第2章 子猫、猫、ズタ袋、そして不確定性
脳の基本構造はどのようにして愛への困難性を示すのか
愛は、吟遊詩人のつぶやきや詩人の連句の間に、簡単に入り込みます。そのような人たちのやり取り・営みこそが、愛が属する場所であることは間違いないことです。しかしそのような心臓の鼓動の高まりが、科学者の冷たく鋭い目の監視下に置かれると、一旦ストップがかけられます。科学は、身も蓋もないが効果的な、次の格言のもとで処理されます:
「自然を理解するためには、それを分解せよ」。
愛は単純化したり分割して扱うことができません。これは致命的な行き詰まりであるように見えます。どのように探索を進めれば良いでしょうか。硬い刃を持つ物質性・客観性は、つかの間で儚く個人的な愛について、何をつかむことができるでしょうか。
実際問題として、科学の幻影に対する向き合い方は、かつてそうであったほど敵対的であるわけではありません。20世紀のはじめの数年は、自然という概念をきっちりとした歯車で押しつぶした時代でした。物の内部の詳細は、力強さと微細さをもって視野を拡大することが可能な顕微鏡で明確に観察されました。物理学者と数学者が現実世界を詳細に観察した結果、客観性という名の統治者はその統治の終わりを宣言されました。 「ああ、音とスイングする体よ、光り輝くまなざしよ 踊りと踊り手自身とをどうして区別することができるだろうか」
ウイリアム・バトラー・イエーツは1928年にこう言い残しました。この詩人はその生きていた時代の科学と完全に共鳴していました。それは、分割すること(それは伝統的な科学が追い求めていたものですが)の困難さ、つまり知識それ自体とその知識を知る者とを分割することの困難さに到達したのです。この科学の客観性に対して向けられた、勝つ見込みのない営みは、現代の私達の世代がどうやって心の探求についてのターニングポイントに到達できたのかについて、理解する助けになってくれます。
機械時計のように正確で緻密な世界モデルへの最初の強風は、アルバート・アインシュタインから吹いてきました。彼の相対性理論はこうです。
「時間の流れはあなたの場所に依存する。複数の異なる観察者が同一の現象を目撃したとき、彼らはその現象が起こった順番についてさえ同意しないかもしれない」
その数年後、カート・ゲーデルは、「全ての数学系には、龍の巣の中にある光輝く宝石のように、それを真理であると証明できない真理が含まれる」ということを発表しました。アインシュタインとゲーデルに挟まれた時期に、ハイゼンベルグは不確定性原理を携えて表れました。ハイゼンベルグは「原子の位置を正確に決定しようとすればするほど、その速度を知ることができなくなる」ことを示しました。この恥ずかしがりの性質は、その反対向きの性質にも適用できます。つまり、粒子の速度が正確に図られれれば図られるほど、その位置はつかみにくく逃げてしまう、ということです。
ハイゼンベルグの発見は原子レベルを超え、科学の根本を再構築する役割を果たしました。「科学は物事の本性・本質を記述したり説明することはない」とハイゼンベルグは結論づけました。「・・つまり、私達の疑問の立て方に応じた形としての本質については、これを説明してくれることはない」。ゲーデルやアインシュタインと同様、彼は科学者にとって居心地が悪く感じられる、定義不可能な世界を提出しました。その世界では知り得るものの範囲ががっかりするほど小さくなり、このような視点や方法などのつかみどころない形式は、これまで確固として存在していた真理に対して影響を与えます。1930年以降は、ミステリー・不可思議な事象は科学の周辺を形作るだけではなく、根深く手が届きそうもない中心点を持ち始めます。科学が愛という神秘にアクセスするためには、それを問う方法を改良しなければなりませんでした。
私がツタの這う教会に向かったとき、
7人の妻を持つ男に会った。
7人の妻たちはそれぞれ7つずつのズタ袋を持ち、
それぞれのズタ袋には7匹ずつの猫が入っており、
それぞれの猫たちは7匹ずつの子猫たちを従えていた。
さて、ツタの這う教会に向かったのは合わせて何人(と何匹)?
