知的生産に「新しさ」は必須か
経緯
最後のrashitaさんの「新しさ」の話に関連して
内容や方法そのものの独自性と表現の独自性、という二つの「新しさ」があるな。
関連というかそこから勝手に連想ゲームをして
「あたらしいことがら」とは何か
気持ち
「新しさ」は必ず必要なのか?ということを考えてみたい
特に、「内容や方法そのものの独自性」は必須なのか
前に自分が書いたことを思い出した
本当の意味で新規のものを生み出すのはかなり困難
世の中に溢れている文章のほとんどが、「どこかで誰かはもう言っている」ことなのだよなあ、と思う。何を言っても、基本的にはどこかの誰かが言っているに違いない。出版社を通して出版されている本にしたってそうなのだし。
「届く」ことが第一なのかも
情報の洪水に溺れているような現代では、類似のものがあちこちで発信されることでそのうちのどれかが視界に入ってきてくれる可能性が高まるということに価値があるようにも思う
自分にとっての「今更」は、誰かにとっての「今」であって、全ての段階について誰かが「今」のものとして発信してくれることが、きっと皆の人生を豊かで安心なものにしてくれる。
専門家ではない情報の受け手にとって「新しい」とは、「自分が知らなかったこと」である
つまり、世界にとって新しいかどうかはどうでもよく(判別する術がなく)、その情報を「私の元に届けてくれたもの」がその人にとってありがたいものとなる
自分が感銘を受けた本の内容も、別にその本が初出の内容とは限らない
というか多分違う
大体古代ギリシャや平安時代には出尽くしていると思う
天才たちは常に存在しているし
少なくとも、その時代に生み出されなかった高度な発想を自分ごときができるとは思えない
新しい技術に関してはまあ早いもん勝ちで「初出」を作り出せるだろうとは思う
でもみんなが必要としているのは「人間である以上不変の法則」みたいなものではないか
それは絶対出尽くしている
(「みんなが必要としている」というのは、「専門的な人もそうでない人も広く共通して関心を持つ領域」というニュアンス)
専門的で新しい情報はもちろん常に必要
「自分が知らなかったこと」を自分に届けてもらうには、届くまでその情報が繰り返し作られる必要がある
作家側には不本意だろうけども、「数撃ちゃ当たる」の世界であり、どれが「当たる」かわからない
全く同じ趣旨を別な人が書いて、そっちが当たるかもしれない
悔しくとも、そもそも自分が本当にオリジナルな可能性がどれだけあるかという疑問もある
語彙の選択も情報の届き方を大きく左右する
古代ギリシャの人や平安時代の人が書いた言葉は、そのまま届くことはほとんどない
名言集に取り上げられているとしても、もはや解説や言い換えなしには理解できない
『論語』もそのままは読めない
文そのものはなんとか理解できても、縁遠い言い回しのままだと身体化が難しく応用できない
著者と読者の間の文脈が完全に断絶している
ゆえに「独自性」「真新しさ」だけでなく、「咀嚼」「翻訳」が意味を持つ
「言い換えただけ」と言われることがあるが、本当に「だけ」なのか
「だけ」のことも確かにある
(独自性も然ることながら誠意・敬意の有無が「だけ」感を左右していそう)
しかし「言い換え」こそが重要とも感じる
「今まで以上に正確且つ伝わりやすい咀嚼」はもちろんある種「新しい」もので、立派な知的生産であろう
そこに著者の個性がそれとはっきりわかる形で現れている必要はない
(「新しいっぽい感じ」は必ずしも要らない)
知的生産を成り立たせている(かもしれない)3つの力
吟味力(念入りに調べ考え続ける力)
拡張力(あたらしさを広げていく力)
伝達力(わかりやすく人に届ける力)
発想そのものが仮に出尽くしているとすれば、そして出尽くしていようがいまいが「届く」ことが重要だとすれば、ここでいう「伝達力」だけに特化した知的生産も十分に価値があるのだろうと思う
伝達力だけのものだけ(「だけ」の二乗)の状態はまずいというのはそれはそう
「あたらしさ」というと「どういう意味での新しさ?」という疑問が生まれる
今までになかった概念(如何にも新しい)
今までになかった表現(初めて聞いた感は強い)
今までになかった構成(新しいということに気づかない場合があり得る)
今までになかった現代性(新しいのは社会の方で、それに対応してリメイク)