ダーウィン的進化は生命が個体であることを前提にしている
ダーウィン的進化は生命が個体であることを前提にしている
これまでの議論は、「紐」ができたり、それらが共進化したりという、生命のシステムに必要なことばかりだけれど、何かが足りない。 いったい何だろうか、と考えていて、ふと気づいた。足りないのは「形」だ。
これは生き物である、生命である、という時には、シロナガスクジラみたいに大きなものにせよ、大腸菌のように小さなものにせよ、すべて「形」がある。形がないと境界がなくなって、「これは生命だ」といえなくなるのではないだろうか。 「それって、たしかにその通りで、例えば膜がないと生命じゃないという立場もあります。それは理にかなっていて、つまり自己と他己を分ける境界線が膜なので、それがないと、大きなスライムみたいなかたまりの中でいろんな分子のやりとりをして……エヴァンゲリオンでいうあれですね、人類補完計画の補完後の状態みたいなものです。でも生命は補完前に戻ろうとするという(笑)。つまり個で自立できた系を生命と名付けたにすぎません」 この点は本当に奥深く、自己と他者の区別がつかない状態でも生命のシステムが動いている状態というのは想定できるということだ。でも、そんな中から、くっきりとした「個」が登場するというのはどう考えればいいのだろう。 「その議論はある意味おもしろくて、偶然か必然かという話もあります。かりに必然じゃなくて偶然だったとしても、たまたまちぎれた一つの個体が、周囲の環境に適応した場合、そのまま増えていく可能性があります。適者生存のダーウィン的進化に突入していくと。その前はダーウィン的進化ではなくて、水平伝搬の嵐ですね。自己と他者の区別が曖昧な状況でお互いがお互いに必要なものを作って交換していくという。もちろん僕たち今の生命は、ダーウィン的進化の結果できたものです」 ダーウィン的進化というのは、端的に言えばダーウィンが考えた生存競争による「適者生存」によって起きる進化のことだ。これは、生命が「個体」であることを前提にしている。言われてみればそのとおりだ。 「ダーウィン的進化が起きるための必要条件というのは、遺伝情報物質を持っているということと、それが膜に包まれているということですね。つまり自分と他が分かたれているような状態であること。そうじゃないと、ヨーイドンである環境にさらしたときに、適応しているもの、してないものの差がつかない以上、ダーウィン的進化が起こっていきません。逆にそれが観察できるということは、遺伝情報物質を持っていて、他己と自己が分かれている、ちゃんとセパレートしているような系であるということです。そこにあとはエネルギーを自分自身がつくれるような仕組みもあれば、限りなく今の生命に近いものになってくると思います」