2025/3/27
マイ・エスノグラフィと生活ログと日記のちがいを整理してみる
この整理は必要だ。
ちなみに、マイ・エスノグラフィは、僕がセルフスタディーズと呼んでいるものと同じ領域にありそう。 とりあえず、通常のエスノグラフィは外部から場に参加して、極力内部の視点に近づけようとする。一方で、マイ・エスノグラフィではすでに内部の視点であるわけで、むしろ少し視点を引くことが必要になる。どちらにせよ、実践者+観察者という視線の重ね合わせの状態に持っていくことが必要ということは考えられる。
日記の場合は、(たいていの場合)感情の吐露的なものであり、それをマイ・エスノグラフィ的変換をするならば、「自分が自分にインタビューしてその気持ちを聞き取る」という雰囲気に持っていくことになるだろう。
生活ログも、おそらく形式に違いがありうる。
その辺の差異を押さえておくことは大切だろう。
僕が記録を残すなどでやっていることの多くが「自分を知ること」という点にある。
それは、自分がそうだと思っている自分を確認することではなく、むしろ認識としての「自分」から外れている自分を発見することだと言える。それは人類学や社会学が行ってきた発見(言い換えれば、"私たち"という観念の更新)と近しいところにあるだろう。
意識としての私は、その「私」という文化を知らないので、それを知ろう、という枠組み
見知らぬ私に向かっていく
「自分の仕事」を変えていくために何が必要かと言えば、
自分以外の仕事を知ること
自分の仕事を知ること
の二つで、たいていは1に注目が集まる。それは2のことは自明だと思っているから。でも、そうではないというところから出発する。
また記事に書こう。
自分の目の前の価値観をメタ的に把握すること=自分のエスノグラフィだと気づいた!
こういうのが知的生産(的なもの)の面白さで、一度やみつきになるともう「考えること」から逃れられなくなる
何かを言いたい気持ちも育まれる。
読書猿さんの新刊
Amazonの「リンク作成」で作ったURLは「→Amazon」として特別表示するようにした
ようするに「アフィリエイトですよ」ということ。
ショート化されていない通常のAmazonリンクはそのまま
たとえば、このページのトップに(今のところ)あるMCPについての記述はそのまま全体を切り出してMCPのページにするのは違和感がない。一方で、別のページに移しながらもこのページにも置いておきたいと感じるものがある。
たぶんそれは、「その日に考えたこと」というログ性をキープしておきたいということなのだろう。
一方「MCP」は、ノートを書く気持ちがあって、たまたまそれをどこかの日ごとノートに書いた、という雰囲気。
あと、何かしらの本からの引用文も、運用としてはのちのちその本のページに移動させることをするが(それが処理である)、一方で、そのページにも残しておきたいと感じる。それは「その日に、その文に感銘を受けた」というログ性をキープしておきたいからだろう。
日ごとページと個別ページに同じ情報が残っていても構わないわけだが、日ごとページがあまりにも長すぎると読み返すのに負荷になる、という問題もあって、その辺のバランスをどうするのかはちょっと考える必要がある。
Audibleで『自省録』を聴きはじめた
自省、内省と「考える」こと
心の落ち着き
ストア哲学と、ドラッカーの思想
「考えること」の深くて静かな喜び
自分をうまく用いる
セルフマネジメントの真髄はこの精神にある
自分自身に語りかけるように書かれている
「否、神々に誓って否」
哲学と人生哲学の違いとは何か?
「退屈しないで生きる」と「ご機嫌に生きる」の関係は?
