なぜ僕たちは生きる上での方法をこんなに持っていないのだろうか?
なぜ僕たちは生きる上での方法をこんなに持っていないのだろうか?
スレッド
学校で教えてもらう方法は何であり、教えてもらわない方法とは何なのか?
できないをできるにどう変えるか?
たとえばテストとか小テストを受けて、間違った問題があったとする
正答を見れば、「答え」はわかる。しかし、それでわかるようになったかと言えば怪しい。
暗記問題であれば、何度もそれを反復練習することでひとまず頭に叩き込むことはできる。穴抜けが同じ場所であれば、次回はその問題を正解することはできるだろう。
また、数学の問題でケアレスミスで間違えたならば、書き留めた計算式を確認することで、次回以降の改善は望める。
しかし、数学の問題で「さっぱり」だったらどうか。
正解を見ても、その「さっぱり」は変わらない。
わからないから、反復練習もしようもない。
たぶん教科書や参考書をもう一度読んでもあいかわらず「さっぱり」だろう。
むしろ読んでも「さっぱり」だったから、その状況なのである。
テストで問題を間違える、あるいはできないという結果を受けたとして、どうすればそれが「できる」に変換できるのか。たぶん、その方策を持っている人と、そうでない人の差は時間と共に相当大きくなっているくと予想する。
「さっぱり」な状況とは、何がわからないのかもわからない状況。糸口や手がかりというものが存在していない。多くの場合、それは「ひとり」で解決するのは難しい(そのためのスキルが別途必要)。
で、これは数学の問題に限らない。
「できない」を「できる」に変える方策があまりにも不足している
これは、均一に与えられる情報や教育がまずあって、それでも「できない」状態にいる人が、「できる」になっていく、という状況を指している。
「できない」状態にあって、教えられたらすぐに「できる」になる人は、それ以上のケアは不要だろう。
いままで日記が1週間と続かなかったタイプなので、日々の内容に程度の差はあれど、100日間継続できたことと、それを記録として残せたことに達成感があります。
おめでとさん。立派な偉業。
始めたときはまさか思考ログで100日も続くとは全く思いもしませんでした。
思いもしなかったことが、結果として現れるということ。新しい人生(自分)の側面を知るということ。
ある言葉遣いでは、変化や成長だと表現される。しかしそれは同時に、発見でもある。
自信も仕組みによって築くことができるとしたら、不安性の自分にとってはとてもありがたい話です。
自信も難しい概念(少なくとも、僕たちがよくわかっていない概念)
一つ言えるのは、「「きょうは疲れて公開Cosenseの思考ログを書く気分にならなかった」と記述することも立派な日記である」と思えることは、実はある種の自信の表出である、ということ。
自信は「自信」というオブジェクトがあり、それを所有すれば行為全般にわたって自信満々に振る舞える(あるいは不安なく振る舞える)ものでは、おそらくない。
自信と不安の関係を論考しても面白い
あることについて、「まあ、これでいい」と思える小さな信念の総合を名指すとき、それが自信と呼ばれるのではないか。
行為・挑戦・結果・確認、というプロセスを通すことで、少しずつ「まあ、これでいい」と思えるようなことが増えていく。それによって自信が育まれる、あるいは自信が鍛えられる、みたいなところがありそう。
例えば客先へ提示する資料の中身に関しては何もアドバイスできないのに、やたらと細かい句読点や文字のポイントの体裁にこだわって修正をさせる上司のような存在です。
なるほど。
より大きな倉下の問いとして「なぜ日本ではマネジメントが存在しないのか」にも接続するトピック。
"私たちの日常には、ものごとを成し遂げる経験を積み重ね、順序立てて自信を築いていく仕組みがない"
ここ最近の検討に関連していると思う。
個人の生活のための仕組みがない。楽しめるようになったり、自信を築いていくための仕組みがない。
タスク管理を筆頭とするセルフマネジメントの情報が必要とされるともそのため。
専門職セクター、民俗セクター、民間セクター
個人がどう生きるかは、この社会にとっては基本的にどうでもいい(最低限の生命活動、文化的な生活の"維持"には関心を持っている(ことになっている))
生き方の自動車の教習所のようなものはない
