります。いずれにせよ、これらを全て集め合わせたものに対し、有能な探求者がこれに光を当てることが失敗することなど、ほとんど考えられません。
「なんとも言い難い!」ワトソンは、雑誌をテーブルの上で叩きながら言います。「これまでの人生の中で、こんなゴミを読んだことはありません。」
この記事は、ワトソンがその功績を記録することに生涯を捧げることになった有名な探偵である、シャーロック・ホームズが書いたものです。
ホームズが好んだのと同じ種類の「結果から原因へと逆戻りせずにはいられない」という試みは、感情という精神の発達史をたどろうとする人の前に立ちはだかります。大脳辺縁系の探偵は、爪やズボンの膝からではなく、その人に認められる感情的な属性から始まります。
それは、慢性的なうつ病を持つ傾向、自分を主張することのできなさ、自分を愛してくれない人を愛することに費やした生涯、です。 その探索の目的は、人間の心の中でこれらの特性を生みだしたもの、その正確な構造を説明する順番を定式化することです。
性格はどのように生まれるのでしょうか?
幼児は、脳が発達するにつれて驚くべき形態変化(メタモルフォーゼ)を経験します。彼は感情を読む生まれつきのコツを備えた、目が大きな生き物として誕生し、やがて精巧な感情というスキルを開花させます。 指紋のように明確なアイデンティティが形成され、それは、触知できるので、その精神的な隆起と渦巻きを感じることができます。
私たちがある大人に会ったとき、私たちは彼が寛大であるか、けちであるか、裏切る人であるか信頼できるか、脅迫的であるか、または卑劣かどうかを、困難を感じずに知ることができます。
私たちは、彼が他者を信頼し、競争し、自分自身と他者とを知って愛することができるかどうか、を知ることができます。 大脳辺縁系の脳はどのように融合して一貫した構造になるのでしょうか?拡散しやすいという神経特性から始まり、乳児はどのようにして「人」になるのでしょうか?
ホームズは、肘掛け椅子のリラックスした領域を離れずに、ほとんどの調査を行うことができると感じました。
ホームズの現代のエピゴーネン(訳注:模倣者、亜流の流れをくむ人)であるフロイトは、ホームズの信念を共有し、それを模範とすることに誘惑された可能性があります。フロイトは、彼の推論スキルと、分析ソファーから得た手がかりに基づいて、感情的な発達と子供の心をもたらす仕組みについて、膨大で華麗な「推論」の宮殿を建設しました。フロイトが自分の建物に対して持った確信は、ホームズが自身の知的な正確さに対して持つ確信に匹敵しました。 ホームズの調査方法は面白いですが、残念ながらそれは実行不可能なフィクションです。
アシスタントの耳から100ドルのピン札を引き出す巧みな手品師は、新しいお札を作り出したわけではありません。
紙幣は彼がそれを置いた場所にずっとあり、彼はそれをずっと知っていたにちがいありません
同様に、ホームズがびっくりした様子のワトソンにつきつける巧妙に謎めいた手がかり
そのシーンは全て作家により作成され、その作家は事前に犯人が誰であるか、犯人の邪悪なやり方、そしてヒーローが100万通りのプロットから引き出す1つの結論についても知っているわけです。
例えば、「ボヘミアのスキャンダル」では、ホームズはワトソンの靴の側面にいくつかの傷を観察しています。これだけの証拠からホームズは、良い医者であるワトソンが泥の中を歩き回っていたこと、そして散歩のために靴についた泥を落としてくれる新しいお手伝いさんが必要であると結論づけました。
ホームズはこれみよがしに推論を振り回し、ワトソンはそれを奴隷のように肯定するだけです。2人は他に何百とある可能性を迂回します
例えばワトソンが火かき棒を踏んづけてしまったので靴に傷がついてしまったり、酔って掃除するのを忘れてしまったとか、いい靴をクラブに置いてきてしまったので古い靴を散らかったクローゼットから引っ張り出してきたとか、無限に考えられる可能性はあります
ホームズはコートの袖口やシャツの袖口を調べて、殺人者をゆるぎなく指差し、あまりにも単純で昔からの由緒のあるやり方で結論に達します。このような描き方は幼稚だと指摘される場合もあります:
彼はイカサマをしています
感情という心の動きについて研究する者は、一つの重要な近道を使うことを禁じられています
それは「創造主は、その答えを事前に提供することはない」ということです。
論理的な観察者は、ある一つの成人の感情的特徴から始まる一連の推論を偽造し、その原因が発生したところまで時間をさかのぼって推論することはできません。このような「アームチェア」型の探索は、非現実的で全知的な博識を前提としたスポーツの一種です。
その代わり現代の探求者は、科学的知見という利点を活かし、なぜどのようにして心が成熟するのかという質問に立ち戻らなければなりません。
