庭の話
#単語帳
宇野常寛の本。
アーレントはこのキム少年の冒険が読者を惹きつけたのは、彼が「ゲームのためにゲームを愛した」からだと述べる。近代社会において、人間はその人生に意味を求める。しかし、インターネット(とくに Web2.0)の夢が、たとえ発信する手段が与えられても発信するに値する能力をもっている人間は一握りしかいないことを明らかにしてしまったように、人間一人ひとりの生に意味が求められることは、逆に人びとを追い詰める。今日の資本主義下において人間の大半はネジや歯車のような、匿名の部品にすぎないものとして扱われる。にもかかわらずその生に意味を求めてしまうからこそ、近代人は自己が入れ替え可能な存在であることに苦しむ。この皮肉な現実を理解し「醒めた意識」をもつ人間こそが、その生に意味ではなく「情熱的な生の充実感」を求めるようになる。そしてあえて匿名のプレイヤーとしてゲームに参加し、ゲームを攻略した報酬ではなく攻略する快楽そのものを求めるようになるのだ。
ゲームは物語性の逆。ゲーマーと反りが合わないの当たり前すぎた。
違う種類のゲームならいいんだろうな。RPGとか。
接続したことで自分に意味があるということを信じられなくなったから切断が必要という話か?
もはや情報の内容ではなく、タイムラインの潮目だけが読まれている。こうして、人間は他の人間の顔色をうかがうだけしかしなくなり、問題そのもの、事物そのものについて考えることを放棄する。ある問題が生じたとき、その問題を解決する方法や問題設定そのものの妥当性は考えられなくなり、大喜利的にどう回答すると座布団を与えられるかのみを考えるようになる。
大反省
そこでここでは経済=場=プラットフォームから、そこで展開するゲームが与える快楽を相対化する方法を考えたい。それも家族とか、国家とか、そうしたつい最近まで、いや、こうしている今も多くの人びとを呪い、縛りつけているものに回帰することなく、プラットフォームの時代を内破することを考えたい。それが本書の主題だ。
ただ切断するわけではなさそう
二十世紀とは、放送と映像というふたつの技術の発展と組みあわせを用いて他人の物語に感情移入させることで、かつてない大規模な社会の形成に成功した時代だった。この間に人類は紙や画面、とくに後者のなかの他人の物語に感情移入することで、自己と社会との接続を確認していた。
昔の人にVRPTできないのかな、知らないことを前提にするから厳しいか。特定のジャンルにおいてならできるかもしれない。
38億年前の蟹工船もある意味そうだしな。現代を相対化することを目標とした昔VRってあるんか?
インターネットという自律分散的なシステムを、プラットフォームが擬似的に中央集権に変化させたことを、多くの人びとが嘆く。そして、新技術で本来の姿を取り戻すべきだと主張する。 しかし、問題の本質は技術にはない。むしろ、インターネットを擬似的な中央集権に変質させてしまったのは、それを用いる人間の欲望だからだ。プラットフォームのもたらしたボトムアップの中央集権を内破するために必要なのは、自律分散を支援する技術ではなく、自律分散を、多様性を、(問題についてのコミュニケーション=相互評価のゲームではなく)問題そのものにコミットする欲望を喚起することなのだ。
人間の眼は誰かと眼を合わせるためだけのものではない。人間の手は、誰かの手を取るためだけのものではない。その眼は空を見て、星を見て、宇宙を観ることもできるし、その手はスプーンを持ち、ハサミを用い、弓を引くことができる。人間の身体と精神には人間外の事物とのコミュニケーションを経ることではじめて発動する能力があり、芽生える欲望がある。人間は人間外の事物とのコミュニケーションの可能性に開かれた存在だ。しかし、二十一世紀の人類はその可能性を、なかば無自覚に手放そうとしている。
したがって、私たちは(人間間の相互評価のゲームによる承認の交換を相対化するために)人間外の事物とのコミュニケーションを回復しなければならない。
人間ではないものとインタラクションする場所としての庭。
「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない。「家庭」という言葉が示すように、 そこには「庭」があるのだ。家という関係の絶対性の外部がその暮らしの場に設けられていることが、人間には必要なのではないか。
痺れる!