本来それは義務教育がなすもの、と言えるかどうか。
何かを学ぶための方法を学ばない。何かを(自分で)構築するための方法を学ばない。
どこかに正しい「答え」があって、いかにそれを獲得するのか、という単一の方法(非-方法)ばかりが習得されていく。 これは楽しいことなんです。と世界は語りかけてはこない。
であれば、こちらから耳を傾ける必要がある。なんなら質問しなければならない。少なくとも目を(心を)開いておく必要がある。
趣味としての楽しみとブルシットジョブ
自分のやり方を自分で決められるのはよいが、ゲートキーパーがなにもないと、そこにブルシットジョブ的なものが紛れ込んでしまう可能性はいつでもある
個々人が好きなことをしていれば、自動的に神の見えざる手で全体がうまくいく、とはならないように、自分が好きなことをしていれば、自動的に自分全体がうまくいく、ともならない。
「無駄なこと」で趣味的なものを剥奪するのはもったいないが、だからといって何をやっても無駄なことはないと考えると、「管理のための管理」のような作業が増えてくる。
「無駄かどうか」という粗い判断ではなく、もう少し踏み込んだ判断を持って、趣味的なものは楽しみつつ、ブルシットな「自己管理」は撤去できるようにしておきたい
パフォーマンス重視(というよりもパフォーマンスのみが評価の対象になる)ことの何が問題となるか、という論点が抽出できそう。
で、それはまず以下だろう。
結局のところ自分自身がいちばんつまらないように仕事をする羽目になるでしょう。
仕事がつまらなくなる→ブルシットジョブ化
というか内実が問われず、パフォーマンスだけが注目されて成立する職場はブルシットジョブの可能性が高い。
だいたいの職場はパフォーマンス「だけ」ということはなく、内実も一緒に見られているのだと思う(推測)。で、その二つを器用なバランスでこなせる人が(日本の職場で)「できる人」と呼ばれるのではないか(仮説)
で、おおもとの話は、なぜある種の物事の進め方が実践されないのかという疑問から出発したわけだが、そうした場(学校・職場)に適応すればそうなる、という仮説は出てくる。パフォーマンスを見せることに習熟していく、ということ。
私たちは「ある種の物事の進め方が実践」されない環境に生きている
その結果、ある種の物事がつまらなくなる(ブルシットライフ)
つまり、私たちは物事がつまらなくなる環境に生きていると言える。
楽しむことは、この社会の基本設計に入っていない
楽しむことはオプションであり、自らで開発・開拓していく必要がある
ハッカーのマインドセット
ハッカーであることはとてもおもしろいのですが、そのためには相当な努力が必要です。その努力をするには意欲が必要です。優秀な陸上選手は、自分の肉体的な限界を越えて体を機能させるという肉体的な喜びが意欲の源です。同様に、ハッカーになるためには自分の技術をみがき、知性を働かす訓練して、問題を解決することにゾクゾクするような喜びを感じるようでなければいけません。
要因のひとつとして、結果を素直に受け入れて合理的に認知や行動を少しずつ改善していくことは、時間もかかるし周囲に対してわかりにくいからだと思います。
まず、「実際にきちんと取り組むひとはなかなかいない」という問いには答えの構成の仕方が少なくとも二つある。
それを行う能力はあるが、やろうとする動機づけやリソースを持たないから
そもそもそれを行う能力(スキル)を持っていないから
引用は前者の構成。
で、「周囲に対してわかりにくい」というのは重要な指摘。
つまり、アピール(パフォーマンス)が重要ということ。姿勢が評価される社会。
パフォーマンスは、パソコンのスペックやコスパという言い方は実質の動作をさすが、パフォーマティブという文脈だと見せかけの振るまいということになる。後者のパフォーマンスが重視される。
そういう社会的環境における最適な行動、というのはもちろんありえる。
もう一つ、「もそもそれを行う能力(スキル)を持っていないから」という点もありうる。
その能力が開発されていない。
もう少し言うと、人間の脳のバイアス的に難しいことを訓練してきていない
一見するとこの実践は社会人のおとななら誰でもできそうな、ベーシックな考え方や取り組みにみえますが、実際にきちんと取り組むひとはなかなかいないです。
なぜだろうか(問題提起)