多くのこども達は、一番正しい答えが「1人」であるということを知っています。このなぞなぞを出しているその人本人の向かっている先「だけ」は、ツタの這う教会であるということが「知られて」います。このなぞなぞを出された側は、その他の旅行者(妻たちや、猫たち)がどこに向かっているかを知らされていないし、それを予言することもできません。このなぞなぞは、それを出された人たちの知識の間にあるギャップを覆い隠します。「ツタの這う教会に行ったのは合わせて何人(と何匹)?」という問いに元気いっぱいで答えることは、この質問が裏に隠し持つ質問、すなわち、「皆はどこに向かっているのか?」という質問を手で払いのけることです。「皆が向かう先はどこか?」という質問は、答えることができない質問です。なので、これは「それについて考えることができない」という効果を生み出す質問です。7人、7つ、7匹と、7という数字を連呼することは、手品師が手のひらに挟んでいる見えないエースのカードと同じくらい、聞き手の注意をそらします。聞き手は、確かな情報、すでに明かされている情報に誘惑され、答えと関係のない計算を走り書きし始めてしまいます。 愛が何によって作られどのような働きを持つかということを知らないまま、心の謎を解き明かすということを、私達は望みません。生物学は、愛について最もよくある見方、最も人々の行動に影響を及ぼす見方に対しては、ほとんど何の役割も担っていません。なぜなら、「ツタの這う教会」のなぞなぞが描き出し、ハイゼンベルグが証明したように、「何をどのように知りたいか(どんな疑問を持つか)」ということが、「世界がどのように見えるか」ということを規定するからです。「脳の構造と機能を知ることにより見えてくる愛の正体とは何か」という問いは、今から100年前にはすでに輝きを失ってました。従って、脳についての知識が足りないということは、感情や心を知ることができないということの原因・障害の1つであるとは、もはやみなされません。実際のところ、それ(訳注:脳の構造への科学的アプローチ)には、「『その欠落がほとんど気づかれない』という欠落」があります。 現在、愛についての生理学の妥当性は、検証されているところです。愛それ自身は不毛な物質主義(還元主義)に取り囲まれているわけではありませんが、20世紀最後の20年間というこの時代において、愛を生み出す元である脳は、すでに物質主義に取り囲まれています。現代の神経生理学の登場、高度な技術によるCTスキャン、超小型の手術用マイクロメスと惜しみない努力が注ぎ込まれた解剖の手法は、愛についての研究には常に欠けていたもの、つまり分解可能な物理的基盤をついに提供するに至りました。
心の秘密を探求しようとする者は、脳の構造という必要不可欠な事実を避ける道へと誘惑されるかもしれません。しかしそれは間違っています。確かに脳の複雑性、繊細さ、網状に交差する糸状物質は畏敬の念を引き起こし、その探求は狼狽させるほどの困難性を引き起こすということは誰もが認めるところです。しかし物事のディテール、個別具体的な専門知識を飲もうと(吸収しようと)することは、その知識の海に溺れる必要があるということではありません。誰もが工学の学位がなくても車を運転できます。内燃機関の生きた知識 -ガソリンとは何か、それが(訳注:燃料として使われると)どこに行ってしまうのか、そしてなぜマッチをつけてガソリンタンクを覗いてはいけないのか- は、不可欠な知識です。愛の本質を知るため、「サイエンティフィック・アメリカン」のバックナンバーを苦労して読み込む必要はありません。しかし脳の由来や構造の基礎的なことについて親しむことは、例えば激情が火花を散らし、それにより発生する引火爆発を防ぐことになります。
内部の物語
脳は、神経細胞であるニューロンが絡み合ったネットワークです。これは、脳が本質的には心臓や肝臓と同じ臓器であるということです。臓器とは、似たような細胞を連結したものです。ある臓器にその特徴と力を与えるのは、その機能であり、それはその臓器の構成細胞が実行する準備ができているような、その機能のことです。神経ニューロンを呼び出す方法は特殊で、細胞間で信号を伝達することによって行われます。この信号は電気的であり化学的です。化学物質の粒をメッセージとしてさかんに送っている細胞の分子は、神経伝達物質と呼ばれます。誰かが「気分の(化学の、chemical)不均衡」に苦しんでいると言うとき(現在は「自発的な制御を超えた望ましくない行動」と同義語)、それは信号送信の1つの側面、つまりニューロンの望まない電位差を表しているにすぎません。