これまでの4つの章では、親と子を含む関係パートナーを結びつける生理学的結合のさまざまな側面、辺縁共鳴、強制力、および変化を与える力について詳しく説明しました。
この章では、これらの力がどのように組み合い共謀しあって、乳児という比類のない傷つきやすさと将来性から、感情というアイデンティティを持つ人間という存在がどのように作り出されるのかを説明します。
全ての人生の詳細な履歴には、ここではその役割を考慮対象外としている、追加的な要素があります。
それは、チャンス、トラウマ、身体疾患、知的能力、運動能力、貧困、人種などです。 これらはある選択された人生の中では重要な意味を当然持ちますが、私たちの目的は、順応性のある心に影響を与えることができるすべての要因の影響を詳述することではありません。
このような徹底的な(そして消耗的な)活動は、それを届ける声による騒音の中で、この章でこれから描こうとする物語を描くと言うよりは、その中で溺れてしまう結果になると思います。
その物語とは:
親の愛という側面がどのようにこの心を形作るか、ということです。
大きな絵
人とは何かということの全てと、人が知ることの全ては、絡み合ったニューロンの茂みの中にあります。この運命を司る小さな橋の数は、何千兆個にも登りますが、それらはたった2つの源泉を持ちます: 遺伝子コードはいくつかのシナプスを呼び出す一方、経験は他のシナプスを生じさせ修正します。
このように脳は、
頑固な制限
と
ほとんど無限に近い自由
との間のどこかにある妥協という形をしています。
それは雪の結晶やソネット(訳注:14行の定型詩)のようなものであり、無数にあるそれらはみな、永遠に続く整数の中に制限されています。
水分子の極性は、雪の結晶に六面体という制限を加えます。
ソネットは14行という制限を持ちます。
世界には七面体の雪の結晶は存在しませんし、5つの4行連(quatrain) をもつソネットも持ちません。しかしこれらの制限の範囲内には、美の無限の組み合わせがあります。
脳では、遺伝的設計図により、さまざまなサブシステムのコアとして機能する大まかな神経骨格の足場の生成が指示されます。このように、DNAは、1,000億個の細胞が自由に生成できる設計の暴走を支配しています。
1つの脳、1つの計画:
脳は3つの側頭葉を持ちません。
また、唇を上に向けて怒りを表現する人はいません。
しかし、装飾された庭園(訳注:トピアリー topiary は木や葉を鳥や動物の形などに刈り込んでつくった植木の装飾技術)のように、壁の中(訳注:装飾的に刈り込まれた植木で作られた壁の暗喩)では多様性が繁栄します。
人生初期の経験は、半ば調整可能な仮の足場に対してトリミングを行い、それを神経ニューロンの「テンプレート」にします。 その「テンプレート」とはニューロンと接続の集合体であり、ある特定の環境の中で機能するようにチューニングされています。
遺伝情報は、脳のマクロ解剖学とミクロ解剖学を基礎づけます:
経験は、いまだ拡張しつづける可能性をある範囲にせばめ、それがある結果に結びつくようにします。
多くの可能性はいくつかに絞られ、いくつかの可能性は1つに絞られます。
テンプレートが形になった後、神経の柔軟性は衰えますが、多くの場合ゼロにはなりません。この時点で脳は、 永遠に編集・修正を受け続けるソネットのようなものであり、
常に六方晶系のクリスタルを結晶化させ続ける氷の結晶のようなものです。
継続的な経験は、神経接続を形成し続け、決して休まずに性格を形成し続けます。
ヘラクレイトスが数千年前に書いたように、
「私たちは川に足を踏み入れているし、踏み入れていないとも言えます。わたしたちはかつてそうだったとまったく同じ状態であることがないのですから。」
神経という学習機械は、若い日の影響がどれほど大きいかということを知らせてくれるような特徴をはじめから持っています。若い脳は、最終的に保持するよりもはるかに多くのニューロンでいっぱいです。
これらの若いつぼみのほとんどは、若いうちに道から外れて死にます。
それは、それまでたくさんの足の踏み場があった足場が、テンプレートに合う形に曲げられて行く過程の中でスリム化していくことにより、起こります。
このように滅亡した細胞と神経は、保管されたデータを持っていたかもしれないので、このような神経細胞の若死には、脳がエンコードして持っていた「かもしれない」情報の喪失を意味します。
脳の長期に渡る刈り込みフェーズに、何十億もの神経ニューロンが飛びかい、心という本の数ページは永遠に消えてなくなります。
生命の初期において多数のニューロンが消滅する中で、なぜ特定のニューロンが生き延びるのでしょうか?
