2025/3/26
自分がご機嫌でいるためには、対象は仕事だけではダメで、仕事をする自分も対象になる。
もはや人生全部がご機嫌の対象ではないか。
この点が、僕とTak.さんがよく「タスク管理の話を考えていくと、どう生きるのかという人生の話にどうしてもなっていく」と語っているポイント。
「ご機嫌に生きる」という包摂的な方針があり、その中に「ご機嫌に仕事する(あるいは働く)」がある。
で、こうやって連想を広げていくと、(本の章立てとしての)アウトラインがどんどん変化して、収拾がつかなくなってくる。
自分が関心を持つテーマ(サブジェクト)としては、「ご機嫌に生きる」でいい。しかし、もし本として(コンテンツ)としてまとめる場合は、どこかで広がりを切断してまとめていくことが必要となる。
その分節化として、ひとまず「ごきげん仕事術」はよさそう。
脱線かもですが、ロギング仕事術や全てはノートからはじまるを初めて読んだときに、「嬉しい」という感情が登場したことにとても驚いたことを思い出しました。
それまでいわゆる大量生産された自己啓発本を読むなかで、仕事の生産性やストレス軽減については知っていた。
だけど「嬉しい」によって、ノートの取り方や仕事のログをつける方法に対して、自分の感情を下に行動してもいいんだという気づきがあった。
いいかえれば、それまで対仕事についてはノウハウを適用しようとしていたけど、対自分(特に自分の感情)についてはノウハウを適用できると捉えてなかったと思う。
その前提のなかで、ノートやログを取ることで、自分の「嬉しさ」を見出すノウハウ論はとても新鮮だった。
それまでの仕事術や自己啓発本は、自分の問題点を呈示されて、著者の解決法を強いられた感じが少しあった。
倉下さんのノート術や仕事術は、自分のためにアレンジして使ってもいいんだという安心感があったも印象強い。
とても嬉しい。まさに僕が感じている問題点。
自分の問題点を呈示されて、著者の解決法を強いられた感じ
これは上の部分の学生時代の勉強や大学の過ごし方、就活をしても自分だけのなにかを作るというより、周囲と同調して課された勉強や活動をこなすように生きてきた気がすると呼応している。
学生時代などの処世のスタイルが、仕事にも(当然のように)適用される。それはつまり、生き方全般にそういうことが起きている。
「正しい」(世間一般からそのように認識されている)方法があり、実践者はそれを習得することが第一義で、もし合わないならば自分自身を変質させてでもそれに合うようにする、という価値観がずっと育まれている。
それはある種の社会的な達成を得るために効果を発揮する価値観ではあるが、唯一絶対のものでもないし、現代社会で適切に機能している価値観とも言い難いと感じている。
社是と社訓の違い
この「社」を「私/自分」に変えたものがあるとしたら、何が相当するだろうか?
ぜんぜん関係ないが、サイドバーがかっちょいい
https://gyazo.com/a891ca726d410586b671944c2a744a91
僕は「サイドバー使わない民」なので日誌の次の日か前の日かへのリンクが欲しいところ
25日分からついていた
化学や物理学などの科学への信奉を話が出てきたが、今考えてみると、数学は哲学寄りなのでは?
そもそも数学者は哲学者でもあった(学問の分化は後年に進んだ)
「明らか」として差し支えない事柄(公理)を決め、そこから論を展開する。
哲学もそんなかんじでは?それを哲学者がそれぞれ行なっている?
まさに。特にキリスト教の影響が強かった時代はそういうやり方が多かった気がする。
デカルトはかなり疑い深い姿勢で「明らか」として差し支えない事柄は何かを問い続けた。
そうした事柄を見つけられない限り、土台のしっかりした思考を進めることはできないから
しかし、疑おうと思えばさまざまなことが疑えてしまう。つまり「明らか」だとは言えない。
たとえば私は今、机の前に座っていて、目の前に机があることは明らかなようだが、一方で人間には錯覚という現象があるわけで、実際は目の前に机がないのではないかと言うことは可能。つまり明らかな事柄ではない。
感覚というものを人間は頼りにしているが、悪い悪魔がそう感じるように仕向けているかも知れない
デカルトの時代では悪魔が持ち出されているが、現代であれば、私は今超高性能なVR世界の中にいるだけかもしれない、という思考実験と同じだと考えればよい
そんな風になんでも確かだとは言えない、と疑っていった先にデカルトがたどり着いたのが「いや、まてよ。こうして疑っている何かがあることだけは疑えないのではないか」と思い至った。
そこからデカルトは思考を組み上げていったのだけども、その道筋そのものはあまり評価されていない(とにかく神の存在を認めなければならなかったし)
一方で、そのデカルトの姿勢は現代まで引き継がれている。
古代ギリシャのソクラテスもかなり疑う人物だった。
「明らか」として差し支えない事柄、とは何なのかを考える学問と言えるかもしれない
だから必然的に「そもそも」論になる。
書店で見かけたPOPから想像してた内容(というよりも物語のスタイル)がぜんぜん違っていた
もっとハルヒっぽいのをイメージしていた
好みの作品という風ではないが、それでも普通に面白いし、作品の構成自体が興味深かった
言語化は文節化(一つの区切りを生むこと)で、そこを終着点にすることもできるし、そこからの出発点にすることもできる。
あくまで「点」を打つ行為。
→ミニエッセイで書いた