小網代の森
https://www.maholova-minds.com/topics/koajiro/index.html
人工的に維持・編集された自然、流域丸ごとが庭。
「動いている庭」から「多自然ガーデニング」へと続くこれらの作庭の知恵が共有しているのはまず、自然物の多様さに触れることが人間にとって豊かなものをもたらすという確信だ。そして次にそれがどれほど多様な生態系を維持していたとしても、その多様さを人間が享受するためには人間の介入が必要になるという考えだ。人間の生は短く、その人がかかわりうるその場所に多様な生態系を維持するためには、その場所を特定の生物だけが支配する状態――放置された土地は、一定の期間はその状態に必ず陥る――から人為的に解放する必要がある、ということだ。クレマンもマリスも、そして岸も前提として多様で豊かな自然を愛し、敬意を表している。しかしその多様さと豊かさを人類が享受するためには、人間が積極的に自然に介入する必要を認めているのだ。
したがって、私たちの考えるプラットフォームの「次」のものとしての「庭」もこの知恵に学ぶべきだ。Web2.0 の世界を支配するプラットフォーマーとその支持者たちは、その普及期に口を揃えて、発信能力を与えられた人間たちのコミュニケーションは、まるで自然の動植物のように多様な生態系を構築するだろう、と語った。しかしそれは大きな間違いだった。今日のプラットフォーム(と、その影響下にある実空間)は、まるで手入れを怠って長年放置したことによって、笹藪の単層林となり下草もそこに暮らす昆虫も激減した森のようなものだ。
最高すぎる。
そう考えると、自然と触れ合うような、一歩引いた目線で自分のデジタル環境をいじれるようにする必要がやはりある。どうしたいかというゴールを定義することも大事だし、放置したらどうなるかを知ることも大事。
YouTubeのおすすめを育てるのは結構ガーデニングに近い。
放置したらどうなるかを知るのは生態学だな。デジタル生態学!?
実のところこれはそう、珍しい現象ではない。どの分野においても、あるレベルを超えた趣味人は多かれ少なかれ、こうした満たされない思いを常に抱いているはずだ。絶対的な存在に対し、それを渇望し、ただ祈る。やがて湧き上がる渇望によって、ただ祈るだけの時間に耐えられなくなる――この段階に達したとき、人はみずからそれを生み出すために手を動かしはじめるのだ。その世界に存在してすらいない理想の事物にどうしても触れたいというほとんど追い詰めら
れるような気持ちと、 気持ちと、そのまだ見ぬものへの果てしない憧れを同時に胸に秘めながらこう決意す
るのだ。それが世界に存在していないのなら、自分で制作するしかないのだ、と。
YouTubeもこれ?
彼女は最初の段階で井上雄彦が、木暮と三井が性愛で結ばれる物語を描き、 それを与えられれば満足したのだろうか。間違いなく、違う。彼女は木暮と三井の友愛の物語を与えられたからこそ、「そうではない」可能性、つまり彼らが性愛で結ばれる可能性を夢想した
このとき人間は事物に襲われている。そしていやおうなくその心身を変えられている。ある意味においては損なわれ、傷ついている。そしてその回復のために手を動かしはじめる。重要なのはけっしてその回復は実現「しない」ことだ。なぜならばどれだけ二次創作しても、けっして木暮や三井といった固有名を書き換えることはなく、むしろ彼らに与えられた既存の物語をあるレベルでは強化してしまうからだ。そして、同時に彼女のなかに芽生えた観念とそれについての彼女の欲望は、二次創作を生むごとにみずからが描いたものからフィードバックを受け、変化してしまう。もしかしたら木暮は三井と赤木との間で揺れているのではないか、と考えはじめる ………………。つまり、与えられた事物をどのように受け止めても、受け止めた人間はその事物を変えられないことが必要なのだ。ケンカした友人同士が「和解」するようなことが、「回復」があってはならない。非対称な一方向からのコミュニケーションが「浪費」の失敗には、そして「変身」には必要なのだ。
やばいじゃん