精神状態が変わるときのニューロン発火を目撃したことがある人はほんの少ししかいないと思いますが、誰もが化学的に変化した状態の人を見たことがあるはずです。コーヒーは注意力を上昇させ、アルコールは抑制を解消し、LSDは幻覚を引き起こし、プロザックは抑うつ、強迫観念、自己信頼の低さを軽減します。これらは皆、信号を増幅したり減少させたりすることによって引き起こされるものです。自然に発生する神経伝達物質を真似したりブロックしたりする物質は、心のある状態、つまり視覚、記憶、思考、痛み、意識、感情、そしてそう、愛を引き起こし、いじくることができます。 このような細胞が集まって、互いに絶え間なく信号を送りあう理由は何でしょうか。このコミュニケーションの祭りが生み出す利点は何で、これが促進させる効果とは何でしょうか。それは生存です。信号を伝達する細胞の集合体は、瞬間的な変化に対してすばやい反応を引き起こすことができます。 環境からの情報は内部の信号に変換でき、ニューロンが集中するかたまり内ですばやく処理され、外部へと向かう信号がアクション(逃げ回る獲物を引き込んで捉える、自分を食べようとする敵のジャンプを回避するためのひとっ飛びなど)を引き起こします。
最高の順番で発火する最高のニューロンを備えた動物が、より長生きします。 彼らが次の交尾シーズンまで生き残れば、彼らの勝ちです。 自然選択は、2位には賞を与えません。
私達の頭蓋骨の中にはこのように飛びまわる神経系があることを誇りに思うと同時に、このような生存ゲームへの対応手段は、たくさんの種の中で生き残ってきた戦略の残存物質であることを認識するべきです。世界で最も成功している生命体は脳を持たず、脳を使う必要がありません。バクテリアはその存在している数という意味では、地球で他を引き離す圧倒的一位の生物です。それは単一の細胞であり、多数の細胞が協調的に信号を送り合う仕組みも、このようなコミュニケーションが与える複雑な行動特性も持たずに、勝利し、生き延びて来ました。この一見したところ障害に見える特性にも関わらず、バクテリアは北極のツンドラから硫黄が立ち込める火山帯まで、あらゆる生体環境のすきまで生き延びてきました。また、地球上で最も長生きの生命体は、カリフォルニアの北部にある巨大な赤い大木で、4000年の寿命を保っていますが、この巨木はうんざりするほど長い年月を、周りの変化に対応する能力を持たずに、生き延びてきました。
信号細胞が集合し始めた初期においてはそのまとまり方もまばらであり、環境の単純な変化に偶然に受け身をとったことが適応した、ということに過ぎませんでした。左側に有害な刺激があれば右側に移動する、またはその逆も同じですが、そのようなことです。年月が経ち、1000億個のニューロンがあつまって人間の脳を作り上げました。脳の非常に複雑な構成は、人間の本性・野生の姿 -愛を含めて- の全てを決定づけました。
三位一体の脳
脳は、みんなの共同作業により生み出されたものではありません。進化とは、永遠とも言える長い時間の中で、いくつもの環境変化(偶然や過去の経緯の連鎖を含む)が同時発生しながら、生物学的な構造を形作る、さまよいのプロセスです。どんな委員会よりも気まぐれなデザイナーである進化は、何世代にもまたがって生命体が変動する環境に対応するために紡いできた、始まり、後退、妥協、見えない脇道、が編み上げられた物語です。私達はこれらの適応のプロセスを前進もしくは進歩であると考える(考えたがる)ことに慣れていますが、25年前にナイルズ・エルドリッジとスティーブン・ジェイ・グールドが論じたように、化石として残された過去の記録はこの考えへの反対論証になっています。進化のプロセスは、なめらかな移行がひとつながりとして続くのではなく、爆発的なメタモルフォーゼ(訳注:変化、変身、変態)を伴う断絶のプロセスです。環境の変化の速度が適切であるか、環境変化に適応できる突然変異体が登場すると、その生物の変化が爆発的に起こり、その生物種の存在が許されます。 従って、人間の脳の進化も、前もって計画されたり、つなぎめなくなめらかに作り上げられたものではないと言えます。それは単に、起こったことです。そしてその血統(=そのような素性を持つということ)が、脳の調節機構に対する合理的な予測をなぎ倒します。非常に発達した神経細胞の仕組みから、それが定期的に発生しかつ捕食者を呼びよせかねない麻痺状態(訳注:睡眠のこと)を生み出すということを事前に(訳注:ア・プリオリに、先験的に)推定できる人はいないでしょう。しかし睡眠は、その神経生理学的な機能はまだわかっていないにも関わらず、哺乳類では普遍的にみられることです。常識から導き出される同様の間違いとしては、脳は均質で調和的な構造になっている、というものがあります。しかしそれは間違っています。均質な脳はよりよく機能するかもしれませんが、人はそのような脳を持ちません。進化の構造は、論理のルールに答えるのではなく、長い生存競争による生き残りへの必要性に対してのみ、答えることができます。
