自分の言葉とは
自分が意味を理解していて読み直したらすんなりと入っている言葉と例で書かれたもの、をイメージします基素.icon
何かからコピペしたり書き写したりしたのではない言葉なら、とりあえず自分の言葉と言える気がしたyosider.icon
です!nishio.icon
地に足ついた自分なりの解釈、普段着の言葉遣い、何も見ないでそらで書き下す文章、受け売りではなく腹落ちしている内容…meganii.icon 外来語(理解できていないことば)を在来語(理解できていることば)に取り込んだ結果、自分の言葉になる?
得体の知らないものは表音文字であるカタカナでしか表現できない(文字通り引用しかできない、別のコンテキストで再利用できない)
書かれている言葉や話されている言葉の意味を解釈して、分解して自分の中に取り込むと、自分の解釈で再表現できる
「言葉」それ自体は、「自分語」のように自らがつくりだした言語ではない限り、どこまでいっても借り物であり、借り物の言葉で紡いだことばは、自分の言葉なんだろうかmeganii.icon
あらゆる言葉は借り物だけど、その言葉言葉の選択に「自分のようなもの」が宿ると思うcFQ2f7LRuLYP.icon
パッチワークキルトのようなもの
一枚一枚は既製品だけどどれをどうつけるかは作者次第
巧拙はある
丸谷才一が文体の話で似た話題出していた(うろ覚え)
部品(言葉)ひとつひとつは借り物であっても、部品(言葉)のチョイス、組み合わせ方に独自性が出てくる
+1sta.icon
組み合わせて新しいものを作るぞ!という気概も必要そう(精神論)cFQ2f7LRuLYP.icon
定家における本歌取りの説明
過去の言葉を用いつつ、かつ新しい心を詠む
分からない久住哲.icon
自分の個人Projectとかに、自分の言葉での書き込みをもっと増やしていきたいと思ったyosider.icon Scrapboxうぬぼれに対する懸念を感じる原因の1つは、ページ数は多くても自分の言葉で書いた部分が少ないと感じているからかもしれない 私は、結構忘れっぽいので、過去の自分は他人のような気がします
自分の言葉が「今」の自分にとってしっくり来る表現であるとすると、時間が経ち、自分の中の経験が変わった後の「未来」の自分が「過去の自分の言葉」をみても、そのときの自分にとっての「自分の言葉」になっていなさそうmeganii.icon
そのときは、自分で自分の引用をしつつ、またそのときの自分に合った表現に書き直すのかな
絶え間ない編纂cFQ2f7LRuLYP.icon
別の言い方
これはある意味アイロニーを続けるようなものかもしれない(?)
今の自分にとって良いものを追求し続けており、切断(中断)がなされない
何も考えずに出てくる文体、語彙で書くこと?cFQ2f7LRuLYP.icon
Scrapbox上だと、我知らず箇条書きに引っ張られた文体になっていそう
なにかの参照した文だけを使わず、自分の経験を交えて出てきた言葉nejimaki.icon
五感とかが入っていると説得力あるかも
論理明解というよりは、遠回りしている方が自分の言葉っぽいかも
本Xが概念Yについて論じているとして、これを自分の言葉で書くとは自分なりにYをつくってみる(すでにXのYがあるけどそれでも自分の手で改めてつくる)イメージ
必ずしもスラスラ出てくるとは限らないし、自分のコアを反映しているとも限らない
明日見たときに「なんだこれ?」となることもある
このsta.iconの捉え方だとyesになる
情報カードやZettelkastenなどで「カードは、自分の言葉で書こう」と言われるが、そのときの「自分の言葉」とはいったい何なんだろうか。何を満たせば「自分の言葉」になるのだろうか。
そもそも「言語」とは、自分で創り出した「オレオレ言語」でないかぎり、自分のものではなく借り物である。借り物である「言語」を用いて書いた「言葉」は、はたして「自分の言葉」なのだろうか。
「カード」をつくるときに私たちがつかう言葉や知識はネットワーク構造であり、その構成要素は「言語」である。「言語」それ自体は借り物であっても、ひとつひとつの部品としての言葉や知識の組み合わさり方によって、そのネットワークには個性・こだわりが生まれる。人はひとりひとり歩んできた道が異なり、それまでに獲得してきた言葉や知識のネットワークーー言葉・知識ネットワークーーは人によって全く異なるものになる。
他者が発する言葉は、自分とは異なる言葉・知識ネットワークに根付いたものである。自分にとって馴染みのない言葉や表現は、自分の言葉・知識ネットワークにとっての外来語ともいえるだろう。言葉・知識ネットワークにとっての外来語は、はじめは見たまま聞いたままでしか使えない。使えたとしてもオウム返しのように、特定のパターンで使うだけである。言葉・知識ネットワークにとっての外来語を、自分に内在する在来語にするには、外来語を噛み砕き、コンパイルし、自分に内在する在来語に取り込む、すなわち、言葉・知識ネットワークを再編する必要がある。 「自分の言葉で書く」とは、見聞きした概念の単なる書き写し(コピペ)ではなく、いま現在の自分の「言葉・知識ネットワーク」を総動員して、いまの自分にとって、自分なりにしっくりと来る表現を目指して言葉を紡ぐことである。
自分の言葉で書こうとした結果、満足いく表現に落とし込めなくてもよい。言葉を紡ぐ過程で、脳が働き、理解が深まり、記憶にも残りやすくなる。また、いまは書けなくても、さまざまな経験を通じて自分の「言語・知識ネットワーク」が再編されたあと、そのとき書き直そうとしたときにしっくりとくる表現になるかもしれない。
自分の言葉で書くときには車輪の再発明/再開発が推奨される。「カード」作成時は、論文などの知的生産の最終成果物の段階ではなく、新規性やオリジナリティを問われているわけではないため、そこに付加価値はなくてもよい。他者にとって単なる焼き直しに見えるかもしれないが、自分にとって車輪の再発明/再開発は言葉・知識ネットワークを再編する機会になる。