ホミ・K・バーバ
−時間、ナラティヴ、そして近代ネイションの余白
ネイションとは
ネイションという生の形式は「共同体」よりも複雑で、「社会」よりも象徴(symbol)に満ちている。たんに「国(country)」とは呼び表すことのできない含意に満ちたものである一方で、「祖国(patrie)」と言うよりは愛国的でなく、国家理性よりも修辞的で、イデオロギーよりも神話的である。ヘゲモニーが確立された状態のように均質化されておらず、市民のように中央集権化されてもない。しかし、「主体」とよぶには集団的であり、形式上の礼節というには神的な性質を強くおびたものである。そして、ネイションは、社会的対立をめぐる階梯的で二項対立的な構造のもとに表象されるのではなく、文化的差異の分節化とアイデンティティ形成の過程をとおして、その異種混淆性(hybridity)を示しあらわすことになる。 陶酔と交渉
まず本書では陶酔と交渉を下記のように区別する。
陶酔概念
一見したところ、、、、、、、陶酔ほど、他者との交渉を必要としないものは存在しないように思われる。だれにも気づかれず密やかな一回性の出来事として起こる陶酔の瞬間は、聖なるものや変愛にたいする長きにわたる献身的な労苦を、突如として自己媒介の放棄の状態へと転じさせる。陶酔は超越性を帯びたものであるが、同時に決して意識化されることのない閾下で蠢くものでもある。意識の閾下で、あるいは皮膚の一枚下で陶酔感が沸きたつとき、肉体はみずからの重みの桎梏から解き放たれ、~このような恍惚状態のもとでは、自分自身との関係性もまた、それが神や恋人など他者との関わりのなかで現れるものである以上、旧来の自己理解から逸脱してゆくことになる。ジャック・ラカンは聖テレジアや他の聖者たちについて触れるなかで、「神秘主義者の本質的な証言とは、まさに、彼らは〔享楽を〕感じているのだが、それについては何も知らない、ということである」と記している。~陶酔が、時間の流れや人間の認識のなかに隙間を生じさせるものだとすれば、恍惚となる「主体」が存在すると見做すことさえ疑わしくなるのではなかろうか。 交渉概念
一見したところ、、、、、、、他者と交渉するという行為ほど、陶酔から無縁なものは存在しないように思われる。交渉なるものは、交易や交通、表現や交換、あるいは異議申し立てという関係のかたちをとって現れ、日々の生活世界のなかで対等に交渉できる相手をさがし求める行為である。関係を結ぶ、ある いは「取引を済ませる」という点に関していえば、開示の言説であること、それが交渉という行為においてもっとも重要な事柄である。 そして陶酔との差異を下記のように区別する。
アウラとアゴラ
では陶酔感のもつ「アウラ」から、交渉のもつ「アゴラ」すなわち商品を売り買いする市場的な性質へと移行することはできるのであろうか。他者にむかって開かれた陶酔、あるいはそれとの交渉がわたしたちに考察をうながすことは、入り組んだ問題である。その名前のもった思慮深い野望あるいは目的をもった曖昧さとは、芸術こそがアウラとアゴラを橋渡しするものであろうことを示唆することにな る。ことに、交渉と陶酔は溝を穿たれた異なる世界などではなく、その両者が言説の領域における限界や他者性として直面するものであると、わたしたちが主張するのであるならば。ではいかにして、 陶酔をして、この沈黙した崇高な言葉をして語らしめ、その担い手を開示させることができるのであろうか。 それは、結局のところ、交渉のになうべき役目のはずであろう。おなじように、交渉のもつ 「ざわめき」のやりとりのなかで、自己や主体のもつ根源的な不確かさ、その非個性的な要因をどの ように白日のもとに曝すことができるのであろうか。それとも、人間の不協和音がやむとき、より深 い神秘が「人間」の開示行為のなかで口を広げることになるのであろうか。 このように「交渉」と「陶酔」をたがいの立場から意味づけ直し、両者をたがいの鬼子として位置 づけることは、アウラとアゴラを分節化する過程において、すなわち芸術を語るさいにそのアドレスがだれに対するものなのかという問題を喚起することになる。それは、観客や読者、証人たちがいる 現実の場所へと、崇高なるものを繋ぎとめることなのである。語りに対する私の関心というのは、出来事の流れ、話の筋、比喩表現、あるいはテクストの空間的構築のあり方など、そのような形式的側面を越えたところにある。すなわち、語りを自己開示の言説として、さまざまな主体を産出する行為として、そして聴衆の場所を定める行為として考察していきたいのだ。 芸術のもつ固有の力とは、それを語りのアドレスの一形式としてとらえるならば、崇高なる静寂さと日々の喧騒を「媒介する」自身の働きによって現出するものなのである。 ~そのいずれの場合にも、芸術家も鑑賞者もともに受動的な立場にさら されるわけだが、だからといってそのような両者の立場を、芸術作品そのもの、あるいは作品と日常 の行き交いがおびる二律背反的な両義性と混同してはならない。なぜなら芸術とは、作品として具体化する契機をとおして、アウラとアゴラがほんの一瞬交差する地平を開きしめしたり、秘められた人類の高次の性質に言葉を与える能力なのであるから。そして、精巧な自己表現や彼岸的世界の霊告、 あるいは多様なかたちのヴィジョン、変幻自在な言葉づかいをとおして、はかない虚構の世界を現出させる力が芸術なのである。むろん、日常生活の地道な知恵によって、芸術のアウラが減ぜられてし まうのだと言いたいわけではない。日常生活とはそれほど単純なものでも明快なものでもない。脱自的な陶酔状態と日々の生活のはざまに露出するものは、アウラでもアゴラでもなく、そのいずれにも帰属せず、その間で揺れる~この神秘的状態と日常性のはざまにこそ、「人間の居場所」はある。 https://scrapbox.io/files/652bcd46afcb4f001b309933.png
ナラティブの価値
他人に向かって話しかけたり耳を傾ける解釈共同体が形成可能になるのは、その構成員たちがみずからの判断にもとづく行動や理解にのっとって、自分の存在やナラティヴの権利を確保できたときだけだからである。
そしてそのナラティブの非言語領野の価値を示す。
そしてナラティブが認められない社会の危険性を下記のように述べる
そして本論考を下記のように締める。
わたしたちの住むこの世界は過去から伝えられた遺産であると同時に、未来に開かれた文化・倫理的な地平をかたちづくるものである。ナラティヴの権利を広めていくことで、最善の道をとおって、未来に開かれた地平へとたどり着くことが可能となるのだ。