何もしない
何もしない
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テック企業が注意関心を貨幣のように取引する現代社会への最大の抵抗、それは「何もしないこと」だ。スタンフォードで教える現代アーティストが、哲学者、芸術家、活動家、そして野鳥たちの世界を自由に渡り歩く、「抵抗する人々」のためのフィールド・ガイド
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目次
はじめに―有用の世界を生きのびる
第1章 「何もない」ということ
第2章 逃げ切り不可能
第3章 拒絶の構造
第4章 注意を向ける練習
第5章 ストレンジャーの生態学
第6章 思考の基盤を修復する
おわりに―マニフェスト・ディスマントリング:明白な解体
本書から、「はじめに」の一部を公開
訳者の竹内要江さんによる訳者あとがき
また、カナダの哲学者、マーク・キングウェルは注意経済を哲学的に考察した著書のなかで、ユーザーがソーシャル・プラットフォームのデザインのせいでそこから離れられなくなる現象を、謎のホテルから出られなくなると暗示されるイーグルスの往年の名曲になぞらえて「ホテル・カリフォルニア」効果と言うのだと紹介している(2)。
脳をハックされた現代人は、どこかにいてもどこにもいない、ある意味で「閉じ込められた」状況に置かれている。2016年にドナルド・トランプが大統領選を制した直後に騒然となったSNS環境に耐え切れなくなった著者が近所のローズガーデンに避難する場面からはじまる本書が伝えるのは、閉じ込められ、ハックされたわれわれの脳(人間性ともいえる)を奪還するための軌跡だ。
まず、本書に頻出する語のひとつに「ケア(care)」がある。文脈に応じて「思いやり」、「配慮」、「気配り」等に訳し分けたが、本書が基盤とする思想のひとつに、アメリカの倫理学者キャロル・ギリガンが提唱した「ケアの倫理」があると見て間違いないだろう。本書第一章でもマザーフッド(母であること)から派生するケアと維持の倫理が取り上げられているが、「ケア」とは介護や子育てなど直接的ケア行為だけでなく、「共感」や「思いやり」、「関係性」まで含んだ幅広い概念なのだと英文学者の小川公代は指摘する(3)。本書を貫くのは、そのような他者に向けた「ケア」のまなざしだ。 コロナの時代ということもあいまって最近とみに注目を集めるようになった「ケアの倫理」だが、そこから見える風景はどんなものだろう? 20世紀初頭、スペイン風邪が猛威をふるった時期に、英国の作家ヴァージニア・ウルフは「病気になるということ(On Being Ill)」というエッセイを書いた(4)。そこで健常者と病人のメタファーとして登場するのが、「直立人(the upright)」と「横臥する者(the recumbent)」だ。「横臥する者」は「直立人」の隊列から脱走して横になり空を見上げ、「薔薇の花」を観察する。この姿勢はまさに、有用性あるいは生産性からの逃避を試みる本書の態度にそのまま重なる。 私たちひとりひとりは分離した存在ではなく、多孔的(porous)なのだという確信を、著者は逃避しながら深める。
自然界に目を向ければ、鳥の世界も虫の世界も、雨を降らせる雲さえも私とつながっているのだ。その気づきによって、「ある」と思い込んでいた境界はあいまいになり、意味を成さなくなる。
アナキズムとは枠を外していく思想である
冒頭で提示される、本書のシンボル的存在である「無用の木」を説いた荘子は現代でいうアナキズム思想の持ち主だったと、政治学者の栗原康は指摘している(5)。
本書に登場するアナキストは荘子だけではないが、「無用の木」が本書でシンボル・ツリーの役割を果たしていることは重要な意味を持つ。アナキズム(無政府主義)とは「枠(制約)を外していく」思想であると私は理解している。注意経済に搾取されている注意を奪還し、自らにはめられた枠を可視化して外していった先に広がる「枠を外した世界」の可能性を、是非本書で実感していただけたらと思う。
荘子、無用の木