国立精神衛生研究所の進化神経解剖学者および上級研究科学者であるポール・マクリーン博士は、人間の脳は3つの部分から構成され、それらはそれぞれ異なる進化の歴史の産物であると主張しました。このトリオは混ざり合ってコミュニケーションしますが、サブユニットの機能、特性、さらには化学的性質が異なるため、サブ脳の間の情報のやり取り中にその情報の一部は必然的に失われます。 スリーインワンあるいは三位一体という脳の神経進化の発見は、愛の無秩序が古代史からどのように生じるかを説明するのに役立ちます。
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人間の脳、三位一体の(3つに分割して考えた)脳
爬虫類の脳
最も古い、または「野蛮な」脳は、脊髄が球根状に変化したものです。この脳は生命をコントロールする中枢を覆っており、この中枢は呼吸、嚥下、および心拍を促すニューロンです。また、空を飛ぶトンボをカエルがしとめるときに使われる視覚追跡システムも含まれます。 運動反射の中枢もここにあります。なぜなら突然の動きやノイズに対して素早く反応することが、動物が脳を持つようになった主な理由であるためです。
爬虫類脳(訳注: Reptilian brain)は、生存のための生理学に深く染み込んでおり、「脳死」状態の人の中でもまだ機能しているものです。爬虫類脳が死ぬと、体の残りの部分が続いて死にます。他の2つの脳は、生命維持にとってそれほど重要ではありません。鉄道労働者が神経学上の伝説になった、フィニアス・ゲージの例を考えてみましょう。 1848年、爆発によりゲージの頭蓋骨に鉄の棒が突き刺さりました。 棒は彼の左目の下から入り、頭頂部を出て、新皮質の脳のかなりの部分、それは彼の推論能力を司る部分でしたが、それを失ってしまいました。事故の後、ゲージは生まれ変わったように変わりました。彼の勤勉さと几帳面さは、怠けがちでズボラな性質へと永久に変わっててしまいました。しかしその爆発の後、ゲージが立ち上がってから何分か後には、すでに歩くこともしゃべることも通常にできていました。彼は他の男と同じように問題のない形で、食べ、眠り、息をし、走り、うがいをすることができました。彼は円筒形の形の新皮質を失ったまま、それから13年間生存しました。もし爆発がゲージの爬虫類脳の部分を撃ち抜く形で起こっていたら、彼は最初の血が地面に落ちるよりも前に死んでいたでしょう。 https://gyazo.com/5bff81bf1c49afe932addff2c1605573
爬虫類脳の図
爬虫類脳が生き残っている限り、心臓の鼓動、肺の膨張と収縮、血液の塩分バランスなどは適切に保たれます。プログラミングされ自動運動する家電が、住人が外出中でも動き続けるように、爬虫類脳はコンセントが抜かれても、つまり脳が人間を特徴づける機能を失った後でも、動き続けます。それも何年も。私達の社会は、脳が爬虫類のようになってしまった人(訳注:脳死状態の人)に接するようになり、以下の困惑に直面しています。この人は生きているのかどうか? そもそも目の前のこれは人間なのかどうか? 悲しいことですが、爬虫類脳によって生かされている人間は、切断された足の指のようなものです。目の前にある細胞の塊は、私達を他の動物と分けるもの、ある人を他の人と区別するものを、もはや失っています。
爬虫類脳が感情と心の構造に大きな役割を果たすと期待しても、失望することになるでしょう。 爬虫類には感情がありません。 爬虫類脳は初歩的な相互作用を備えるのみです:攻撃と求愛、交尾と縄張りの誇示などです。 マクリーンが指摘しているように、ある種のトカゲは、自分たちの縄張への侵入者を攻撃し、撃退します。これは、脊椎動物の歴史において縄張り争いがどのように行われたかを示しています。 都市部のギャングが縄張りを表し、間違った地域に足を踏み入れた人や、赤シャツの支配地域において青シャツを着た人に対して嫌がらせをするのを見ることはつまり、脳の古くから続く特質の一部を目撃していることです。そのような(他者を締め出す)傾向が、非社交的な肉食動物が生き延びる形式には適応していたということです。
