知的生産はどこまでも個人においておこなわれるものである
sta.icon
これの意味がずっと気になっている
我が強いsta.iconとしては、自分を正当化できる見方を探してしまう
案外良い線ではないかという気もする
梅棹忠夫も同書の中で以下のようなことを言っているし 聖域
知的生産は、自分が自分の言葉で練り上げていくもの(だとsta.iconは思っている)だとも思っている
自分ワールドに浸ってとことんこねこねするからこそ、生まれるものがある
他者への提出は、こねきった後で整備すればよい
ここのバランスが難しいと日々感じている
自分ワールドでないと構築しづらいので、ある程度は自分ワールドで完結させたい
他者は参考にはするが、他者(の語彙やコンテキスト)にかき乱されたくない
しかし自分一人では限界があるし、そもそも人と積み上げていくことは楽しい(それをしないのはもったいない)
知的生産の性質と「(一人でじっくり取り組みたいという)志向」が混ざってるので整理
ここで明らかにしたいのは前者
rashitaさんありがとうございます
僕の疑問と傲慢を溶かせられそうです
rashita.icon基本的に、知的生産というのは傲慢(ないしはエゴ)がスタートラインだとは思うのですが、たとえば「自分の言葉で練り上げる」でイメージされているものが、
みたいなものなのかどうかが、ちょっとだけ気になります。こういうのをどんどん追求すると、たしかに完璧な「自分ワールド」はできそうな気がしますが、他の誰にも何もパスできないものにたどり着いちゃう可能性もあって……、という心配。
上述のkitetuのようなものはイメージしてないですねsta.icon
誰かには(できれば誰にでも)パスできるが、主導権を握っているのは自分といいますか
rashita.icon「主導権を握っているのは自分」という感覚はよくわかります。
たとえば、staさんが何か概念体系を構築されているとして、そこに僕が「それってこういう見方もあるんじゃないですか」と提案したときに、それを(プルリクエストみたいな形で)「たしかにそうかもな」と、staさんのジャッジメントの元で取り入れる形の「他者との関係」はアリ、という感じはありますか。それとも、そういう関係=影響を受けることもできれば無い方がよい、という感じでしょうか。 ……の「他者との関係」はアリ
こっちですね
むしろこれは積極的にやりたいですsta.icon*2
rashita.icon
「知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるものである」
は、おそらく知的生産というものは、集団の意思決定で行われるものではない、ということだと推測。
つまり、集まって会議してその責任を分散させる形で、あるいは上長がそう命じたからという理由で進められるものではない、というニュアンス。
集合的に研究する場合でも、まず一人ひとりが「自分の頭で考える」(パラフレーズが必要だ)ことをした後に、その成果を持ち寄ろうとするその態度のことではないか。
あとでまた検討。
『知的生産の技術』より前後を引用。
もっとも組織の目標に個人がいかに適応するかをさぐろうというのではない。むしろ、情報の時代における個人のありかたをじゅうぶんにかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねないのである。
この意味では、この本は、企業にとってはほとんど役にたたないだろう。この本は、はじめから個人を対象にしてかいている。はじめに、研究や勉強の話をしたが、そのときに知的作業の個人の「聖域性」についてのべた。知的生産の技術の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性という原則を、この本全体をつらぬいてたもってゆきたい。知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるものである。
もっとも、べつな意味で、組織の問題があることは事実である。それは、たとえば研究における共同研究のように、複数の個人が協力して知的生産を行う場合である。それについては、またさまざまな問題がある。
rashita.icon上記から読み取れるのは、
「個人」は「組織」と対比的に使用されている
共同研究や協力的作業が否定されているわけではない
個人が、自分の関心(あるいは自分たちの関心)に沿って、組織の理屈とは別に自分なりの研究や勉強を行うこと。その方向性が、組織の理屈に犯されないこと。それが聖域性であり、密室性ということであろう。
言い換えれば、「個人において」とは、組織の理屈ではなくその人自身の意志において、という意味に解釈できる。
独善に陥ることを肯定しているのではなく、知的生産活動そのものを「自分なり」にやっていくことの肯定であろう。これは、日本社会が「皆のやり方」に合わせがちである、という風潮に対するアンチテーゼとして示されてるようにも思える。
ちなみに、「はじめに、研究や勉強の話をしたが」の部分を読み返してみると、そこでは「研究や勉強などの精神活動は奥深い秘密の聖域で行われているという考え方があるが、その実よくよく調べてみると個性的とも思える精神活動は結構似ていて、皆似たり寄ったりな失敗やら工夫をしているのだから、それを技術として公開することで進歩が生まれやすいのではないか」という文脈で「聖域」という言葉が使われている。つまり、そこでは「聖域」を白日のもとにさらすこと→聖域性の剥奪が意図されていて、だからこそ上のような書き方(知的生産の技術の公開をとなえながらも、」)になっている。
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