2025/3/25
効率や生産性は謳い文句として使いやすい
それ自身が客観的な響きを持っている
そもそも嘘ではない(年収が上がるとかではない)
朝作業
燃えるゴミを出した
自分は相手の主張が正論だと感じてしまったら、言葉が出なくなる
それ自身は何かしらの枠組みにおいて正しいけれども、現実や人間の複雑さを無視している
その正しさの枠組みにおいては反論しようがない
それはつまり、対話的なコミュニケーションを拒絶する契機につながる(当人が意識しているかどうかは別にして)
ブラケットに正論と入れて出てきたページを列挙してみた
だいたい似たようなことを書いている
正論を振りかざす人間は、だいたい対象について深く思考したことがない
とあるnoteの記事を読んだ
いかにも生成AIに書いてもらいました、的な記事だった
注意を引かれたのは、ある知識のフレームワークが紹介されていたのだけども、それが誰が提唱されたのかという話がまったく出てこなかった点。
特に聞かない限りは生成AIはそういう情報は添えないことが多い
こういう形で"情報生産"することは、ある知識が「何由来」であるのかをまったく知らないままに生きていくことを意味する
知的生産の技術を語るときに、梅棹忠夫を知らない
懐疑について語るときに、デカルトを知らない
「情報」だけに注目して、その背後にあるものや来歴などがまったく無視される
だからこそ、情報摂取の効率が良いのだとも言える
実用的な基準はさておき、人文的な基準ではとうてい及第点は与えられない
教養な倫理の点でも同様だろう。
実用的な基準ですら怪しい可能性もある
気になる
昨日のノートから切り出したいろんなことを変えるためのノート術のために『仕事は楽しいかね?』を読み返して、そこに書かれていたことが、ロギング仕事術とかなり通底しているし、そしてそれはドラッカーの仕事術とも似ていることを思い出し、自分の仕事のやり方の原点はやはり20代の頭くらいに読んだ本に強く影響されているな、ということを改めて確認した。 多少、刷り込み要素はあるだろうが、それなりに効果があるからこそ続けてきた側面もあるはず。
不安は何によって生まれるのか?
仕事と対置されるべき概念はライフではなく家庭だろう。
そして、家庭とは家の「庭」である。
ある人が「つくる」ことをしているとき、消費と生産は分離されない
行儀の良い消費者や労働者として分断的に教育される我々。
現代の人々が持っている「未来」という感覚
ティム・インゴルドの本はずっと読みたいと思っているが、だからこそ逆にぜんぜん読めていない
ベイトソンの本を読み終えたら手に取ってもいい
空と海の伝説
Minishoot' Adventures
デイリーベースでの「スタートの切り方」について
最終的なやり方ではなく、まったくわかっていない状態から不安交じりにでもスタートを切る方法
ノウハウは、熟練度ごとにステップが設計されるべき
うっかりお酒を飲みすぎる→次の日のスペックが低い→満足する仕事ができない→ストレスが溜まる→うっかりお酒を飲みすぎる、という魔のサイクル
結果的に自分の「生産性」が落ちたとしても、何に(どんなツール、サービスに)お金を支払うのかはきちんと判断していきたい
少しだけ親切に
ゆっくりと判断を
それらができなくても気にしない
一年の紙の手帳は、一年という時間を物象化(物質化)する。
ボールペンのインクが切れたのでリフィルを買っておかないと
ペンの名前がわからんでござる
そもそもメーカーを間違えて覚えていたことに気がついた
https://gyazo.com/7aa97d97e8159153b29db0b3a925d309
誌面サイズか固定されていることのメリット
そして配置の妙
たとえばほぼ日手帳カズンでいろいろ書いてきたことの効能はそこにある
働くことが苦悩に結びつくことがある時代における仕事術、あるいはその在り方については検討しなければならない
経済の上昇局面でそれっぽいことをしていればそれなりの境遇が保持できていた時代の安直なノウハウとは異なる切実さがそこにはある。
→ミニエッセイで書いた
長袖のシャツを来て出かけて、完全に失敗
夕食は三日目のカレー。
20皿分は伊達ではない
Evernoteから離脱する人が大量に出たときに「別にEvernoteでなくてよかった人」というのがそこそこ出てきた。
今も、別にObsidianでなくてよい人がObsidianを使っている、という状況はあるように思う。
@iketanikazuhiro: 瀬戸賢一『時間の言語学』、刺激的だった。時間という言葉を成す中心的な意味を解析し、そこから現代の支配的なメタファーを撃ち、新たな(そして本来的な)提案を導く。 『時間の言語学』が気になった。