辺縁部の脳(大脳辺縁系)
1879年、フランスの外科医で神経解剖学者のポール・ブローカは、すべての哺乳類の脳が共通の構造を保持しているという、彼の最も重要な発見を発表しました。これは大脳辺縁と呼ばれます。 この部分と大脳半球の残りの部分との間に「境界線」を見ることができるため、ブローカはラテン語のlimbus、「縁、へり、または境界」を意味する用語を作り出しました。 彼の発見したこの構造は、生物進化上の2つの異なる生き方(訳注:爬虫類と哺乳類とを区別するもの)の境界を示すものだったので、彼の最初の命名は非常に適切であることが証明されました。
人の第二の、もしくは辺縁の脳は、第一の脳の周りを柔らかい素材で囲い込む形をしています。その形はなめらかなカーブですが、それは舌を噛みそうな名前の部位から構成されています。それらは魔術の呪文のような名前を持っています。それは海馬、脳弓、扁桃、中隔、帯状回、嗅周野 と嗅周野領域、などです。
初期の哺乳類は小さくトカゲのような爬虫類から進化しました。哺乳類の進化は、隕石が地球にぶつかり恐竜に寒さをもたらすよりも前には、かなり進んでいました。巨大爬虫類の没落は、すばしこく動く新しい生物に繁栄の機会を与えることになりました。哺乳類は、ちょうどうさぎがそうであるように、素早く裂け目に入り込み繁殖しました。それから6500万年経ちましたが、その繁栄はまだ衰えていません。
高校で教えられる生物の授業では、爬虫類と哺乳類との違いを以下のように教えます「哺乳類はウロコではなく毛に覆われている、一方は自分で熱(体温)を発生させるが爬虫類は体温調節のために日光熱を利用する、哺乳類は卵を生むのではなく小さな赤ちゃんを生む」などのようにです。
しかしマクリーンは、このような古い分類は、2つの種の間にある脳の大きな違いを見過ごしてしまう事になりかねないことを指摘しました。哺乳類が爬虫類の進化系統から分かれる際には、脳には大きな変化が起こりました。この変化は、単に子孫を生み出す方法を変化(訳注:卵生から胎生への変化)させたばかりではなく、子孫へと引き継がれる組織構成の傾向変化を発生させました。通常の爬虫類の場合、親は子に愛着を見せることはなく、あまり関心を見せることはありません。一方哺乳類は、非常に細やかで献身的なやり取りを、その子供と行います。
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辺縁の図
哺乳類は自分の子どもの命をつなぎとめます。親は子どもに乳をやり、外敵から守り、まだ歩けない場合は背中に背負います。別の言い方をすれば、哺乳類は子どもの「世話をします」。子どもを背中におぶさりその世話をすることを私達人間はあまりにも当然で通常のことだと思っているので意識しませんが、この能力はかつては、非常に目新しいこと ー 社会進化上の革命 ーだったのです。
辺縁系はまた、哺乳類がその子どもに歌を歌いかけることを可能にするものです。哺乳類とその子供とのあいだに作られる歌によるコミュニケーションは、普遍的なものです。親をそのまわりにまとわりつく子猫や子犬から引き離すと、その親は悲しげな唸り声(分離による叫び)を発します。その叫び声は、人間にとっても鋭い苦痛を引き起こすものです。しかしコモドドラゴンの赤ちゃんをその鱗に覆われた親たちから引き離しても、親のコモドドラゴンは静かなままです。コモドの親は共食いを熱心に行うので、未熟なコモドは彼らの存在をアピールしようとはしません。命をつなぐための沈黙という真空の力は、親とその子の間の距離を広げるものになります。か弱さをアピールするという行為は、その子の脳が親という保護者を想像できる場合にのみ、意味がある行為です。 哺乳類はまた、お互いに遊びあうことができます。これは大脳辺縁系を持つ動物に固有の活動です。犬と古いスニーカーをつかみ合って綱引きをして、そのスニーカーを離したことがある人は、その犬は靴を欲しがっているのではなく、単に引っ張り合いをしたがっているということを知っていると思います。