Atomicと個人性
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Atomicに書かれたカードは、他のカードと関係性を持ちながらも、そのカードだけで一つの完結した記述を行う。
個人において行われる知的生産も、他の知的生産との関係性を持ちながらも、その人だけで一つの完結した知的生産を行う。
組織の中の分業の一端として何かを行うのではなく、「その人の研究」が、その人の中で行われる。
その研究は、その分野全体においての「一部」ではあるが、しかし企業的な分業が行われているわけではない。徹頭徹尾、その人は「その人の研究」を行っている。
逆に言えば、私たちは「自分の仕事」(自分の研究)に打ち込むことによって、むしろ他の人の仕事との関係性を持つことができるのではないか。
自分の仕事をすること、atomicな仕事のやり方
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二次関数的カーブがあるのだろうか。最適値みたいなもの。
小説のように長いと、読者が着目する箇所はぶれる
短すぎて俳句のようだと、各個人のコンテクストによって読み取られる内容が左右される
rashita.icon文芸作品はむしろ、atomicでないことによるそれぞれの誤解=解釈の幅の広さがポイントになりそうな気がします。よって、上の要素はむしろメリット(あるいは機能)として解釈できそう。逆に言えば、豆論文・論文には、適切なフォーマットが想定できるでしょうし、むしろ論文というものにフォーマットが制定されているのも、その機能性を先回りして指定しているから、と言えるかも。
つまり、長さというよりもフォーマットがここでは大切。
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Atomicに書かれたカードは、他のカードと関係性を持ちながらも、そのカードだけで一つの完結した記述を行う。
個人において行われる知的生産も、他の知的生産との関係性を持ちながらも、その人だけで一つの完結した知的生産を行う。
本当にそうだろうか
たとえば日本語で書かれたカードを日本語の読めない人は無意味な記号の羅列と感じる
たとえ日本語が読めてもそこで使われているそれぞれの言葉の意味がわからなければ著者の伝えたいことはわからない
個人の知的生産
特に違和感駆動の知的生産においては違和感の源泉が必要 現在の自分自身との間に違和感は起きにくい(昔の自分とは起きる)