哺乳類の愛着という生命維持力は、脳内において顕微鏡レベルで確認できます。 ここでも、つながるということが生存を保証するのです。
アトラクターに参加している仲間と強力な相互接続を確立しているニューロンは、ふるい分けフェーズを通過します。安定した結合に参加しないものは萎縮し、統合テンプレートから脱落します 赤ちゃんが会話内のクリック音(カチッという舌が歯に当たる音)、空気音、および泡がブクブク言うような単なるノイズ同士から言葉を識別する方法を検討します。
人間の声帯、咽頭、舌、唇、歯、および口蓋は、数千の異なる音の断片、つまり音素を作り、それがシームレスにつながって言葉になります。
幼児の脳は、考えられるすべての音素を聞いて区別できます。
彼の遺伝子はこのメカニズムの設計を担っています。
彼の汎音素能力は、すべての人間の言語を満たすために彼を準備しますが、すぐにそれは神経の浪費になります。
どの言語でも、音素の小さなサブセットのみが使用されます。
英語は40個でうまくいきます。
その結果、幼児の脳には、母国語と一致する音素のアトラクターが含まれています。それらの言語の音だけが、彼が正しく聞いて発声することができます。聴覚の経験により、彼の多目的な足場は目的のあるテンプレートになります。 未使用のニューロンが期限切れになった後、切り捨てられたネットワークは特定の知識を表さなくなります。
日本人は英語の「r」と「l」の音を区別せず、日本語の世界で育った子供はその違いを聞きとることができません。
フランス語には「th」はありません -フランス語の世界では通常、発音できない音を「z」で近似しています-
PepéLe Pew(訳注:ぺぺルプーはフランス語のアクセントで英語を話すスカンクのアニメキャラクター)の懇願は、zee、zis、およびzatとして発音されます フランス語は、英語を話す人に似た音の壁をもたらします。
砂利のような喉の短い「r」または短く鋭い「u」(tubeの「oo」や uniqueの「yoo」とはまったく異なります)。
また、フランス語で「目」を意味する「oeil」は、英語にはまったくない発音で構成されています。アメリカの白人のうち非常にまれな人たちだけが、パリジャンかどうかを試す発音試験に合格することができます。
この発達の進行
は、辺縁系を含むほとんどの神経系で展開します。
幼児の感情的な足場は、気質と表情を読むなどの生来の能力を提供します。
彼が両親との間で築く辺縁系の接触は、その多能性構造を感情的生命のテンプレート、つまり感情的アイデンティティの神経核に磨き上げます。 この本質が確固たるものになると、人が存在すると言うことができ、その人の感情的な自己の個々の属性を知ることができます。
継続的な経験により、彼の神経構造は徐々に変化し、彼が誰であったかから彼が誰であるかに変わります。感情的なアイデンティティは生涯にわたってドリフトします。
それが十分に速く遠くまで進んだ場合、はじめて会う人の心の中に、かつて友人や恋人が住んでいた形跡を発見することがあります(訳注:転移) 小説家ジョルジュ・サンド(アマンディーヌ=オーロル=ルシール・デュデバントのペンネーム)を見たアルフレッド・ド・ムセットは、彼らの愛が終わってからずっと後にこう残しています:
まだ彼女でいっぱいの私の心、
人混みの中に彼女の顔を探したが、彼女はもうそこにはいなかった。
私はその女性を知らなかったはずだったが、
彼女の声と目に似た人を知らずに探し求めていた
そして、私は冷たい表情の人たちが通り過ぎるのをそのままにしておく
空を見る
はじまり
感情に影響を与えるものの起源は、生命そのものの起源、つまり二重のらせんがつくるDNAです。
その繊維(フィラメント)状物質、つまり「意味(sense)的な」繊維は、タンパク質をつくるための命令をまっすぐ並べたものを持っています。
その鏡像である「無意味(nonsense)な」繊維は、まったく何もエンコードしません。 2つに分かれた、生まれたばかりの、お互いを補い合う繊維の塊は、再び協力し合います:
意味的な繊維の反対側には無意味の塊が作られ、
一方の無意味な繊維の反対側には、意味の塊が新しく作り出されます
このような砂粒のような生化学レベルのプロセスの中にさえ、2つの情報の二重性、つまり実践と詩、が生きています。
一組のDNA の片方は重要なことを何もしないように見えますが、生化学的には無益に見える見た目の中には、純粋な可能性が潜んでいます。無意味塊は常に、そのもう一つの自分でありタンパク質を生み出すアルゴリズムをもつ塊(訳注:意味繊維)と一つの細胞分だけ離れています。この魔法のような性質がDNAに自分を複製することを可能とし、それを何十億年にわたって可能としてきました。そして何億年か前にハリモグラの先祖が爬虫類の進化ラインから分かれたときに、成功した哺乳類は辺縁系を作り上げる遺伝子を子孫 -私達全員を含む-にわたすことができたのです。 遺伝子は、骨の長さや肌の白さなどの特徴を子孫につたえるのと同じように、恥ずかしがりの傾向や短気さといった、辺縁系の足場を生み出します。
犬の感情的な傾向は繁殖により子孫に受け継げさせることができ、通常以下のように行われます:
ブリーダーは、スパニエル犬の従順さとピットブルの凶暴性を選択するときに、気質の遺伝的伝達を利用します。
あるネズミの血統は、他のネズミより30倍の臆病さを持ちます。人間の家族もまた同じです。
ある脳の設計図は、他の個体よりも多くの喜びを感じ取る性質を持つかもしれません;
また他の脳は、悲観的な傾向が支配的であるかもしれません。
ある人に幸福が舞い込むかそれとも幸福が逃げていくかということは、部分的には、彼が受け取るDNAに依存します。