その犬はまた、靴下を取り合う遊びを非常に喜び(靴下を欲しがっているというわけではない)、ものをくわえてきては溜め込む(これはものがなくなってしまう原因になります)ことを非常に好みます。この行為にはどのような意味があるのでしょうか。このとき犬は食べ物を見つけるわけではなく、交尾するわけでもなく、子犬を育てているわけでもなく、生存や繁殖と明確に関連することをしているわけではありません。それではなぜすべての哺乳類は、はしゃいだり、遊びでとんだりはねたりしたり、地面に寝っ転がってじゃれたり、ふざけて暴れたりするのでしょうか。ものを言わない哺乳類にとって、遊びは物理的な詩なのです。ロバート・フロストが詩について言ったように、それは「あることを言うことが別のことを意味する」という、許容された形式なのです。大脳辺縁系の恵みにより、哺乳類はこのような暗喩的なものごとに非常に喜びを見出すのです。
最も新しい脳(大脳新皮質)
大脳新皮質(=neocortexはギリシャ語で「新しい」という意味と、ラテン語で「皮」または「樹皮」を意味することばの組み合わせ)は3つの脳の中で最大かつ最新のものです。 はるか昔に進化した哺乳類であるオポッサム(有袋類のトレードマークである腹部の袋を保持しているほど古い動物)は、古い副脳を覆う新皮質としては、非常に薄い部分しか持っていません。 新皮質のサイズは、起源が新しい哺乳類であればあるほど成長しているので、犬と猫では大きく、猿はそれより大きいです。 人間では、新皮質は膨大な割合に膨らんでいます。
大脳新皮質は2つの左右対称な膜でできており、それぞれのサイズはおおきく厚い綿ナプキンのような大きさで、シワが有り、頭蓋骨の外側の膜に押し込まれたように位置しています。
新皮質は、秘密で答えの出ない質問の生み出されるところです。最近の科学では、機能ごとの位置をマッピングできるようになってきています。話すこと、書くこと、警告すること、理由づけすることなどはこの新皮質で生み出されます。意思が生まれる場所です。
新皮質の視野を担当するところにダメージを受けると、視野の欠落が起こります。たとえ周りが暗い夜の中でも、もし当人が動く光の場所を認識せざるを得ない状況に置かれると、そのように見えます。ときには超自然的なビジョンが、当人の知らない場合であっても、その記憶に永久に残る場合もあります。オリバー・サックスが報告した妻を帽子と間違えた男だけではなく、足を切断したと思い込んだ男性の例や、「左」の概念を忘れた女性などがいます。これらは新皮質のプロセスが間違いを起こしたことにより発生しています。
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大脳新皮質
ウサギ、ネコ、サルの新皮質の大きさ
ある男性が街の通りを歩くだけでも莫大な認識のつながりを必要とします。コーヒーカップに手をのばし、舌を動かして挨拶をし、5番街を見渡してタクシーを拾う。これらは何百万もの小さな筋繊維を動かす複雑な動作です。それは新皮質ではじまることです。心臓発作によって新皮質の動作機能を失った人は、意識によって体を動かすことができなくなります。
運動の開始をどこに取るかについての研究は、決着がついていません。脳波は、神経的な動作指示が行われようとするときにいわゆる「準備の波」がでるということを示します。新皮質の運動野が動きを見せると、準備波は意思を表す信号を送ります。これが、人の意思を表す物理的な波だということです。 しかし実験者が実験対象を時計の前に置いたとき、準備波が出た後にものを動かす決定を表す信号を検出しました。このケースで、なにかの意思を決断するという意識は、後からやってくるものであって、私達が想像していたような、厳正になにかを決定するときのような意思の決定の動きではありませんでした。どこからどのようにはじめの意思の塊が発生するのか、現在の科学ではまだ知ることができません。いろいろなことを発見するたび、まだ知られてないことがあることを知らされることが多くなります。カミングスが観察したように、一番美しい答えは常に、一番美しい質問を作り出すものです。
新皮質が自由意志の全てを決定するわけではありませんが、新皮質の一部に傷を受けると特定の障害、例えば腕を動かせなくなったり、離せなくなったり、それどころか注意を集中することすらが困難になる場合があります。古い脳は、自発的にではなく勝手に働く(不随意の)特性を持ちます。例えば血液のナトリウム濃度(塩分濃度)の調整は爬虫類脳が調整し、それは意思の働きを必要とはしません。従って、どんなに大量で詳細な注意を払ったとしても、大きな衝撃に対する反応、例えば大きな音に対してたじろぐようなことは、誰も意志の力で抑制することはできません。