「中動態の世界」はすでに回復してしまっている。それも、私たちの言語が記述する世界にではなく、情報技術の構成するインターネットのプラットフォーム上にそれは部分的、かつ歪つに回復してしまっている。たとえばそれは政治的にはナッジとして、経済的にはゲーミフィケーションとして。なぜならばそもそも、現代の情報技術はこの世界を「中動態の世界」としてとらえているのだから。この問題はメディアとプラットフォームの比較で考えればわかりやすい。送受信者が明確に区別される、つまり能動/受動のパースペクティブ上にあるメディアに対し、それが同一視されるプラットフォームはそもそも人間を中動的な存在としてとらえているシステムだ。言い換えれば現代の情報技術は、能動/中動の対比で人間の態をとらえている側面がある。そこに存在するのはただ情報を受信する存在ではなく、情報を受け取ることにより発信を動機づけられる存在だ。 だからこそ、ゲーミフィケーション的なアプローチが台頭することになる。
ブラットフォーム上に自由意志は存在しない。そしてプラットフォームのユーザーたちは中動態の世界を生きている。正確には中動態の世界だからこそ発生する自由を生きている。少なくとも人間に自由意志が厳密に存在できないことを前提に、そこは設計されているのだ。そのためここでは法的な責任は常に曖昧となる。
すごいな。ユーザーの欲望を喚起して能動を促すのはもう中動態になっているけど、それは好ましい結果を招いていない。
「AA12のステップ」のようなアプローチは、むしろ自然状態では責任の回避に人間を導くことになる「中動態の世界」を「逆手に取り」、 加害者の自覚をうながすプラットフォーム外の「ケア」として位置づけられるべきだろう。 プラットフォーム上の因果の可視化はむしろ、人間を責任の自覚から遠ざける。つまり、ある不可避の構造が可視化されたとき、人間は自然状態では「これは自己ではコントロールできないことだった」と考え、自己の責任を認めない。そこで周囲の人間のサポートにより、誰もが同じ構造に置かれているのだから、誰もが被害者であり加害者でもあることを示す。その上で、誰もが責任を自覚しないといけないという論理に導く。このようなステップを踏むことでようやくその人の内面に「責任」を生成させることができるのだ。
責任を外部から押し付けるのではなく、適切なプロセスをもって当事者に生成させる!これは超重要な指摘だ。いかに押し付けずに内側から良い状態に持っていくかを「ケア」と呼んでいるのか。
ゲーミフィケーションは、ユーザーの高レベルの意図と一致していれば非常に素晴らしいものだけど、ユーザーが考えもしなかった欲望を喚起したり、本当はどうでもいいと思っていることに夢中にさせたりすることもある。これが中動態の状態。
前提として誤解されているがそもそも共同体とは圧倒的に強者が得をするシステムだ。比喻的に述べれば「この子が狐憑きだと信じる」こと、つまり同じ物語を共有している集団が共同体
だ。そこには主役がいて、重要な脇役とそうでない脇役がいて、端役がいて、そして悪役(敵) がいる。その存在理由を説明できない、つまり物語をもたない共同体は持続できず、物語はメンバーの役割と立場を決定する。「敵」を設定することがこの役割の分担を明確にして共同体の結東をより強固にする。そして、ここで主役など有利な位置を占めるのは常に強者政治的、経済的な成功者やマジョリティを束ねて、マイノリティを抑圧する煽動者――になる。「贈与」や 「互酬」というマジックワードのもたらす思考停止が前近代を美化することでコストパフォーマンスよく現状批判をする人びとの偽善的なブランディングと結びつき、このような生贄を必要とする古い共同体のメカニズムを延命させることはけっして忘れられてはならないだろう。
刃が鋭い……。
確かに、そういう類の共同体で力を発揮できるのは一部の人に限られるだろうし、そうでない人は別の形の共同体(インターネット)に同じ欲望を満たすための逃げ場として依存している。
dp9も研究室も、事物とコミュニケーションした結果をシェアするための場だからこそ自分が溶け込めたような気がする。
つまり、ひとりあそびのコツは「目的」を持たないことだ。言い換えればその事物をゲームとして「攻略」しないことだ。筋力トレーニングに夢中になる中年や、まだまだタイムが落ちないと誇る高齢のランナーたちの目の輝きが周囲の人びとを疲れさせるのは、彼ら/彼女らが自分を強化するゲームの快楽(達成感)に酔い、身体を動かすことの快楽そのものを見失っているからだ。そしてこのようなゲームの「攻略」を手放したとき、はじめて人間は事物そのものと対峙できる。走ることそのものを目的にしたときに、人間はその行為についてもっとも純粋に触れることができるのだ。(中略)人間を孤独にすること─それがもっとも重要な「庭の条件」なのだ。
救われる思い!自分に似てる人が書いてるな。