遺伝子は、行き先を変えることができない巨大な列車なのでしょうか。
まったくそうではありません。
遺伝が人格に与える影響の限界は、女性の骨盤という曲線に刻まれています。
霊長類の脳が何百万年もの進化で大きくなった速度は、女性の骨盤の大きさが大きくなる進化の速度を超えていました。生まれた時点の新生児の脳のサイズは、その最終的なサイズの何分の一かに過ぎません。体内の胎児は、子宮をでるまでの間、脳神経の成熟を延期しなければなりませんでした。
彼の生理機能はもはや単独飛行のようなものではなく、両親と辺縁系のきずなを通じて共有するものとなっています。彼が持つ、神経遺伝的に引き継いた特徴は、両親の愛の対象になります。
型の鋳造
遺伝子は感情のいくつかの側面を確立する上で極めて重要である一方、経験は遺伝子のオンとオフを切り替える上で中心的な役割を果たします。DNAは運命ではありません。遺伝という宝くじはあなたの配牌を決めるかもしれませんが、経験が役を作ってアガリを決めます。
例えば科学者は、良い母親のケアが子の性格の不利な点を上書きすることを証明しています。
彼らは、特に慈悲的な傾向を持つ母親ザルに、血縁を持たない不安を持ちやすい遺伝子を持つ子猿を養子として育てさせました。
不安な性格を持つ子猿は通常、内気で群れのランクが低い成体になります。
気配りのある母親への交代は、子猿たちの運命を逆転させました。
かつては生涯にわたる臆病さを持つという遺伝子上の運命の上にいた個体は、よく愛されることにより、今では群れの中で優勢な個体になっています。
逆もまた成り立ちます。適切ではない養育は、辺縁系の健康な遺伝を混乱させ、幸せな生をつくりだす遺伝子を持っていた個体に、目に見える不安と抑うつをもたらします。
ほとんどのおもちゃと同様に、子供たちはかなりの組立工程を必要として生まれてきます。子供の脳は、辺縁系コミュニケーションがもたらす協調的な影響なしには正常に発達できません。乳児と両親が交換するささやき声とぺちゃくちゃとしたおしゃべり、抱っこ、揺らしっこ、お互いの顔を覗き見ることは、それが無意味とはいいませんが、まったく当たり障りのなものに見えます。それがその子にやがてやってくる将来という生全体を形作るプロセスであると見通せる人はいないでしょう。
しかし、最初の出会いから、両親は彼らが関わる赤ちゃんの神経発達を導きます。生の最初の数年間という期間、両親はその子の遺伝的に引き継ぎがれている感情的な脳を、自己の核となる神経活動に形成します。
見ることを学ぶ
あなたを愛するとき、私はあなたを目で見て愛するのではない
あなたに千の欠点があっても、
あなたが持つ他の人が避けるようなものでさえも
私の心はそれを愛する
あなたの可愛らしい見た目、
あなたの話し声の素晴らしさを聞く耳
それは触り心地が良いことでも
その素晴らしい味でも、
その匂いでもなく、
それは私の5つの知恵も、私の五感でさえ感じ取ることができない
愚かな心が、私があなたに仕えることを思いとどまらせる、
誰が男の姿を揺るがせないのか、
あなたが誇りに思っている心の中の奴隷という卑屈さ
これまでの私の災難だけが、私が得るものを教えてくれ、
私を罪人にしようとする彼女が
私に与えるであろう痛みを教えてくれる
このソネットで引用されている五感のリストは、今では過去のものになっています。末梢神経終末の分析に基づいて、神経科学者は独立した感覚についてのより長いリストを表にします:
匂い、視覚、音、味、軽いタッチ、深いタッチ、振動を把握する能力、痛み、および自分の関節の位置
これらのソネットを書いた詩人は、この最新のニュースを知らないために五つの感覚を並べたのですが、彼はもっと重要なことを知っていました:
感情は、それぞれの感覚とは異なる「種類」の感覚であり、それは補足的で統合的だということです。
大脳辺縁系脳は、従来の知覚の侵入によって提供される情報に依存していますが、これらのデータを視覚、聴覚、または触覚の質といった諸感覚を超える高次の経験に変換します。感情という全体性、つまり愛に必要な最低限のボトムラインは、感覚部分の合計以上のものです。
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二次元の世界に住む虫(訳注:がもしいたとすれば)は、このページを動き回り、この図の重要な要素を列挙できます。直角や鈍角や鋭角でつなぎ合わされている12本の直線という存在を、です。それは真実です。
しかし平面に住む虫は、これらのバラバラにちらばった切片が三次元を描写するために集まっているということを認識できません。立体がページから飛び出し、またページに戻る様子を想像できません。
一方わたしたちの脳は三次元の世界に配線されているため、わたしたちの目に認識されるのは、12本の直線以上のものです。あまりにもそうであるので、ただの線が並んでいるようには見ることができないほどです。
ここで、二次元の虫が爬虫類であり、線が他の生物の内部状態を表しているとします。
その場合、爬虫類は辺縁系という次元については、無関心のままでしょう。
感情は、私たちの経験を爬虫類という平面から引き上げます。
感情こそが、私達を他者の内部状態が「気にかかる」存在にするものです。
子供は辺縁系センサーというハードウェアを生まれつき持っていますが、それを上手に使用するにはガイドが必要です。誰かが彼のソナーを磨き、調整しなければなりません。
つまり、感情という世界を正しく感じ取る方法を、誰かが彼に教えなければなりません。
これは驚くべきことではありません:
子供の脳は、両目からの入力なしでは、深さを知覚するために必要な神経機構を発芽させません。
辺縁系はまた、その潜在能力を最大限に発揮させるために、正しい経験のもとでのトレーニングを必要とします。
これらのオリエンテーションは、調和の取れた大人との経験により始まります。
親が自分の子供をうまく感じ取ることができれば(母親が子供の言葉にされない内部状態にチューニングを合わせ、子供が感じ取っていることを知ることができれば)、その子もまた、感情的な世界を読むことができるようになります。
子供は外界に対する感覚を調節するために、辺縁系のリンクを常に使用し続けます。それは、夏の午後、地元の公園で何十回も繰り広げられるドラマです。
幼児は、そのドン・キホーテ的な勇敢さを生みだした不安定な決心を持ち歩きはじめますが、芝生の上でよろけます。避けることのできない重力が、彼の不慣れな足取りをからめとります。 彼はぐらついて倒れます。すぐに彼は親の顔をチェックします。
母親が恐怖や懸念を表した場合、彼は泣き、彼女が面白がれば彼は彼女に微笑み、笑うことさえあります。
彼は母親が彼の転倒に下した評価を彼自身の評価よりも信頼しており、正当な理由でそうしています。
彼は痛みと恐怖と失望を感じることができますが、それらをものさしで測ることはできません。彼の転倒がひどく痛むほど大きかったり、無視してもいいほど小さかった場合、彼は自分でそれを評価できるかもしれません。しかしその間にある全てのレベルでは、彼は感情を専門家の解釈に開かれたままにします。
辺縁がよく調節された母親は、実際に発生した有害な現象(転倒)から、それへの適切な恐怖という感情を表現することができます。子供は母親の恐怖を感じ取り、自分の不安を大きくしたり小さくしたりして、母親の不安と調和させることができます。
感情という経験は、派生物として始まります。子供は自分の感情を味わうという経験を、中古商品として(訳注:誰かからもらったものとして)手に入れます。子供は他者との辺縁系の共鳴を通してのみ、内なる世界を理解し始めることができます。共振の最初の数年は、この機器を生涯使用できるように準備します。 親の最も重要な仕事の1つは子供との調和を保ち続けることです。なぜならその子が内と外の世界に向ける目のピントは、その母親が調節するからです。 彼は母親の視野が持つ欠陥をそのまま受け継ぎます。共振器としての機能が乏しい親は、クリアな視界を子に伝えることができません。
母親の不正確さは、子が感情世界を読む際に発展させる必要がある感覚の精度を不正確にします。
母親が子に教えない、または教えることができない場合、その子が大人になった後、他人や自分自身の内的状態を感じることができなくなります。
人をその内部にある景色に連れていく役割をする辺縁系というコンパスが欠乏した場合、その人はそれを自覚できないまま、自分の人生から滑り落ちてしまいます。
ウッディアレンの映画「ハリーの脱構築(邦題:地球は女で回っている)」では、俳優が突然画面上でぼやけます。最初、映画のクルーはレンズが汚れていると考えてカメラを掃除しますが、やがて俳優自身の輪郭がぼやけているということに気が付きます。
共演者は「どう言ったらいいのかわかりませんが、あなた・・・あなたは、・・ピントが合っていません」と屈辱を感じているその俳優に言います。
「メル、聞いてくれ。君に家に帰って休んでほしい。自分をはっきりさせられるかどうかを確認してくれ」と監督はアドバイスします。自宅では、問題は改善されません。「なんかパパ、ぼやけてるよ」と彼の子供は落胆しながら言います。
アレンが人間の抽象化された状態を具現化し、それを直接的かつ面白く描き出す能力は、彼の喜劇を生み出す能力の中心を構成するものです。 この俳優のような曖昧な人々は現実に存在し、このシーンが教えてくれるのは、彼らの体ではなく彼らの内面が、痛々しいほど不確かだということです。そのような人々は自分が誰かわからないので、心理療法を受けます。自分が誰かを知っている人が、このような苦境に立たされることは、ありそうにないことです。
しかし人は、だれか他の人が自分を知ってくれるまでは、自分自身を知ることができません。辺縁系の共鳴というスキルを子供時代から奪ってしまえば、その子はアレンの映画の登場人物と同じぐらい不明瞭な精神とともに成長するでしょう。もし親がその子を積極的に嫌ったり、親が明確な怒りで子を罰することでその子を積極的に「知る」ことができれば、その子は感情的な無知という薄暗いエーテルの中で苦しむ人よりは、うまく生きることができるでしょう。
存在するための学び
赤ちゃんは開ループとして生活を始めます。彼の母親の母乳は栄養を提供し、彼女の辺縁のコミュニケーションは彼の繊細な神経リズムの同期を提供します。子供が成熟するにつれて、彼の神経生理学はいくつかの調節機能を内在化します。外からバランスを取り、彼の脳は安定を学びます。 長期にわたる親の不在は、子供の辺縁規制を奪います。彼が非常に若い場合、両親を失うことは彼の生理学をひっくり返します。長期間の分離は未熟な神経系にとっても致命的です。というのは、そのとき心拍数と呼吸の重要なリズムは混沌としてしまうからです。落ち込んでいる母親の乳児においては、突然の乳児死亡が4倍に増加します。感情的なシェルターがなければ、乳児は死んでしまいます。呼吸するテディベアが未熟児の呼吸を正常な状態にするように、しっかりと母親に固定された赤ちゃんの心臓のリズムは、不安定な関係の赤ちゃんよりも安定しています。両親(か、止むを得ない事情がある場合には、信頼できリズミカルに動くもの)との同期は、赤ちゃんの生理的強度を強めます。 人々がロマンス、宗教、カルトの中で絶え間なく求める深い満足のいく状態とは、十分に育まれた関係性のことです。 夫と妻、ペット、ソフトボールチーム、ボウリングのリーグ戦や、その他多くの人間生活の側面は、所属を維持したいという渇きにより動かされています。