新皮質がもたらすもう一つの大きな利点は、抽象化の能力です。このように、あるものごとを別の表象で代表させた概念である「象徴」を操作し、戦略や計画を立てたり問題を解決する能力は、その作戦本部を新皮質に持ちます。このような事情は、新皮質と昔からの知性との親和性を生み出すことになります。体重の違いを考慮すれば、問題をよりよく解決する種の新皮質は常にそれに追従する種の新皮質よりも大きいです。人間の脳に占める新皮質の割合は他のどんな生物よりも多く、これが理性を生み出す元になっています。これが言葉を話したり書いたりするという特別な能力を生み出すもとであり、(元々は)意味がなかった音のつづりや線のつながりが、実際の人を指したり、ものを指したり、行動を指したりすることを可能にしたものです。言語は最も重大な、そしておそらく最も役に立つ、利用可能な抽象物でしょう。 抽象化能力はおしゃべりを可能にするだけではなく、実際にはその生き物の命を左右します。抽象化は将来を見通すということを可能にしました。抽象化思考は仮説をたてる事を可能にするので、人はどこでどのようにして計画を終わらせることができるのかを見通すことができ、戦略をたてること ーそのときの気分により方向性を見失うことなく結果をシミュレーションして構想を練ることー を可能にし、結果として失敗を実際に味わうことなく想定させてくれます。神経生理学者のカルビンは、新皮質は元々、感情的な動作、つまり複雜で一度切りしか起こらず、それを解きほぐして修正するにはあまりにも速く起きる反応を制御するために発生したと主張しています。クシャクシャに丸めた紙くずをゴミ箱に放り投げたり、隣人の鍵を奪おうと思っている現代の人間も、より高次元の目的のための実践として、端的に欲望を満たそうとすることをためらうような覚醒の瞬間を経験しているのかもしれません(訳注:皮肉)。もしそうでなかったらということを考える能力は、チェスの能力と同じように、なにかを放り投げてしまうことを抑制することに役に立ちます。この能力は新皮質が存在することを可能にするものです。 多くの人は、進化の過程を、階段を登ることや、より進んだ生命体を生み出す拡張の過程と捉えています。この立場にたてば、新皮質の誕生による利点、つまり話したり理由づけたり抽象化したりする能力は、人間の高次の、より望ましい能力として捉えられるでしょう。しかし進化の過程は(訳注:上昇するようなものではなく)水平であり、不合理なものです。進化は万華鏡であり、ピラミッドではありません。ある生物の形状は常に変化し、変化の仕方自体も常に変化しているものであり、何らかの卓越性を基礎付けるものはなにもなく、そのシステム全体が動いている先を示す聖なる旗はありません。5億年前に全ての生物は、この世界に適応するか、もしくは適応するような形に変化しました。現在でも同じです。私達人間は私達自身を進化の最終形態と呼ぶこともできますが、それは実際に私達がそうであるからと言うよりは、私達が今この瞬間まで存在しているという事実からのみ、言えることです。このような過去の文化バイアスからの囚われを打ち破れば、新皮質は3つの脳のうち最も進んでいるというわけではなく、ただ単に最も最近のものである、といえます。
3つ子(3つの脳)の相克
進化のさまざまに揺れた経緯は、分割された脳、非協調的に働く脳、という分裂を生みだしました。それは、さまざまな指向性をもつ各プレーヤー(訳注:各々の脳)の間に、一定の距離を確保する効果を生みます。マクリーンの三位一体モデルは、理性と感情との分離という試みが時代遅れのロマンチシズムと捉えられたせいか、多くの非難を受けました。3つの脳はその血筋と機能が異なっている一方で、その神経生理学的な構造に目を向けた人はいませんでした。それぞれの脳は、その頭蓋骨内の同居人(訳注:各々の脳のこと)と組み合わさって進化してきたのであり、それらの脳の境界線は、日の入りや日の出のように明確な形態変化をともなう明確な境界であり、脳外科手術における(訳注:手術前に切除部分をマーキングしておくための)マーカーよりもはっきりとした線です。しかし夜が夜明けの光を導き、日の光はやがて夜へと浸透するものであるという事は言えますし、もっと言えば光と闇は本質的には同意義のものです。理性と感情の分裂はたしかに古くから描かれてきたテーマではありますが、これは時代錯誤や時代遅れの考え方ではありません。これは人間という分裂した存在に深く関わるテーマであるが故に、これまで生き延びてきたテーマなのです。