YouTuberとかが、だんだん「物申すキャラ」になっていく
というか、はじめからそういう姿勢の人がいて、そういう人は反骨精神があり、自分なりのコンテンツを作ろうとがんばってこられた
それと同じ精神で、他のさまざまな出来事に発言している、という構図なのだろう。
もちろん、そういう発言をすることで露出が増えることを経験的に学習していく、ということもあるだろうけれども、それだけではないはず。
https://gyazo.com/04b7e53fdc3ab1b45508213999bd32ed
二つをセットにして置いておくと、鼻をかむとき緑茶の薫りに包まれる。
『大人も知らないみのまわりの謎大全』が気になる。
GeminiにR-styleのロゴマークを作ってもらった
https://gyazo.com/4a388e9a4043864af5ddb31598eb5845
実際に使うかどうかは別として、たいへん「それっぽい」。
彼らは「それっぽさ」の極限にいるな。
というよりも、それっぽさだけで出来ている。
うまく原稿が書けないときに、その原稿のことばかりを考えてもなかなかうまく解決しないことが多い。
狭い視野に合わせて文章を書いていくと、統合的なものを提示できない
「わかりやすい」文章の弊害
自分の視点を上げてくれる文章には、かならず「わからないもの」(あるいはきわめてわかりにくいもの)が含まれている。
ネーミングが面白い。
若い頃の「ちゃんとしていないと気持ちが悪い」という観念が、少しずつ「ちゃんとしてなくても問題ないことは多い」「ときにはちゃんとしていない方がうまくいくこともある」と複雑化してきている気がする。
「ちゃんとしなければいけない」という信念が、「ちゃんとしなくていい」という信念に移行したのではない。
革命は起きていない
そうではなく、一つの観念にさまざまな観念が混ざり合って合金になるような変化が起きている。 最近こういう記事は、料理のレシピの一つとして気軽に紹介できている気がする
絶対に正しい方法とかではなく、こういう用途で効果を発揮しますよ的スタンス
甘めなカレーが好きな人のカレーとか、冷蔵庫の残り物でつくるラザニアとか、そういうノリ
少なくとも「究極のカレー」とか「至高のラザニア」といった感じではない
単純な工夫単体ではなく、一つのまとまりあるもの(工夫の組み合わせ)での提供
なぜかはわからないが、数学の先生が(ネット)知人に多い
日本に数学の先生は何人いるか?
人が「つくる」ものには何があるか
残るもの、消えるもの
どちらにも「つくる」というプロセスがある
社会と接続された「つくる」と社会から断絶された「つくる」
具体的に目の前にあるものを作ることと、情報的な作る
情報的な作るにおいても、紙に書く、パソコンに打ち込むというプロセスはある
気になる。タイマーアプリ難民なので。
いつも「どうせ買うくらいなら、自分で一から作るか〜」と思ってやらない
今なら生成AIさんのご助力で、とびきりご機嫌なタイマーアプリが手軽に作れるかもしれない
どのようにすれば、自分に染みついた生き方を"アップデート"できるのか
そもそも、自分に何が染みついているのかを自覚できないことがほとんど
機能不全を起こしていたとしても、うまく原因が見つけられない
生き方は、生きる上でで当然視していること(当たり前のこと)なので、自分がそれを有していることすら通常は気がつかない
まずそれを見つけられないと"アップデート"もできない(実際はそんなに単純な改良ではないが)
そして、見つけられたとしてどのように"アップデート"するのかも教えてもらわない(その共同体では、その生き方をすることが当然であり、またそうでないことは望ましくないとされているから)。解約ページを捜し出すのが難しい問題と似ている。
想定していた動作と違っていると、一瞬ぎょっとする(認知のカーソルがそこに集中する)のでちゃんと把握しておきたい
私たちは社会に生きている。何かしらの形で共同体を形成する。
その中において、相手が相手であると認めること、承認することは重要な要素だ
しかしそれは承認があれば即善というものではない。強度がある。強度が強すぎるとき人は承認に苦しめられる。
私たちは社会の中において、何かしらの役割を持つ。そうした役割において、何かを作り出す。作り出すものの種類は違えど、あるいは一見なにも作り出しているように見えなくても作り出している。
生きるということ、少なくともSF的テクノロジーが爆発的に進んでいない2025年の地球、ないしは日本において生きることは、何かしらの形で社会と関係を結ぶことを意味する。
だとすれば、そうした関係はどのような性質を持ち、どのようなバリエーションがあるのかを知ることが、よく生きる上では不可欠な営みと言えるのではないか。とりあえず、承認と作ることのそれぞれの中身を考えたい。
今日から「Google Versus Goete」の節
コピペして翻訳、というのをやめよう。翻訳ツールに自分でタイプするようにする
そもそも翻訳ツールはほとんど使わないようにしていて、それでもどうしても意味がとりにくい文があったら、そのように使う。
夕食は四日目のカレー。
うまし。
図書館の『自分で考える勇気』を読み終えた。
難しい
えむおーさんの、書いたり、読んだりするけど、貯めていかないアプローチはたいへん勉強になった
ノートを使う人のタイプを3つに分ける考え方があったが、たぶんそれでは足りていない。
『全修。』最終話を観た。