ベスト・オブ・ザ・イヤーの歴史
ベスト・オブ・ザ・イヤーの歴史
そもそもその始まりは 2014 の年末だった
2014/12/24
RAC とは reblog advent calend*e*r のこと
2015/1→2016/4 にかけてディグしていた
2016/11までにディグした中で、とくに良かった引用を100個くらいピックアップした
2015/01/20
先見日記、無くなったと思ってた。あった
まあ、掘るんだろうな。見つけたからには
先見日記2002/10/07スタートということで2001/9/11以降の雰囲気が閉じ込められている。雰囲気って HTML に記録されるもんなのか。それからそれは2008年までにどんな風に変化するのか
2015/02/27
思考がかなり Tumblr や AutoPagerize に依存しているので、世界の果ては2007年の4月あたりだと感じていた。その先には竜が住んでいると思っていた。 先見日記に潜るようになってからその時間軸がずれて、つまりは世界の果てが21世紀の初めあたりになった。相変らずその先には竜が住んでいる。
(この、自分がすでに生きていた時代なのに、なぜかインターネットだと、竜が住んでいると感じてしまうことにはまた別の大きな命題があって、時代への帰属意識みたいな、まあそうなんだけど、
底を突き抜けること
時間を操ること
最初「格好良さ」みたいなところに気持ちがあった
「ポップ」とは
「ポップ」に含まれているものって、その時代とともにある、っていう感じかな、と。だから「ポップ中毒者」の場合、共にあるというよりは、もっとこう、時代から箱乗りよろしく上半身を乗り出して、目をカッと見開いて、真っ赤に血走らせて、風をビュンビュン切り裂いて、真正面に対峙してる感じかな、と。でもあくまで「ポップ」なので悲壮感もさらっさらなく、軽々とした雰囲気で
「毎日をどう生きるのか、ということなのだ」
2016/12/20
ベスト・オブ・ザ・イヤーとか言って今年を振り返るみたいなことやって思うのは、これくらいのフレッシュさを右手に掲げて、毎月、毎週、毎日、立ち向かうべきなんだろうな、みたいなこと。 2016/12/22
結局のところ一年をどう振り返るのか、ではなくて、毎日をどう生きるのか、っていうところに落ち着いて、まあ、しょうがない。生きよう。
2016/12/31
理解してしまったことは(うすうす気がついてはいたけれど、すっとぼけていたことは)、結局のところ、一年をどう振り返るのか、ではなくて、毎日をどう生きるのか、ということなのだ。という身も蓋もない結論だった。
カッコイイ人は、カッコイイ言葉で一年をまとめてるわけじゃなくて、カッコイイ毎日を自分の言葉でまとめてるだけのことなのだ。
この場合の格好良さっていうのは、自ら立つ、インディペンデントな姿勢のこと。
「生き延びる」というところに気持ちがあった
生と死
結局のところ、2017年を「生き延びた」われわれは全員が勝者なのだ
2016 と 2017 はもうちょっとちゃんと繋がっているんだけど、うまく言葉に出来ない
生と死
出会いと別れ
世界中至るところで始まっている話
折り重なるように至るところ、いろいろな出来事が始まっている
全部繋がっているし、循環している
時間が矢のように一直線に進むのではなく、ときに滞留したり止まったり糸のように細くなったり巨大な濁流になったりしながらグルグルと循環しているのだ、という感覚
時間は伸びたり縮んだりする
「ハレルヤ」
スカスカ、空白、隙間
羅列
2021 は「繰り返し尽くすことができるかもしれない」 「20世紀を語る音楽」の最後にこうある。
「反復的音楽はよりしばしば、この後期資本主義消費社会において、私たちみなが繰り返し (また練り返し、そしてまた繰り返し…) 直面しなくてはならない数多くの反復的関係性を目の当たりにして、感謝と警告と防御 (あるいはただ美的なスリルさえも) を提供してきた。私たちはこの文化のなかで同じことを繰り返してきた。私たちは同じことを繰り返し尽くすことができるかもしれない」。
私たちは繰り返し、また練り返し、そしてまた繰り返し、繰り返し続けてきたことを、繰り返し尽くすことができるかもしれない。
繰り返し尽くすことができるかもしれない。
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