「何者かにならなければならない」「何かをできるようにならなければならない」といったオブセッションから解放されることも、同じくらい大事なことなのだ。小杉湯の反時代的な取り組みに私が注目するのは、結果的にかもしれないがそういった「何者かになること」「何かをできるようになること」の重圧から人びとを解放する役目を担っているように思えるからだ。
確かにその通りだけど、何かをできるようになることそれ自体に感じる楽しさはあるんじゃないかな?学びによるメンタルモデルの変化という意味で。それは事物そのものとのインタラクションに近いし、それ以降の人生のものの見方を変える点で「変身」に当てはまるのではないか。
やっぱり問題はそれがゲームであること。
銭湯の話
公共的であるということは、それが「誰であるか」を問わないことだ。男でも女でも、日本人でも外国人でも労働者でも経営者でも、一般人でもインフルエンサーでも関係なく、ただ五百五十円を払い、裸になってしまえば「何者でもない」ただの人間だ。そして人間を何者でもなくしてしまう空間だけが支えられるものが世界には存在していて、それこそを「公共」と呼ぶべきなのだ。
「何者かになる」とは、他者への説明可能性を上げるということ。それは共同体外部に持ち出せる説明かもしれないし、内部でしか伝わらない説明かもしれないけど。一方公共の場では、人間であること以上の説明がいらず、区別されない。
私たちは地域へのコミットメントといったときに「意識の高い」タウンミーティングに参加するとか、子育てや介護にボランタリーに参加するとか、そういうことを考えがちだ。しかしその多くが、実質的にはその場所の共同体の一員として認められるということを報酬に駆動している。
だからそのオルタナティブとして、ごみ捨てなどの「都市の静脈」に着目した田中浩也を称賛している。
→柄谷行人
たとえばこの国において八○年代の消費社会の成立は、はじめて大衆レベルでの「個人」単位での活動を実感させた。生活必需品「ではない」ものを自由に選び、買うこと。このとき人間は紛れもなく「個人」として「自立」していた。しかし前述のように、事物を「買う」ことはインターネットの登場により、自己表現としての求心力を失った。もはや、 金銭で購入できるもの(入れ替え可能なもの)は自己表現にはならない。それは他人の物語でしかなく今日の情報社会では自分の物語を、つまり自分の体験や考えを語ること、それが承認されることに人びとの関心は移行している。
こうして、他人の物語を消費するための場所(商業空間)は自分の物語を語る場所(プラットフォーム)に敗北し、その一部となった。そしてブラットフォームによる相互評価と承認の交換は、人間を即時に共同性に取りこみ、人びとは自立とそれを前提とした交通空間を失ったのだ。
もの消費からコト消費ってそういうことだったの!自分の物語を豊かにするための体験・経験。それをインターネットで継続的にトラックして数値化できるようになったからこそできる行為だ。そこでは人々は承認欲求ゲームに打ち込む。それに参加できない人、参加しても強者になれない人は、自分が入れ替え可能な存在であることに苦しむ。
プラットフォームにログインするということは共同体に参加するということ。日常のコミュニケーションの大半がプラットフォームの上で行われていることは、日常が共同体に侵食され、自立を失っていることに等しい。
→寂しさについて
戦争こそが究極の「庭」に、すべての人間の「真の恋人」になりうるのだ。そして戦争は、これらの「庭」の条件を総合したときに浮上する、人間のあまり自覚されないがもっとも強い欲望に、おそらく承認の獲得に唯一対抗できる根源的な欲望を強く実現する。自己と無関係に世界が変化していくこと、そしてそれを実感できること、つまり世界が変わると信じられること――戦争はこの「庭」の最後の、究極の条件を満たすのだ。
歴史についての視点を得ることは、日常を庭的に生きることにつながるんじゃないかな。今もまた歴史のうねりの中にあると絶えず自覚し続けること。自然科学もそれに近いし。
→功利主義
では、どうするのか。ここで必要とされているのは「である」ことでも「する」ことでもなく、世界が自己の存在と無関係に変化することだ。そのことで、自己のアイデンティティについて問うことを、一時停止させることだ。戦争という「真の恋人」を見つけた彼女は、その間に (野村が囚われていたような) 自己と世界との関与の問題を、アイデンティティについて問うことを一蹴していた。このように「庭」的な場所は、「である」ことでも「する」ことでもなく、この間いを無効化する回路を備えないといけない。(略)おそらくここに、「庭」の満たすべき究極の条件がある。それは「である」ことでも「する」ことでもなく、自己と無関係に世界が変化することだ。
