1970年3月 E.A.T.が大阪万博でペプシ館を手がける。チュードアはパヴィリオン全体を楽器化し、中谷は人工霧でパヴィリオン全体を包むが、ペプシ・コーラ社によって追い出される。
日付:1970年3月15日〜4月25日
小咄:
極東の地に清涼飲料水を売りつけるために大阪万博にパヴィリオンを出展することを決めたペプシ・コーラ社は、そのなかでどのようなコンテンツを上演すべきか決められずにいた。プロジェクトを担当していた同社の副社長がたまたま近所に住んでいたロバート・ブリアーというアーティストに相談をもちかけたことから、E.A.T.がこのペプシ館をプロデュースするという予想外の事態になる。参加アーティストを選ぶことになったビリー・クルーヴァーが、4年前の《Bandoneon !》を思い出しながらサウンド・システムの担当者に任命したチュードアは、パヴィリオン全体を巨大な楽器として構想する。クルーヴァーらとかねてから交流のあった中谷芙二子も参加し、竹中工務店によって設計され、E.A.T.側のアーティストが「醜い」と忌み嫌っていたペプシ館の外景を隠すために、パヴィリオン全体を人工霧で包むことを試みる。それはうまくいくが、ペプシ館が火事になったと勘違いした消防隊員がかけつける事態にもなる。見えない風をみずからの変容を通じて間接的に見せる霧のことを中谷は「ネガティブ彫刻」と呼ぶ。チュードアも、設計した巨大楽器用の「プログラム」を矢継ぎ早に制作しては演奏する。しかし実験的な芸術が、清涼飲料水の売り上げに貢献しないばかりか、予想以上に金がかかることに気づいたペプシ・コーラ社によって、E.A.T.の面々は万博オープンから一ヶ月あまりでパヴィリオンから追い出される。人間がつくった巨大な建造物を楽器化したチュードアが次にとりかかるのは、自然がつくった孤島の楽器化である。 https://scrapbox.io/files/63054e00f2b6bb001d1eb198.png
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