愛
愛に見えるものは大抵の場合「かけた時間」だと思うyozba.icon 例え話をします
生成AIを使って制作したものに愛があるかどうかの話、原作をちゃんと通ってるかどうかの話とつながりがある
例えばゲーム一切やってなくてもYouTubeとかを見ればストーリーやそれぞれのキャラのことをちゃんと知れる
エアプですということを言わなければ、基本的に話は合う
ゲーム性の部分さえ除けば
ていうかなんでこれ愛でリンクしてない?
そこまで抽象的な、主題がデカい話はしたくないだけかな
その人がどれだけそれにリソースかけているのかを認識したとき「愛がある」と人は認識してるのかもしれん
リソースって言っても金ではないかも
基本的には自分の時間・労力を売って得たお金をかけるという視点では金をかけることも同じだけど、時短目的であると愛からは外れる
もっと言えば、見えるとかではなく、実際に、愛があるから時間をかけるのではなく、時間をかけることこそが愛なのではないか?yozba.icon 自分の制作物ですらも擬人化しているかどうかの視点でもある? 我が子のようにとはよく言うが、実際そうなんだろう
AIを道具として扱ってよりクリエイティブな方をやるというのはモノ化しているといえる? まあ実際モノではあるんだが…
そこの差な気がする
え、じゃあプログラマってコードに愛ないんすか?!yozba.icon
やばい、この論法でいくとなぜコマ撮りのほうが評価が高いかも説明できてしまうyozba.icon 大変そうさが目に見えて、愛が見えるから!
合ってるのか!?
ていうか気づいてないの俺だけだったとかですか?!
しかし、ブルシットなことはどれだけ時間をかけようが愛ではない
つまりそれは擬人化してないんだろう
なぜ?
愛があるから擬人化するのではなく?
効率化する気持ちよさがあれば、どのように効率化したかというシステム自体に愛は湧くと思う
他のものに愛を注げたのに!という憤り?
https://gyazo.com/ca248987e45dc5beb67c83f3032d17a3https://gyazo.com/e527cb35c210ba1fb66028158fb7d1c1