これはとても重要かつ難しい問題だ。「世界」と言っているのは、覗きに行かないと存在しない自分と無関係な環境ではダメで(それを見に行っているというアイデンティティが生まれてしまう。美術館とかを思い浮かべるといい)、自分を否応なく取り巻いているものでないといけないんだと思う。先述されている静脈的な関わり方はアリだし、ありがたみ実感の方向性もいいと思う。
そうした「庭」的な場所をテロリズムのようにこの社会のあちこちにねばり強くつくりつづけ、「庭」 たちのネットワークが都市に維持されたとき、そこに結果として「交通空間」が成立するのだ。
しかしおそらく多くの読者はこう考えるだろう。果たしてこの作庭=テロリズムはほんとうに世界を変えうるのか、と。(略)あっさりと認めてしまおうと思う。社会のあちこちに「庭」的な場所を設けるだけではそれは不可能である。実はそれが本書の結論だ。これまで例示してきた「庭」的な場所たちは、いずれも人間を一時的にだが「何者でもない」存在にすることができる。しかし、「庭」が提供できるのは、世界が燃える姿を見せることではなく、その代替として同じように「である」ことも「する」ことも求められない状態に人間を導くことまでだ。(略)
しかし本書はまだまだ終わらない。この「庭」がより大きな力を発揮するための別の条件がその外部にある。「庭」という環境ではなく、そこを訪れる人間の活動を変えることで、「庭」たち
のネットワークのつくる「交通空間」は「女」の欲望を、満たさないまでもそれに肉得することができる――それが本書の真の結論だからだ。そして、このふたつの条件が揃うことではじめて 「庭」は正しく機能するのだ。
いったいどうなっちゃうの〜!?!?
弱い自立が「する」と「である」の中間に位置すると説いている。
このタンザニア商人たちの世界観は、同じ「自立」的なものでも明らかにシリコンバレー的なアントレプレナーシップとは異なっている。シリコンバレーのアントレプレナー及び、それに憧れるスタートアップに青春を捧げる若者たちがみずからの手がけた仕事を通じて世界を変えることに生きる実感を得ようとするのに対し、タンザニアのインフォーマルマーケットの商人たちは、単に人生を謳歌する(その内実は、それぞれまったく異なっていると思われる)ための手段―― 自由を保証する金銭の獲得としてその事業を営む。そのために、彼らの事業は端的にリスクの分散が求められる。その事業が、仕事がアイデンティティと無縁だからこそ、その内容は究極的には「何でもよく」、それゆえに結果的に複数の事業を並行しておこなう形態が支配的になる。
自立のセーフティネット「ついでの論理」
彼らは商習慣として、ものの「ついで」に知りあった人びとを可能な範囲で援助する。援助された側はその借りを返すこともあれば、返さないこともある。しかし、ネットワーク内の商習慣として、余力のあるメンバーが他のメンバーを可能な範囲で援助するという「習慣」が、セーフティーネットとして機能する。小川はこれを「「ついで」の論理」と名づける。
この「ついで」に利他的な行為を重ねることで成立するネットワークは、メンバーシップの拘東を大きく緩和する。
プラットフォームに依存しない形のセーフティネット
小川はタンザニア人のインフォーマルマーケットが、WhatsApp や Instagram、FacebookなどのSNSのプラットフォームに依存していることに注目する。彼らはこれらの既存のプラットフォームを組みあわせて用い、仮想のプラットフォーム「TRUST」を運営している。(略)ただしこの共同体のメンバーならば「信用」できる、とは彼らは考えない。そうではなく、 ふだんのプラットフォーム上の振る舞い(文章や動画の投稿など)から、この程度の利益のために騙すことはないだろう、という判断材料が文脈の共有によって与えられる。
ハードな所属による承認ではない。プラットフォームを承認のためでなく、共同体の「縛り」を緩和するために使う。これが弱い「評価(=Anywhereな人びと)」のゲームに多くの人を参加させる可能性を開く。
でも実際これにみんなが参加したいと思うのかがやはり課題だ。これで「世界が変化していくのをただ見る」欲求は満たされるのだろうか?
