ポップ中毒者の精神
「ポップ」というあり方について2014年末から向き合っていて、その当時はまだそのあり方というか姿勢というか態度と、「ポップ」と呼ばれる言葉を結びつけてはいなかったんだけども。その2014年末の何が始まりだったかといったら、インターネッツのロックスター達のベスト・オブ・ザ・イヤーの叫びだった。そのあと2015年始めから先見日記を掘りだして、2015年夏、先見日記の記事に影響されて川勝正幸サンの「ポップ中毒者の手記」を読み始めた。先見日記の時代にあわせて4冊あるうちの「21世紀のポップ中毒者の手記(2001-2008)」を選んだ。少しずつ読み進めていて、いまは「ポップ中毒者の手記(約10年分)」あたりをうろうろしている。「ポップ」という言葉、ファンクやジャズと同じくらいとらえどころがない言葉なんだけど、なんとなく「ポップ」に含まれているものって、その時代とともにある、っていう感じかな、と。だから「ポップ中毒者」の場合、共にあるというよりは、もっとこう、時代から箱乗りよろしく上半身を乗り出して、目をカッと見開いて、真っ赤に血走らせて、風をビュンビュン切り裂いて、真正面に対峙してる感じかな、と。でもあくまで「ポップ」なので悲壮感もさらっさらなく、軽々とした雰囲気で。なんて、オン・ザ・ロードのディーン・モリアーティの姿を重ねたりした。 「それまでの常識がひっくり返るような新しい眼鏡のことを『ポップ』と定義するなら」
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自分自身はこの「ポップ」を探求する姿勢というところからたぶん一番遠いところにいるような気になっていて。それは AutoPagerize よろしくひたすら潜って盗掘よろしくだれもが振り向かない過去から何かを掘り返してくるのが自分のスタンスだ、と思っていたからなんだけど。で、「ポップ」であること、「ポップ」を探すようなことに対して、ちょっと斜に構えるところがあった。「ケッ」っていう態度だった。その先入観がひっくり返るような新しい眼鏡だった。
2016/12