人生の初期における辺縁の調節は単なる喜びではありません:
それはまた、むずかしく苦しいトレーニングです。
赤ちゃんの不安定な神経生理が、母親のしっかりとしたつぶやきの支配下に入るとき、その子はまず母親がバランスをとるやり方をまね、次にそれを自分のものにします。
子供は自転車を乗りこなすのと同じようなやり方で自分の生理状態のバランスを取ります。良い親は、子供が地面と垂直な状態から外れることを正しいことだと考えます。子供は繰り返しにより自分のスタンスを修正する能力を身につけます。彼の脳の内耳と動作を司る部分は、それを表す言葉や概念や理解がなくても、近くに立っていた親がかつてした動作を学びます。
子供が「自転車」と言えるようになる前に(それは自転車に乗れるようになるだいぶ前ですが)、その子は外部からやってくるものを元にして感情の調整をしています。
取り乱した赤ちゃんは母親に手を差し伸べます。なぜならよく調整された親だけが彼をなだめることができるからです。彼は自分で自分を落ち着かせることはできません。
これらの何千もの相互作用の結果として、子供は自分で自分を落ち着かせることを学びます。彼の知識は、自転車に乗り続ける方法と似て、それは暗黙的で、目に見えず、言葉で言い表すことが出きず、それでいて申し分のない働きをします。
感情的にバランスのとれた両親の子供は、人生の小さなショックに強いでしょう。
その練習の機会を逃した人は、大人になった後、自分の感情的な足場が、まるで荒れた海の上のボートの甲板のように、大きく揺れていることに気付きます。
彼らが固定器具(訳注:anchoring attachments。ここで attachments は固定・接着という意味以外に愛着という意味もある)を失ってしまった場合、信じられないほど大きく跳ね上がります。支援なしでは、彼らは裸足でボロボロの状態に戻されます。 従って、関係が終わるということは、単に身を切るような心の痛みがあるだけではなく、その人がダメになってしまうことを意味しています。
このような感受性の強さを証明するのは、国をまたがる里帰りのようなイベントが非常に一般的であるということです。
現在の平均的な環境では、いい本を一冊読む時間よりも短い時間で、これまでずっと気にかけてきたすべての人や全てのものから何千マイルも離れたところに移動することができます。
大脳辺縁系の脳は、愛着対象を見失ったという状態を、ホームシックの痛みとして記録します。
手紙と電話は傷の上に塗る軟膏のような働きをしますが、それは愛する人との近さというフル帯域の感覚の代理となるものではありません。生きた関係を維持するために、辺縁系という仕組みは、豊かで、鮮やかで、頻繁な感覚を必要とします。
ほとんどのセラピストは、そのような不幸な人口移動の犠牲者を少なくとも一人はクライアントとして抱えています
はじめて家を離れた大学生、
昇進や転勤に伴い遠くに引っ越さなければならなくなった人、
彼らは、地理的な制限により精神的な健康を崩しているように見えます。
自分の感情的な弱さや、生まれ育った環境というサポートネットワークを考えたこともなかった本人が、そのような状態になったことに一番驚くことになることは、しばしば起こります。
私たちの社会は、執着を断ち切ることから生じる感情的バランスの流出を見落としています。
種の夜明けから数百年前まで、ほとんどの人間は1つのコミュニティで生活していました。
20世紀特有の教訓は、予期せぬ合併症が技術進歩の忠実な仲間であることです。
大脳辺縁系の調節は遠くで弱く作用するため、広範囲の可動性を可能にする便利な機械には問題があります。
現在の私たちには、旅するようなライフスタイルを確立する手段がありますが、そのための脳をもつことは、今後もないでしょう。
愛することを学ぶ
ここでいったん、友だちがあなたをニューヨーク現代美術館に連れ出してくれたと想定してみましょう。その美術館の埃っぽい地下室はしばらく改修中でしたが、その改修も終わり、新しい絵の展示が始まった、というのが友人の誘い文句です。友人は、その新しい絵の作者が、マネか、モネか、それかマティスか、思い出すことができませんでしたが、彼が覚えているのはそれがフランスの画家で、その名字がMで始まるということでした。その絵にはタイトルが書かれていませんでした。もしあなたが3人の画家の作品について詳しいのであれば、それがだれの作品であるのかを自身をもって言うことができるでしょう。
いったいどうやってでしょうか。暗黙的な記憶というかすかな光によってです。 例えばマティスの絵を見たとき、あなたは彼の絵が一般的にどのように見えるかを伝えるアクセス可能なプロトタイプのタイトルを持っています。評論家や鑑定家は、構成、照明、色合い、テクスチャ、遠近法、主題、色などの識別特性を明確に表現できる場合があります。しかし、本から得られるような知識はここでは不要です。 それを何度も見ること、吸収すること、じっくりと鑑賞すること、などがもたらす神経の状態のみが、ある絵がマティスによる作である「ように見え」たり「感じ」たりさせるものです。それ以外のものがそうさせることはありません。あなたは、美術史の学位がなくてもマティスの絵を識別できます。もっとたくさん見れば、あなたの直感は鋭くなっていくでしょう。
この能力は、感情的な知識が可能にしているものです。