糸井重里批判
たしかに糸井の「語り口」に基準を置くやりかたはトップダウンのイデオロギーの解毒には有効かもしれない。しかしボトムアップの「空気」の解毒にはどうだろうか。「空気」を読んで、 「余計なこと」(たとえば「正しさ」)を口にしないという糸井的な「語り口」優先の態度こそが 「空気」の支配を生んでいるのではないだろうか。人間は誤りうる。だから「正しさ」ではなく「語り口」を優先する。そうすることで人間は与えられたイデオロギーからは自由になるが、自分たちの「空気」に対してはどうか。「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」―これは 「ほぼ日」のキャッチフレーズだ。この「ゴキゲン」と「中くらい」を保つために、共同体の隅で慮げられている人間が「空気」を読まず「正しさ」を真剣に訴えることを、糸井は結果的に否定してしまう。この「語り口」が、戦後日本を支配した「政治的なもの」から距離を置くことが成熟だと考える文化に、そして民主主義に対するニヒリズムに結びついている。
確かに自分もこの空気の中で育ってしまったな。
家族から消費へと移行した吉本の「自立」の戦略は、マルクス主義や、戦後民主主義といった旧時代のイデオロギーを解毒するその一方で、現状肯定を欲望する無自覚なイデオロギーと結びついていった。そしてそのために、今日の情報社会において、とくに持たざる人びとが世界に関与する手触りを確認する手段として色あせてしまっているのだ。
つまり糸井のアプローチは共同性から「自立」することはできてもそれを公共性に接続することができないのだ。したがってここで考えられるべき「自立」のアップデートはけっして「正しさ」からの撤退であってはいけない。つまり共同性は拒否するが、公共性は拒否してはいけない。それは共同体の一員としてではなく、独立した個人として公共性に接続する主体である必要があるのだ。ではそのために「自立」は、どのようにアップデートされなければいけないのか。
孤独な制作がその答え。何かを作っているとき事物自体に向き合うようになるから。そして存在しなかった事物が存在するようになるというだけで、自分が世界に触れている感覚が得られるようになるから。
この感覚は頭では理解できるけど完全に腹落ちはしていない。
戦争のように、自己の存在と無関係に変化する世界を体験する快楽は与えてくれないが、「承認」も「評価」も用いず個人と世界を結びつけてくれる。
したがって本書はこれまで「戦争」ではないかたちで「女」の欲望に応える回路を設けることを、彼女の「平時の恋人」を見つけることを考えてきた。しかし、今のところ可能なのは、彼女の求めるものと共通するものをもつ回路を用いて擬似的にそれを満たすことまでだ。つまりまだ私たちは彼女の「平時の恋人」を見つけていない。したがってその一 一を見つけていない。したがってその「制作」を彼女にふさわしい存在に育て上げる方法が、最後に検討されることになるだろう。
「制作の行為化」をめぐって
たとえば初期のインターネットとそのオープンソースの文化において、ユーザーが共同でソフトウェアやプラットフォームを開発し、改善する過程は、アーレントの「制作」と「行為」の概念を考える上で重要な視点を与えてくれる。この文脈において「制作」は、具体的なソフトウェアやプラットフォームを作り出すプロセスとして理解される一方で、「行為」の側面は、この共同の創造プロセスが生み出す共同体とそこでの、対話の可能性に対応する。
ここで注目するべきは、「永遠のβ版」という概念だ。これは、製品やソフトウェアが絶えず進化しつづけ、けっして「完成」しない状態を指す。このアプローチは、オープンソースに限らず、ソフトウェア開発プロジェクト全般に見られるものだが、この考えは明らかにアーレントが指摘する「制作」が固定された目的に縛られるという問題から脱却している。アーレントによれば、制作活動はあらかじめ定められた目的(完成された製品や作品)に向かって進むものであり、 そのプロセスは目的によって制約される。しかし、「永遠のβ版」的なアプローチでは、製品やプロジェクトに「完成」という終点が存在しないため、開発は開かれたプロセスとなるのだ。