辺縁系と新皮質を分けるものは、神経科学的にも、分子化学的にも、また経験的にも根拠を持っています。顕微鏡で見たとき、辺縁系は、新皮質よりも原始的な分子構造を持っています。特定の放射線は大脳辺縁系だけを染色することができることがわかっています。
薬物の大量服用は、辺縁系にダメージをあたえる一方で、新皮質はなにも変わっていない時がある。
それは、進化の過程で獲得した両者の分子構造の違いによる
子供の保育、社会性、遊び、などは辺縁系の領域
大脳新皮質をまるごととりさったハムスターでも子育てはできるが、辺縁系をすこし取り去っただけでもう無理
辺縁系にダメージを受けた猿は社会性を失う
人間では、新皮質の機能をいたるところで見ることができる
特にオカルト(超自然的)な現象の認識について
実際、瞑想はより広範囲を射程に入れた誤謬を生み出すこともある
「我思う、故にわれあり」は、実際のところは「『私は考えるが故に、存在する』と私は思っている」ということ
アインシュタインの言葉「神に知性を宿らせるというような考えを持つべきではない。神はもちろん、強大な筋肉をもっているが、個人性を持たない。それは人々を導くことはせず、実際には誰かに操られている」
3つの脳は、手品でクルミが入ったコップが目の前で入れ替えられるように、ぐるぐる動いて感情と愛の本質のルールを支配する
人は言葉と理性の部分を重要視しすぎる
人は人の考えの全てが議論でき、これからもそうだと思っている
しかし違う
言葉、良い考え、論理は少なくとも3つの脳のうち2つ(訳注:爬虫類脳と大脳辺縁系)については、意味を持たない
人の考えの殆どは、オーダーを受け取らない
大脳新皮質の殆どは、それが進化してきたもとである大脳辺縁系に支配され続ける
小説家のジーン・ウルフ
「私達は『~するつもりだ』『~するつもりではない』などと言い、私達自身が私達自身の主人であることをイメージしている(まあ、嫌な奴の言うことに従って毎日を生きてはいるけれど)。しかし本当のところ、私達の主人であるのは眠りだ。それは私達の中で目を覚まし、私達はその眠りによって、飼いならされた猛獣のように乗り回されている。その乗り手とは、私達自身の中のこれまで知られていない部分ではあるけれども」
科学者と芸術家の話し合いは、この三位一体脳のために、徒労に終わる。
ある人は自分の生活を、自分の望む方向に向けられない
正しいことをしたい気持ちになること、適切な人を愛すること、失望の後に幸福になること、それどころか幸せな時間に幸せを感じることもできない
人がこの能力を欠くのは、努力が足りないからではない
意思の正しさが最新の脳(大脳新皮質)によって制限され、その領域の機能に制限されているから
感情は他から影響を受けるが、特定の感情を持つことを他者に強制することはできない
現代社会における愛は、機械がボタン一つで応答可能であるが故に、そのような野性的な組織が私達の中に潜んでいることを忘れてしまうことから来ている
期待した動きをせず、期待に答えられないものは、壊れているか設計が間違っている
それには私達の心も含まれる、と人々が気づき始めている
大脳新皮質だけが論理と理性と関係できる
これだけが言葉、抽象シンボルにアクセスできる
感情は言い表したり理由付けできない
しかし表現したり感じることはできる
辺縁系は論理を超えて私達を動かす場合がある
論理は、新皮質が理解できる唯一のものである言葉の、もっとも頼りにならない翻訳者だから
感情を音声で表す際には難しい突然変異が必要
だから音声表現には拘束衣が着せられる
感情が起こったときには、口に泡を飛ばし、ジェスチャーを交え、不満を最小限にしようとする
詩は
新皮質と辺縁系の架け橋
改良可能で力強い
フロストによると、詩は「ぐっと胸につまる思い、間違いへの気づき、望郷の思い、恋愛感情という病気、などにより始まる。しかし詩はそれらとともに始めようという意図そのものではない」
愛もまた、事前に考えて始まるわけではない。
両者の解剖学的な構造の違いから、知性というかぎづめで愛を引っ張り寄せることはできない
フォークでスープをすすろうとするひとが失敗するように。
愛を理解するために、次の章からは、感情に向き合うことから始める