人生の最初の数年において、子供の脳が寛大な足場から狭いテンプレートに移ると、その子は自分の他者との関係から、ある特定のパターンを抽出します。 出来事という記憶のおぼろげな光が現れる前に、彼は愛がどんな「感じ」がしたかという印象を保存します。
神経記憶は、それらの質感をいくつかの強力なアトラクターへ圧縮します。 そのアトラクターの1つ1つは非常に軽量ですが、その蓄積された経験は深い痕跡を残します。
この凝縮された知識は、子供の意識というベールの下から子供に対してささやき、以下を子供に告げます 関係とは何か
それはどのように働くのか
それから何を期待できるのか
どのようにそれを育てることができるのか
親が子供を最も適切な仕方で愛することがあれば、つまり
子供のしたいことが優先され、
失敗は許され、
多くの忍耐がなされ、
痛みはできるかぎり慰められるような関係を築けるとすれば、
その子は自分自身と他人に対して、「そのような」関係を築くでしょう。
異常な愛
ーやりたいことは無視され、愛情は窒息死し、自治権は許されないような環境ー
は、辺縁系に根絶できない印を残します。その場合、健康な愛が何であるのかを理解できなくなります。
愛が「どのようにして」可能なのかということに焦点を合わせることは、それが「誰と」手をつなぐということにつながります。
赤ちゃんは両親の声を夢中で聞き取りますが、その両親が良い親か悪い親かということを自分で判断することはできません。
赤ちゃんはそこにいる人が誰であろうとくっつき、(私達が後で説明する)様々な愛着を引き起こす元となる、無条件の「固着性」を身につけます。 それは、
良くも悪くも、
金持ちであっても貧乏であっても、
病気であっても健康であっても、
そうなります。(訳注:原文では金持ちだったり病気だったりする主語が明示的に示されていないため、上記は生まれた環境と、その後子供本人がどのようになるかという両方の意味を含めていると解釈)
子は、母親が美人であっても普通であっても母親の顔が大好きで、いつでも母親の元に駆け寄ります。
そしてその子は、家族がもたらす客観的なメリットの有無に関わらず、彼がよく知る家族の感情的な雰囲気を望みます。大人になると、彼の心はこれらの輪郭に沿ったものになります。
配偶者の候補が彼のプロトタイプに近ければ近いほど、彼はより魅了され、他に何も考えられなくなるほど夢中になります。そしてそれを感じれば感じるほど、最終的には彼は、自分が「属している」のは彼女だと思うようになります。
親しみを価値あるものにしているのは、愛着(訳注:ここでの愛着=attachment は、日本語の「愛着」がもつ望ましい意味だけではなく、それにしばられて逃げることができない、「繋ぎ止められ」というニュアンスも同時に持つ)です。 レトリバーは友好的ですが、道で出会う通行人が飼い主より親切そうでも、多く散歩に連れて行ってくれそうでも、すぐにおやつをくれそうでも、その通行人にはどうしようもなく無関心です。その犬は通行人を評価しないし、「できない」のです。
誰もが、このように忍耐強く喜びを待ち構えている犬と同じように、辺縁系という船の中にいます。
ほとんどの人は、視力が1.0 であるということの意味や完全な音程を生みだす神経という奇跡を、難なく受け入れます。
しかし、「人混みの中で親しい人をすぐに見つけられように、他人の心の中にある自分と親しい部分を感じ取るとができる」という主張に対して警戒的な姿勢をとっている人もいます。
あるグループを調査して、その中の誰が悪い気性を持つか、誰がアルコール依存の母を持つのか、誰が自分を捨てた父親への復讐を夢見るのか、を知ることが誰にできるでしょうか。
あなたはあなたの周りの関係を見て、自分自身で判断する必要があります。
人は、自分の心と歯車が噛み合う友だちを獲物として狙い、それは非常に素早く正確に行なわれるので、私達が持つ最も性能の良い誘導爆弾(訳注:our smartest smart bombs、追尾式のミサイルまたは魚雷を指すのか)でさえも、その追尾能力を羨むほどの知的水準には達していません。
プロトタイプから外れた関係は、辺縁系という観点からみれば、孤独と同等です。
上の2つの事実は、愛によくつきまとう、その初期フェーズにおける奇妙な癖を生みだします。
ほとんどの人は、愛着メカニズムが検出できない誰かとの「いい」関係という停滞した喜びよりも、辺縁脳が認識できるパートナーとの悲惨な関係のほうを選びます。
前章で説明した若い男性が、燃えるように批判的な母親との昔の愛の現代における再現と格闘していることを考えてみてください。彼は大人になり、世界の二面性に直面しています。彼が女性とつながると、彼女は母親の若いクローンになります。
しかし、支えとなる女性は、彼をいらいらさせないままにします。そこには火花も化学変化も花火もありません。
多くの人は、自分が、自分の心の中にあるようなラブストーリーに到達できると「思って」います
男の子は女の子(またはその他の組み合わせ)と出会い、恋に落ち、その後ずっと幸せに暮らしました、めでたしめでたし。
しかしこの物語は、大脳新皮質の中の風通しの良い場所において、想像・論理・意志を使って下書きされたものです。 より古く、深く、ときには暗い大脳辺縁系の構造は、また別のトリオを共同作業させます。それは
です。
そこではこのラブストーリーを次のように読むことができます
男の子が女の子に出会う。
彼女(彼の母親を思い出させる)は、彼を甘やかし、彼の独り立ちを妨げる。
彼らは悲しい思いをしながら数年間つきあったが、毎日少しづつお互いへの怒りが蓄積されていく。
一部の人は心のなかにこのような物語を持ちます。そのパートを演じてくれる人をみつけられても見つけられなくても、この作品のエンディングは悲しいものになります。
