ヴィム・ヴェンダース
「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」として、小津安二郎、トリュフォー、タルコフスキーへと向けられたクレジットで締め括られるが、ヴェンダースは2007年のインタビューで今ならロベール・ブレッソンとサタジット・レイを必ず加えると述べている。
1987『ベルリン、天使の詩』
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子どもが子どもだった頃、両腕をぶらぶらさせながら小川が川に、川が河に、水たまりが海になればいい、と思ってた。
ペーター・ハントケより
ダミエルが願う有限の生を歩む実存のリアリティ
永劫の時に漂うよりも自分の重さを感じたい。僕を大地に縛りつける重さを。歩くごと、風が吹きつけるごとに〈今だ〉と。〈今だ、今だ〉と言いたくなる。〈永遠の昔から〉とか〈永久に〉ではなく。(...)長い一日の後、家に帰り、フィリップ・マーローの様に猫に餌をやる。体温を持ち、新聞で手が汚れる。(...)うなじに見とれ、耳に触れる。真っ赤な嘘をつく!歩くと骨の動くのを感じる。全知ではないから予感を味わえる。(...)きっと気持ちいい。靴を脱ぎ、足の指を伸ばす。裸足の感触を味わう。
老人ホメロスの嘆き
世界は黄昏れていくようだが、私は語り続ける。詩に支えられ、物語は現在の世の混沌に足をとられず未来に向かう。幾世紀をも往来するかつての大いなる物語は、もう終わった。今は、一日一日を思うのみ。勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和なもののみが主人公の物語。乾燥玉ねぎでもいいし、沼地の渡り木でもいい。誰ひとり、平和の叙事詩を、まだうまく物語れないでいる。なぜ、平和だと誰も昂揚することがなく、物語は生まれにくいというのか。
ショーペンハウアーを想起させる。彼も同じく「いかなる叙事詩も劇文学も、いつも必ず、幸福を得ようとして格闘し、努力し、戦闘するさまを描くだけで、永続的にして円満なる幸福それ自体を描くものではけっしてあり得ない。これらの文学は主人公にいくたの難関や危険をくぐり抜けさせて目標にまでつれていくが、彼らが目標に達するやいなや、急いで幕を下ろしてしまう」と平和の叙事詩の不可能性を嘆く。ショーペンハウアーはその光明を田園詩に求めるが、それはいつも失敗に終わる。
ひとりでも人といても私は寂しくなかった。寂しさを感じたかった。寂しさって、自分をまるごと感じる事だから。
キーファーのドキュメンタリー
2023『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』
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