ネットワーク主体論
水分子ひとつの構造は極めてシンプルで、HFや$ \mathrm{H_2S}や$ \mathrm{CO_2}と比べて、大きな違いはないにもかかわらず、水分子が集合体になると、かくも多様な特異性が発現する。(→水の特異な物性) 水が3次元的な水素結合ネットワークを形成しているということが、水の物性のあらゆる面に現れてくる。 例えば、氷の中でのプロトン移動過程。ひとつのプロトン欠陥が、となりのサイトに移動する(ひとつの$ \mathrm{H}^+がHになり、となりのHが$ \mathrm{H}^+になる)過程では、障壁はない。しかし、氷の中でプロトンそのもの(プロトン欠陥ではなく)を拡散させたり、氷に定常的なプロトン伝導をおこさせようとすると、必ずD欠陥の助けを借りないといけない。プロトン伝導現象を支配しているのは、個々のプロトン移動素過程ではなく、大域的なネットワークトポロジーの再構成ダイナミックスである。(Jaccard Theory, Helvetica Physica Acta 32, 89 (1959).)
例えば水の中でのプロトン移動過程。Zundel型とEigen型の2つの安定構造を順番に作ることで、やはりプロトンは低いバリアで自由に移動することができる。プロトンが継続的に移動できるかどうかは、むしろ第2隣接以遠のネットワークトポロジーの変化に依存している。
例えば、10種類以上の結晶相の存在。これらはいずれも局所的には4配位を維持しているが、ネットワークトポロジーの違いで区別される。通常の物質は、圧力が上がれば配位数は変化するのに、超高圧でも4配位に固執するのは異常である。
例えば、2種類の非晶質相の存在。LDA相は特徴的なネットワークトポロジーでHDAと区別される。 例えば、氷のプロトンオーダ転移。ひとつの水分子が、Donor/Acceptor HBをそれぞれ2本もつおかげで、プロトン欠陥は氷のネットワーク上をよどみなくランダムウォークしつづけることができる。L-欠陥による阻害がなければ、プロトン欠陥のランダムウォークにより氷Ihは秩序化氷XIに変化すると思われる。
例えば、水の中の水素結合再構成。各水分子は4本の水素結合を持っているものの、水素結合に向きがあるので、もしドナーHBが過剰(3本)になった場合に、構造を安定化するために切れる水素結合の選択肢は4本のうち2本しかない。結果的に、水素結合再構成ダイナミックスは水の周辺で等方的に起こらず、限られた方向に伝搬していく。
例えば氷の融解。水素結合をたくさん切らずに、低いエネルギーバリアを越えながら構造を変化させていくために、5-7欠陥を作り、きゅうくつな構造変化をくりかえす。最初に構造が壊れる位置は水素結合ネットワークの向きに依存しているし、一旦壊れた(融けた)部分が氷に戻れるかどうかは、ネットワークトポロジーに強く依存している。
例えば、メタンハイドレートの結晶成長ダイナミックス。初期に形成される12面体ケージから、最終的な14面体ケージへの変化は、ケージのトポロジーを少しずつ変化させ、多面体を構成する水分子をすこしずつとりいれることで連続的に行うことができる。
水分子のH-O-H角を微妙に変化させると、短距離構造もそれにつれてわずかに変化する一方、中距離秩序は劇的な変化を示す。(→水らしさはどこから来るのか)水素結合ネットワークの構造の違いが、水の巨視的な特異な物性に大きな影響を与える。 水は、質量あたりの水素結合が最も多い物質である。水ほど水素結合ネットワークを作る物質はほかにない。
このように、水のなかで起こるあらゆる現象が、実はネットワークトポロジーなしに理解することはできない。
「個々の水分子がこれこれこういった性質をもつから、隣接分子あたりではこんなことがおこったり、集団運動が起こるよ。でも、実はネットワークがつながっているから、もうすこし話は複雑になるかもしれないよ」という風にボトムアップで考えるのではなく、「そもそも水はice ruleを満たす、正四面体型局所配置を持つネットワークを作りたがっている。そのため、ある分子で何かがおこっても、ice ruleをみたすように速やかに修正がおこなわれる。それが集団運動に見えたり、プロトン移動メカニズムに見えたりする。水と同じトポロジーのネットワークであれば、構成要素が水分子か否かによらず、同じ物理が発現する。水の中で、ネットワークに関係しない現象などありえない。」という風に、ネットワーク主体でトップダウンな考え方を「ネットワーク主体論 Networkism」と呼ぼうと思う。 Topologismというとちょっとニュアンスが違う。やはり、3次元空間に埋めこまれたネットワークであるということから離れて、トポロジーだけで理解することはできない。(→vitrite) Networkism の立場だからといって、結果が変わるわけではない。ただ、局所で起こる素過程を検討する場合にも、常に大域的なネットワークのトポロジーを意識したほうが良い、ということ。例えば、プロトン欠陥が氷のネットワーク上をランダムウォークする場合に、1ステップのプロトン移動がどんなしくみでどれぐらいの時間で起こるか、ということよりも、ランダムウォークがどれぐらいの空間まで拡大するか、最終的にネットワーク全体にどんな変化をもたらすのかという問題のほうがはるかに面白い。 水はネットワークそのものである。酸素がネットワークの節点に、水素は辺に対応し、それ以外の要素を全く持たない。その上、水素結合は二値性で、さらにice ruleが課される。これほどグラフ理論向きな物質もめずらしい。(→水素結合の定義) 水の水素結合ネットワークは、水という実体をもっているので、最近流行りの複雑ネットワークで興味をもたれているスケールフリーネットワークではありません。しかし、複雑ネットワークでの解析手法は水素結合ネットワークにも応用できるものが多数あるので、注目しています。 - matto 2008年02月23日 01時29分17秒
2008-2-23