デーヴィッド・チュードア
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生没年:1926 年〜1996年
出生地:
#米国
#ペンシルベニア州
#フィラデルフィア
死没地:
#米国
#ニューヨーク州
#トムキンズコーブ
幼少からピアノを習ったあとオルガンに転向し、10代のころからオルガニストとして活動する。1944年にイルマ・ウォルぺのピアノ演奏を聞いたことでピアニストになることを決意、40年代後半にはニューヨークに移って、現代音楽の作曲家たちと交流するようになる。現代音楽における革新的ピアニストとして知られ、52年にジョン・ケージの《Music of Changes(易の音楽)》や《4’33”(4分33秒)》を初演したあと、クリスチャン・ウォルフ、モートン・フェルドマン、カールハインツ・シュトックハウゼンといった作曲家の初演を多く行なった。チュードアの卓越した技術とパズルに対する偏愛は当時の作曲家たちが、演奏者による解読をそのつど必要とする「図形楽譜」という新しい記譜法を開発したり、作曲された楽譜から演奏が一義的に引き出せない「不確定性」という作品形式を生み出したりするきっかけとなった。50年代後半より、ピアノにマイクや増幅回路を取り付けた「アンプリファイド・ピアノ」を制作・演奏するようになり、ケージとともに「ライヴ・エレクトロニック・ミュージック」という電子音楽の演奏形態を編み出していく。また60年代になると、ホビー・エレクトロニクス雑誌などを頼りに自分で制作した電子楽器や市販の回路をつなぎあわせたサウンド・システムをコンサートのつど制作し、演奏するようになる。「作曲家」と呼ばれることに長らく抵抗していたが、66年のイヴェント「9 Evenings: Theatre and Engineering(九つの夕べ:シアターとエンジニアリング)」において、バンドネオンの演奏を映像や、さまざまな装置、機器をコントロールする信号に変換する《Bandoneon !(バンドネオン階乗)》をはじめて自作として発表する。70年には大阪万博における「ペプシ館」の企画に参加し、パヴィリオン全体を楽器として制作・演奏した。10代のころのオルガン経験に大きく影響された、人間を包む巨大楽器の構想は、そのあと孤島を楽器化しようとする《IEIE》においてさらにスケールを拡張して追求された。80年代には実現に至らない《IEIE》の代わりとして、島で実現するはずだった数々のアイデアを別の仕方で展開するジャッキー・モニエと一連のコラボレーション作品を発表。晩年には、ニューラル・ネットワーク回路を使った特殊シンセサイザーを用いた《Neural Synthesis(ニューラル・シンセシス)》(1993-94年)や、ヴィジュアル・アート作品《Toneburst: Maps and Fragements(トーンバースト:地図と断片)》(ソフィア・オギエルスカとの共作)(1995-96年)などを手がけた。53年に結成されたマース・カニングハム・ダンス・カンパニーに設立当初から参加し、ケージが93年に亡くなったあと、カンパニーの音楽監督を努めた。
#タイプ:関係者/組織
#1926年
#1996年