制作を通して他者と関われる。それがある種予測不能な庭となる。オープンソース的な開発で問われるのは制作物の質であり制作者自身ではない。(ここにいけたらいいね……)
そう、このオープンソースの代表する「制作の行為化」を主に享受しているのは新しい階級的に上位にいる人びと、つまり「Anywhereな人びと」に限られている。
実際のところ、門は閉ざされていない。情報技術によってハードルを下げられた「制作」において階級間に壁はない。ただ、「Anywhere な人びと」 と」「Somewhere な人びと」の間の距離が途方もなく広がりすぎていて、底辺に暮らす人びとには見上げた先に何があるのか、想像がつかないだけだ。確かに誰もがラップトップ一台あれば、 そこにアクセスできる。しかし、そのことを Somewhere な人びとは、想像することもできない。だから挑戦することもできないのだ。
問題はふたつある。まずは Anywhere な人びとの生きる世界を投機から、「制作」へと引き戻すことだ。そしてこの「制作」を技術的にだけではなく社会的に民主化して Somewhere な人びとに拡大し、この分断を解消することだ。そして当然のことだが、重要なのは世界のほとんどの人びとがかかわる後者のほうだ。
え、急にめっちゃ助かる話してくれるじゃん
「制作」した事物が永続的に世界を(ほんのわずかでも)変えると信じられることによって、「制作」は人間を支える。 しかし今日においては、その「制作」した事物が市場で売れる(つまり「労働」化する)か、「制作」に従事することが共同体から承認される(つまり「行為」化する)ことに比べて、「制作」そのもの、つまり事物を「つくる」ことそのものの与える世界に関与する手触りは(情報技術の支援が弱いので)相対的に「感じづらい」。
0から1を生むこと、自分がつくらなければ世界に発生しないものを生み出したときの快楽はそのどれとも違う。もっと言ってしまえば、自分がほしいものを他の誰もつくってくれないので自分でつくるしかない、という思いを実現したときの快楽は他のもので代替できない。
当然、それは自分のなかの理想の制作物にはならず、できあがってからここはこうすればよかった、やっぱりこうしておくべきだったと後悔ばかりが湧き上がってくる。その後悔が次の 「制作」に人間を動機づける。この「制作」の快楽は、覚えるハードルが高いが一度覚えるとなかなか手放せない中毒性がある。この中毒をどうもたらすかが最初の問題なのだ。
えっえっ
デジタル民主主義について
これらのクラウドローにおいて、人間は「市民」でも「大衆」でもなく、その中間体、具体的には職業人としてその専門的な知見を活かし政治に関与するのだ。
職業人としてのアイデンティティを保ちながら、社会に素手で触れる感覚を得る。
こうして、労働(Labor)、制作(Work)、行為 (Action)の関係は現代の情報技術を前提にしたものにアップデートされることになる。情報技術により民主化された制作 (Work)の与える世界との接続(の実感)によって、情報技術によりインスタントに摂取されることによって生じる行為(Action)の中毒を抑制する。その制作 (Work)への動機づけは、「弱い自立」によって解放された労働 (Labor) によって与えられる。そして労働 (Labor) に 「弱い自立」をもたらすのは、情報技術でアップデートされ、「市民」でも「大衆」でもなく「人間」そのものを対象にした行為(Action)である。こうして、アーレントが『人間の条件』で示した人間の三大活動の相互関係はアップデートされるのだ。
そしてこの「人間の条件」がアップデートされたとき、プラットフォームの無効化される新しい交通空間=「庭」もまたはじめて機能するはずなのだ。
正直最後の部分はわかったようなわからないようなという感じだな……。
でも総体として本当に良かった。自分が博士課程でやることはこれをベースにしていくことになるだろう。