退屈しないで生きるというか、退屈しないように生きる
それは退屈メーターが0な生を意味しているのではない
「退屈しないように」生きているというベクトルを示している
結局それもご機嫌に生きるための一つの方策なのかもしれない
エッジケースに関心を向けることで見えてくるもの
人は場によって振る舞いを変える
人について注意を向けることもできるが、場について(あるいは場+人の組み合わせについて)注意を向けることもできる
同じように、物について注意を向けることもできるが、関係について(あるいは物+関係の組み合わせについて)注意を向けることもできる
何かしらの物があるとして、それ自身が良い悪いと考えることもできるし、そうしたものを強く求めることの良し悪しを考えることもできる
ひさびさにドトール
https://gyazo.com/535cd180ade829b20fcb599c4f109900
「ごきげん」と「ご機嫌」はどちらがより「っぽい」だろうか。
つまり、よりその語感を表現しているだろうか。
そもそも機嫌とは何か
1 表情や態度にあらわれる気分のよしあし。快・不快などの感情。気分。「—がよい」「—を損ねる」
2 人の意向や思わく。また、安否やようす。「—をうかがう」
3 そしりきらうこと。嫌悪すること。
「時人の—をかへりみず、誓願の一志不退なれば」〈正法眼蔵・行持〉
4 時機。しおどき。
「病をうけ、子産み、死ぬることのみ—を計らず」〈徒然・一五五〉
[形動][文][ナリ](多く「御機嫌」の形で)気分がよいさま。愉快なさま。「だいぶお酒が入ってご—なようす」→御機嫌 (ごきげん)
補説 もと「譏嫌」と書き、そしりきらうの意。仏教で、他人の「譏嫌」を受けないようにする戒律「息世譏嫌戒」から出た語。のちに「機」が、気持ちに通じる意を生じてから用いられるようになった。
「ご機嫌ななめ」「ご機嫌うかがい」「上機嫌」などと、毎日のように私たちが愉快か不愉快かなどの気持ちや気分を表すときに使うこの「機嫌」と言う言葉は、仏教の戒律が語源です。
もとは「譏嫌」と書き、譏(そし)り・嫌(きら)うという意味で、他人の「譏嫌」を受けないようにする戒律からきています。
『大般涅槃経』聖行品第七之一に「息世譏嫌戒(世の譏嫌を息(や)める戒)」という戒律があり、「罪にならない事はもちろん、世間の人たちから譏り嫌われない行動をとる」ために決められた戒律の一つで、「人が不愉快と思うような言動は慎みなさい」という意味です。
やがて、「機」が「機転」や「機知」などの語に象徴されるように、細かい心の動きを表す意味を持つことから「機嫌」という表現が作られ、そこから「上機嫌」つまり「愉快なこと・気分・気持ち」を表す言葉が派生してきました。
英語で
たまたま目に入った
そもそもコンピュータ以前に文章を書く訓練を積んできた人は多かれ少なかれ「宙で書く」ことができたはずです。切り貼りしなければ書けないような人は紙の時代には長い文章など書けなかったのです。むしろ「こざね法」は「宙で書く」ことを補助するテクニックだったと言えるかもしれません。
自分のこととして一度考えてみる。
僕もいわゆるこざね法的なことをやっているが「宙で書く」ことを補助していると言えそうな気がする。
なぜなら、結局ストーリーは頭の中にあるからだ。それを可視化してちょっとでも楽にやるために使っているのであって、本丸は「宙」にあると言えそう。
たぶんそれは、アウトライナーで本文と共に構成を考えるという「編集」とは少し異なるのだろう。
神という絶対者が、人を位置づけることを可能にしている→自省録 (★)
神は人間が絶対に支配できない存在
日本におけるやおよろずの神=自然もまた同様
『庭の話』を敷延すれば、テクノロジーがもたらす万能感が人の生活感覚を狂わせている問題にどう対処するのか、という話になる。
生産性(効率性)向上も、あたかも一般的(普遍的)な観点の印象を受けるが、同じくナレッジマネジメントという言葉も、誰にでも適用できる何か、という印象を受ける。
当たり前だが、企業によって「マネジメント」の運用は異なる。
「なんのために」という部分すら違ってくる。
そういう差異を一旦忘れさせる印象が上のような言葉にはある。
GPTの画像生成能力がすごいという話をよく見かける
まったく新しい画像の生成ではなく、「それっぽい」ものが正確に作れるということで評価されている
何かを「すごい」と評価するためには、それがすごいと「分かる」必要があるわけだが、自分が知っているものに近いものが生成されていたら、すごいと言いやすい。
「ログ」であるならば、日付の情報と強く結びついて欲しい
一方で、(操作対象としての)データであればそこまでその欲求は高くない
日ごとページを読み返したとき、何が残っていたら嬉しくて、何が残っていなくても構わないのか(あるいは邪魔なのか)
企画案についていろいろ考えたら、その「いろいろ」を整理すること
具体的にはアウトライナーで整える
単にコピペして終了というのではなく「アウトライン」を作る
目次を作るということではなく(作ってもいいし、作る必要もあるが)、企画について考えたことを一つの構造のもとで整えることをする、ということ。
心技体というような指針は昔はよく見かけた
三つの領域に目を配れ、ということ。
これは「さまざまなパラメータを上げていけ」という育成方針とは違うだろう
場合によっては、反発し合うかもしれない異なる領域に注意を向けよ、ということだと理解している。
謙遜は謙虚さによる場合もあるし、保身による場合もある
スーパーで半額になっていた牛スジを買ってきた
明日か明後日に何かを仕込もう
循環しているなら、有限であっても、移動は無限に行える。
「ブログで儲ける」と言っていた人は今は何を言っているんだろうな。
いちいち調べないけど