キーファー
ヨーゼフ・ボイスに師事
ヴィム・ヴェンダース作
2023『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』
ナチズムについて
これはハイデガーの本だ。そしてこれはハイデガーの脳。ホルンバッハの倉庫に保管してた本で、地面に生えているのは毒キノコだ。この毒キノコが脳内で、がんを発症させる。ここですでに暗くなっている。そしてここではがんが広がっており、すでに脳の半分が侵されている。とうとうがんが覆い尽くした。
腫瘍がひろがったその本は黒一色へと変貌を遂げる(以下《ハイデガーの脳》)
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ハイデガーとは会う可能性もあった。彼は私の大学在学中に教鞭を執っていたからだ。ツェランは彼に会っている。六十年代半ばに。ハイデガーの山小屋を訪れたのだ。ツェランは彼に何を期待したのだろう?ナチの過去を説明してくれると?ゲストブックにツェランは書いた。「井戸についている星の飾りを見ながら、彼の言葉を期待する“1967年7月25日”。でもそんな言葉は出ず、偉大な哲学者は口を閉ざした。自らの過ちにも沈黙。当時社会全体が沈黙した。想像を絶する事柄は理解不能だったのだ。あの場にいながら過去に口を閉ざす人々の中で私も暮らした」。
キーファー「この歴史劇を書いたグラッペは国粋主義者ではない」。インタビュアー「でもナチスが好んだ題材では?」キーファー「彼らが悪用した。でも私は終戦の1945年生まれだ。このテーマも扱える。ナチスによる悪用とは無関係だ」キーファー「私は詩人や芸術家の悪用を問題視した。たとえばヘルダーリン。祖国の詩を多く書いているが、祖国はギリシャだ。ナチスは愛国に利用した。
インタビュアー「ネオ・ファシストと呼ばれたら?」キーファー「喜べないよ。私だって傷つく。当然だ。だからといって私は反ファシストだと言うつもりもない。自分を反ファシストと呼ぶことはつまり...」インタビュアー「侮辱だと?」キーファー「反ファシストへの侮辱になる」
インタビュアー「約20年前、あなたの芸術表現《占領》に、私は不快感を覚えました。あのナチス的敬礼は挑発だったのですか?」キーファー「いえ、あれは挑発ではありませんし、その意図もありません。必要だと思ったから行動に移しました。意味のある行為です。あの1968年〜69年当時は、第二次大戦の反省など皆無でした。ファシズムや第三帝国も同様です。学校でも3週間。それを勉強して終わり。だから過去を思い出し、議論することがあの当時は絶対に必要でした。私は皆の顔の前に鏡を突きつけたんです」
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この人ネオナチか?と人々に言われてもたぶん私は、何も言わないだろう。自分があの時代にいたらどうしたかわからないからだ。もし1930年代にいたらどんな人間だっただろうか。分かるはずもないし、ほとんどの知識人もこれを問わない。
神話について
芸術と神話では認識の形が異なる。神話は疑問に答える。我々はどこから来て、どこへ行くのか。我々は何者か。塵にすぎないお前は塵に返る。あなたの都市の上に草は生える。最大の神話は人間自身だ。
リリトに長く取り組んできた。ユダヤの神話によるとアダムの最初の妻。アダムと同様大地の塵で造られた。自分は対等であると考え、夫に服従されられるのが理解できなかった。二人の夫婦ゲンカも神話となった。彼女は悪者とされ、エデンの園から追われた。復讐の悪霊となり、子を産む女を脅す。悪魔の子を作るため、男から精液を奪うという。リリトをおとしめるために男が作った怪談だ。翼を持つ、戦争と破壊の悪魔とされる一方、聖なるものが消えたのちの守護女神だとも言われる。リリトの住みかは廃墟だ。戦後の荒廃した建物は彼女にとって完璧で待ち望んだ場所であった。
キーファー「今日起きたら戦争は、理性で考えても決して理解できません。このように愚かな出来事には理屈も分別も通用しません」インタビュアー「歴史の扱いで非難され、今度は神話に逃げたと言われましたね」キーファー「逃げてはいません。神話は現在も通用し、理性とは違う方法で歴史を理解する手段なのです」
存在について
人は重さを避けて、軽さを求める。基本的に深淵をのぞくことを嫌がり、楽なのを好む。地球の歴史や宇宙の歴史など歴史を通して見ると、我々は雨粒にも満たないことが分かる。雨以下の原子なのだ。それなら当然言える〈我々は軽い〉。〈存在の耐えられない軽さ〉
ミケラ・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』より?
〈存在〉とは〈無〉の絶対的な一部分だ。〈無〉は〈存在〉の一部分だとも言える。両者には同時性があり、時間的な差はない。でも慰めになる何かを始める時、すでに失敗も含まれていると思えるからだ。
この存在論はティリッヒに通ずるものを感じる
終幕
「時という長いテーブルで / 神の壺たちが酒を飲む / 見える者 見えぬ者の目を / 彼らは飲み干す / 支配する影の心も / 晩のこけた頬も / 彼らは全部飲み尽くす。/ 空でも満杯のように口に運び / お前や私のようにこぼさない」とパウル・ツェランを引用する。
子供時代は空っぽの部屋だ。始まったばかりの世界のように。