知の営みにおける知的生産
人間の知にまつわる活動全般(知の営み)からすると、知的生産はその一部となる。 知的生産の定義(要件)
頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ
たとえば、クロスワードパズルを解くのは、頭をはたらかせる活動(知性が発揮される活動)ではあるが、定められた答えを導くことなので、知的生産の枠組みには入らない(あえていうならば、知的消費になるだろう)。
また、あたらしいことがらについて頭を働かせていても、それを「ひとにわかるかたち」で提出しようとしていないならば、それも知的生産の枠組みには入らない。
生産していないとか(生産的でないとか)、知的生産に比べて劣っているとかではなくて、別の領域に位置している、というだけ。
https://gyazo.com/d9bac43e89e9e8c4caf294172bc9d9b8
梅棹が論じたのは、情報化社会になると「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」が避けがたく社会的な意義を帯びはじめる、ということ。
知的生産でなければ意味がない、という視点は一つもない。
また、「ひとにわかるかたち」であって、社会全体が意味されているわけではない。自分以外の人間、という一番小さな他者でもその定義に入る。
ikkitime.icon確かにね。あの本、「手紙」についてすら書いていたわけだから。
新たに生まれる疑問
(情報を生み出す上で)頭をはたかせるとはどういう意味か
「あたらしいことがら」とは何か
その「あたらしさ」とは何か
「ひとにわかるかたち」とは具体的に何を意味するのか
よくよく見ると、「他人に役立つことを行う」という視点が一切含まれていないことに気がつく。
ikkitime.icon「ウタを作るよりタを作れ」への反感があったから、奥底にはその気持ちはあったかもしれない。でも確かに、少なくともそれを書いてはいない。