ベスト・オブ・ザ・イヤーの歴史
from ベスト・オブ・ザ・イヤー
ベスト・オブ・ザ・イヤーの歴史
そもそもその始まりは 2014 の年末だった
オレも2014のベストを格好よくまとめたかったけど、まあせいぜい洗濯物畳むか RAC https://twitter.com/taizooo/status/547737531358261248
2014/12/24
RAC とは reblog advent calend*e*r のこと
rac_history.md https://gist.github.com/taizooo/8991d67b9bf003135ce0
それは2014年も残すところあと数日という日のことでした。タイムラインにはロックスター達のベスト・オブ・イヤーの叫びが響き渡りました。 https://adventar.org/calendars/844
2015 は「その先には竜が住んでいる」
先見日記 2002/10 → 2007/4 - copy and destroy
このころ「先見日記」を掘っていた
2015/1→2016/4 にかけてディグしていた
先見日記 Insight Diaries | NTTデータ
2016/11までにディグした中で、とくに良かった引用を100個くらいピックアップした
https://twitter.com/taizooo/status/557464347836833792
2015/01/20
先見日記、無くなったと思ってた。あった
https://twitter.com/taizooo/status/557489536121335808
まあ、掘るんだろうな。見つけたからには
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2016/12/01/000000#先見日記死者と対話する
見つけたからには掘るんだろうな
http://taizooo.tumblr.com/post/109196487880
先見日記2002/10/07スタートということで2001/9/11以降の雰囲気が閉じ込められている。雰囲気って HTML に記録されるもんなのか。それからそれは2008年までにどんな風に変化するのか
http://taizooo.tumblr.com/post/112212607625
2015/02/27
思考がかなり Tumblr や AutoPagerize に依存しているので、世界の果ては2007年の4月あたりだと感じていた。その先には竜が住んでいると思っていた。 先見日記に潜るようになってからその時間軸がずれて、つまりは世界の果てが21世紀の初めあたりになった。相変らずその先には竜が住んでいる。
(この、自分がすでに生きていた時代なのに、なぜかインターネットだと、竜が住んでいると感じてしまうことにはまた別の大きな命題があって、時代への帰属意識みたいな、まあそうなんだけど、
底を突き抜けること
時間を操ること
2016 は 「ポップ」
2016年を探す - copy and destroy
最初「格好良さ」みたいなところに気持ちがあった
「ポップ」とは
ポップ中毒者の精神
「ポップ」に含まれているものって、その時代とともにある、っていう感じかな、と。だから「ポップ中毒者」の場合、共にあるというよりは、もっとこう、時代から箱乗りよろしく上半身を乗り出して、目をカッと見開いて、真っ赤に血走らせて、風をビュンビュン切り裂いて、真正面に対峙してる感じかな、と。でもあくまで「ポップ」なので悲壮感もさらっさらなく、軽々とした雰囲気で
https://twitter.com/taizooo/status/761842646167859200
ユーズドではないフレッシュなカルチャーであると。開かれていない人を開くものなんじゃないか http://amzn.to/2aBgHNF
「毎日をどう生きるのか、ということなのだ」
http://taizooo.tumblr.com/post/154720617290
2016/12/20
ベスト・オブ・ザ・イヤーとか言って今年を振り返るみたいなことやって思うのは、これくらいのフレッシュさを右手に掲げて、毎月、毎週、毎日、立ち向かうべきなんだろうな、みたいなこと。
https://twitter.com/taizooo/status/811855418641158146
2016/12/22
結局のところ一年をどう振り返るのか、ではなくて、毎日をどう生きるのか、っていうところに落ち着いて、まあ、しょうがない。生きよう。
http://taizooo.tumblr.com/post/155188490460
2016/12/31
理解してしまったことは(うすうす気がついてはいたけれど、すっとぼけていたことは)、結局のところ、一年をどう振り返るのか、ではなくて、毎日をどう生きるのか、ということなのだ。という身も蓋もない結論だった。
カッコイイ人は、カッコイイ言葉で一年をまとめてるわけじゃなくて、カッコイイ毎日を自分の言葉でまとめてるだけのことなのだ。
この場合の格好良さっていうのは、自ら立つ、インディペンデントな姿勢のこと。
2017 は 「そういうものだ」
2017年を探す - copy and destroy
「生き延びる」というところに気持ちがあった
生と死
「そういうものだ」
結局のところ、2017年を「生き延びた」われわれは全員が勝者なのだ
よくぞクリスマスまでたどりつきました。 https://twitter.com/taizooo/status/945176908773261313
「皆さん、よくぞ金曜日までたどり着きました」 http://vomilog.tumblr.com/post/168529398819/2017
2016 と 2017 はもうちょっとちゃんと繋がっているんだけど、うまく言葉に出来ない
始まりの話、終わりの話
2018 は 「忘却と再生、循環」
2018年を探す - copy and destroy
生と死
出会いと別れ
そして、その先の忘却と再生、循環
2019 は 「始まりの話」
2019年を探す - copy and destroy
世界中至るところで始まっている話
折り重なるように至るところ、いろいろな出来事が始まっている
全部繋がっているし、循環している
時間が矢のように一直線に進むのではなく、ときに滞留したり止まったり糸のように細くなったり巨大な濁流になったりしながらグルグルと循環しているのだ、という感覚
時間は伸びたり縮んだりする
「ハレルヤ」
2020 は 「続きはまた今度」
2020年を探す - copy and destroy
スカスカ、空白、隙間
羅列
なので、今回はもっと疎結合にふわふわとしたものが書きたかったのだ あとから如何様にでも並べ替えられるようなものを、 /hub/2020年を探さないで#5fd08d74b30c01000034e57d
/cd/Sonatas & Interludes for Prepared Piano | John Cage
/hub/続きはまた今度
2021 は「繰り返し尽くすことができるかもしれない」
2021年を探す - copy and destroy
9.1
「20世紀を語る音楽」の最後にこうある。
「反復的音楽はよりしばしば、この後期資本主義消費社会において、私たちみなが繰り返し (また練り返し、そしてまた繰り返し…) 直面しなくてはならない数多くの反復的関係性を目の当たりにして、感謝と警告と防御 (あるいはただ美的なスリルさえも) を提供してきた。私たちはこの文化のなかで同じことを繰り返してきた。私たちは同じことを繰り返し尽くすことができるかもしれない」。
9.2
私たちは繰り返し、また練り返し、そしてまた繰り返し、繰り返し続けてきたことを、繰り返し尽くすことができるかもしれない。
繰り返し尽くすことができるかもしれない。
2022は「」
?