緩衝材で覆われた自己と孔だらけの自己
緩衝材で覆われた自己と孔だらけの自己
緩衝材で覆われた自己
孔だらけの自己
インタビュイー 藤島皓介
インタビュアー 川端裕人
第2章 「閉じ込められた自己」
しかしながら、テイラーが 『世俗の時代』で展開する「緩衝材で覆われた自己」とは、それ以前のものとは若干ニュアンスが異なっている。問題は、自己の内と外との関係にある。私の内と外とは、どのように隔てられているのか。そもそも人間に、内と外の境界線など存在するのか。そのこと自体を問うために登場したのが、 この表現である。 「緩衝材で覆われた自己」と対比されるのは、「孔だらけの自己 (porous self)」である。たしかに人間の身体には、いくつもの孔がうがたれている。 口や耳や鼻、あるいは肛門、 さらには皮膚に無数に拡がる汗腺などを通じて、いろいろな物質が人間を出入りする。ある意味で、人間の内と外とは、皮膚という境界線によって限界を画されつつも、このような無数の孔の存在によって、 事実上半透過の状態になっているといえる。
テイラーのいう「孔だらけの自己」とはもちろん、そのような物理的な意味での「孔」ではないだろう。彼のいう「孔」とは、一つのメタファーに過ぎない。 肝心なのは、外部からの影響がただちに自分のなかに浸透してくることである。「孔」があれば、どうしても外から何かが入ってくるし、自分からも抜け出てしまう。その意味で、「孔だらけの自己」とは、外からの影響を受けやすい、ヴァルネラブルな(脆弱で、傷つきやすい)存在なのである。
外からの影響といった場合、 テイラーがとくに注目するのは、いうまでもなく精神的な影響である。 「孔だらけの自己」にとって、自分の外に何かし強力かつ重要な精神的存在があり、自らの精神もまた、その影響を受けやすく感じられる。神や精霊の存在は、そのわかりやすい例であろう。神の「お告げ」はただちに自らの精神に届き、その影響は身体に直接作用する。
『緩衝材で覆われた自己』 (buffered self) に相対するものが『孔だらけの自己』 (porous self)
ウィリアム・ハーディー・マクニール
他者と世界の連続性とは、他者と自己の連続性をも意味する