小児期に形成される辺縁系のアトラクターは複数存在する場合があります。一つの関係もしくは一つの家庭は、実現する可能性がある予測と同じ数のアトラクタを生成できます。したがって、子供は、母親や父親だけでなく、兄弟、乳母、家族全体との関係からも影響力のあるアトラクターを形成できます。 たとえば、子供が10人いる家庭において、そこから外の世界でやっていくためには十分ではない、家族限定版の愛という真実が抽出されてしまったので、あなたは終わりのない獰猛な戦いを行なわなければならず、心が満たされないままである、ということがありえます。
最近のある新聞のコラムでは、子供を持つ親たちへのアドバイスとして、兄弟姉妹同士の喧嘩には親が干渉せずに喧嘩させたままにしておくことを推奨していました。外の実世界でなにが起きているかを子どもたちが知ることができるようにするため、というのがその理由です。
この不幸な家庭にいる子どもたちは、管理者のいない寄宿学校や運動場でなにが起こるかという昔からの教訓を間違いなく抽出するでしょう。
正義は弱く、力と脅しが勝利する、という教訓を。
初期の辺縁系のレッスンから生じる結果は、最終的には複雑さを伴うものになります:感情的な現実(またはその幻想)は共同的なものです。 MOMA(ニューヨーク現代美術館)に戻って、マティスのように見える絵を調べます。忘れっぽかったあなたの友人は指を鳴らし、作者はマネであると聞いたことを思い出した、と言いました。彼があなたの隣に立って、マネであるという確実性を放つと、絵画自体があなたの目の前で変わり始めます。顔料は色あせて酸化し、線はぼやけて再形成され、絵は、教科書に載っているマネの絵ではないとしても、「以前より」は間違いなくマネっぽさが増えています。
視覚的な仮想性は、他からの干渉の影響をいくらか受けやすく、辺縁系仮想性はそれよりもかなり重要です。すべての子供が知っているように、一握りの砂の上に磁石を通過させると、数千の小さな磁気的に敏感な粒子(鉄の粉)が磁石に跳ね上がりますが、シリコンを主成分とする石は動かないままです。 大脳辺縁系の脳は感情的な磁石です。アトラクターは、関係性と感情についての他人の側面のうち、自己と互換性のある箇所をアクティブにし、互換性のない小石を休眠状態にします。私たちは皆、愛する人に働きかける感情的な力の場を体現しており、私たちが最もよく知っている関係の属性を呼び起こします。私たちの心は、私たちの近くにいる人々の感情的な磁石に引き寄せられ、私たちが思いつく風景を変えて、彼らが見る色や質感でそれを描きます。 人の揚げ足ばかりをとる女性を愛する若い男は、彼が思っていた以上のトラブルに遭遇しています。
第一に、彼は自分を批判的な女性へと向かわせる自分の不思議な精神的メカニズムと戦わなければなりません
第二に、「彼の」存在は、彼の現在の彼女が持っているであろう威嚇的な傾向を増幅させるだろう、ということです。
彼女についても同様です。
彼女が選んだ男は、彼が彼女のアトラクターとマッチするからこそ選ばれたのであり、彼女はその美点も欠点も強化することになるでしょう。
その後もずっと...
テンプレートとアトラクターが染み込んで形成された後、感情的な学習は止まりませんが、速度は遅くなります。幼少期のパターンは柔軟なニューラルネットワークに刻み込まれますが、その後の経験が与える影響は、進化する存在である人間にとっては、比較的弱いです(訳注:進化は個体変化より世代交代による影響が大きいため)。 なぜこのようになっているのでしょうか。
理論的には、人生の後半にこのような感情の核を学習することもありえます。
しかし多くの場合、子供時代を過ぎた後の感情的な学習は、既存の基盤を強化することでしかありません
残念ながら、脳の生物学と統計学との両者とも、成人後の感情学習が可能であるという意見に反対しています。
脳の可塑性
ニューロンが新しい接続を芽吹かせ、新しい知識をエンコードする準備ができていること
は、青年期以降に低下します。
そして、その後の学習は、ニューラルネットワーク内においては、エネルギー効率的に好ましくありません。
既存のアトラクターは、ある程度の斬新さを持つ新入りを簡単に圧倒し、吸収できるため、新しく入ってきた知識は、すでに染み込んでいるパターンに対して困難な戦いを戦わなければなりません。 神経仮想性の性質により、曖昧さが現実から取り除かれ、すでに見られたものがほぼ描かれます。 ですから、自分の心身の導くままに、不正直だったり、利己的だったり、嫉妬深かったりする親を知り、そして愛した子どもたちは、20歳、40歳、60歳になっても、愛することを学ぶことができない場合がしばしばあります。
すべての子供は自分のアトラクターを保管し、神経的に作られたサウンドステージという大人の生活を過ごします。もしそのアトラクターが彼を誤った道に進ませたのであれば、その道から抜け出す方法はあるのでしょうか? 彼は、いつも見てきた見方、いつもやってきたやり方という罠から抜け出すことができるのでしょうか。
感情の学習が一度間違った方向に向かってしまった後、それを正しい方向に戻すことはできるのでしょうか。
アトラクターの寿命の長さと神経の柔軟性の衰えにもかかわらず、感情的な心は成人期に変化する可能性があります。タスクは簡単ではありませんが、古いパターンは修正できます。 この短い章の中では、成人後の感情の学習についてあまり注意を払っていないように見えたかもしれません。
しかしこのトピックは私達が日頃感じていることと深い関連性があるので、一つの章にするに値すると思います。