あなたはなぜ知的生産をするのか?
パッションがある知的生産者とパッションがない知的生産者、憤怒で動く知的生産者と憤怒では動いていない知的生産者、という空気の違いがあるかもしれないとふと思った。
rashita.iconはどうだろうと考えてみたが、あまりどちらもなさそう。
パッション成分10%、憤怒成分1%くらいはあるかな?
基本的には、「楽しいから」である。
ビデオゲーム(古い言い方だ)も楽しいが、それよりも楽しい、といった感じの楽しさ
それでお金がもらえているのだから、ありがたいかぎりではある。
が、お金をもらえていなくてもやっていただろう。というか、2010年までのR-styleはコンビニ店長が書いていたわけだし。
ただ、こうした活動を続けた結果として、ある種のパッションが芽生えたところはあるかもしれない。
自分が受け取ってきたものの大きさに気がつきはじめた、というところか。
ikkitime.icon私は、「語りたい」人ではあるし、熱意や欲が無いはずはないんだけど、それでも
みたいな文面を読めば圧倒されてしまう。
感覚としては、生きていて、何か刺激を受ければ(それがたとえ「政治ムカつくな」であれ)、何かを感じるし、感じたら言語化しておきたいし、しようとすれば考えるし、言語化できたなら、小規模なりにでいいから発表しておきたくなるわけで(何もしないと消えて無くなる、せっかく考えたのに)、ある意味自動的みたいなところがある。パイプラインの中を流すように、それらの個々の挙動の継ぎ目は、かなり省エネ化された構造になっている。 ターボをかけて、無理矢理流速を生み出している感覚ではない。
issac.icon僕は知的生産をしているという意識はぜんぜんないです。
ただ自分の中にあるもやもやとした考えをもう少し、あと少し明確に言葉に表せるようになったらいいなと思っています。
どうすればもっと書かれていることがわかるようになるのか、ここでは何が問われているのか。自分がわかっていることとわからないことを、どうやったら言葉に表わすことができるのか。そんなことばかり考えてます。
こういう風になりたい、というのがパッションだとするなら、その成分は多めだと思います。
下のnora.iconさんの定義を見るとかなりパッション弱い型っぽいですねissac.icon
nora.icon言い出しっぺのFoam_Crabです。
「パッション」も「憤怒」も全く定義しないでツイートしてしまったので、(どう解釈されても全然構わないのですが)一応こういうつもりで書いたということを補足しに来ました。
パッションとはこの場合「知的生産そのものに対する情熱」のこと(自己の成熟を希求する情熱はまた別)
「オラオラオラオラァッ目に入るもの全部言語化するぜぇ哲学するぜぇ!!」というのがパッション強い型のイメージ
自己から離れた概念についても思索の対象になる
能動的・創造的
誰かが書いたものを見て自分はどうかなあ、どう感じるかなあ、と考えるのがパッション弱い型のイメージ
主に自分を通した認識が思索の対象になる
受動的・反応的
憤怒とはこの場合「この世にはどうして他人の邪魔をする人間がいるのか!」という種の憤りのこと
世の事象にまず強い不快感と怒りを覚え、その解消のために考えるのが憤怒で動く型のイメージ
個人の感情としての怒りではなく、信念に基づく義憤による
憤怒で動くタイプも別に常に憤怒が動機になるわけではない
常に憤怒で動くタイプは「知的生産をする人」とは別のカテゴリになってしまう気がする
世の事象に諦観は覚えても、「こうなったら良いだろうが!」という怒りを表現しようとはしないのが憤怒では動かない型のイメージ
他者に変化を求めるより「自分はどうするか」や単に「世界はこうなっているらしい」という事実を追うタイプ
なお、自分に「あなたはなぜ知的生産をするのか?」と問うならば、私の場合は「何かしら困っていることがあり、それを血肉化される形で理解したいから」ということになります。「困っている」の部分集合として「憤怒」が含まれます。私は困っていないと動機が生まれないので、知的生産そのものに対するパッションは自分の中には感じられません。
rashita.icon
おそらく「知的生産をしよう!」という動機付けで知的生産をする人はほとんどいないのだろうなと予想。
nora.icon「知的生産」の四文字だとイメージしにくい感じがしてきますが、「これはどうしてこうなるんだろう?」という(自己の存在とは関係のない)疑問の解消のために突き進んでいる人なら割といるような気がしないでもないです。
nora.iconその行為に「知的生産」という名がつくことを認識している人があまりいなさそう。
ikkitime.iconなるほどなるほど。
そしてまた、「読書」など、知的鋭意が発生しそうな刺激に、すすんで身を曝す傾向のある人、という見立てもありそうですね。
客観的に見て知的生産している、と感じるけれども、本人はそうは思っていないという状況が多々あるような気がしたので。
rashita.icon「知的生産の技術」は、その行動が知的生産であると認識されてはじめて適用される、みたいなことはあるかもしれません。
sta.icon
「楽しさ」、「自分で好き勝手にしやすい」から、あとあわよくば「自己顕示」
「自分で好き勝手にしやすい」から、あとあわよくば「自己顕示」
自分の力だけでサクッと強大な成果を出す天才に憧れている
でも僕は天才ではない
天才でないなら愚直に勝負するしかない
どのジャンルも大体「膨大なインプット」がないと強大な成果は出せないので、まずはインプットが必要
が、sta.iconはインプットの要領や効率が壊滅的
分が悪い
知的生産(ここでは独自の概念をつくる行為と定義)であれば
土台からして自分のやりたいように構築できる
自分の感性で勝負できる
インプットをサボれる
自分にとって都合の良い概念を構築するといいますかsta.icon
創作の延長というか現実逃避なのかもしれない
このような自分勝手な生産物が「強大な成果」になったらいいなという願望もある
上のnora.iconさん定義のパッションと憤怒で言えば
パッションは弱い
自分はどうかなあ、どう感じるかなあ
こっちで捉えることが多い
「誰かが書いたもの」をダシにして「俺の作品!」をつくる
あー、でも自分はさておいて相手の真意を理解したい、言語化したいと思うときもあるなsta.icon
憤怒は強い
「こうした方がよくない?たとえばこういう概念を導入して、こう仕組み化したら、こうなるよね……」みたいなことをよく考える
憤怒とは違うかもしれないが、「楽しさ」から生まれた概念Aに固執して「うるせえ、俺は概念Aで突き進んでみたいんだよ」「そんなこと意味ない?既に答えが出てる?だからどうしたの?俺はAを突き詰めたいんだよ」という意地も強いかも
nora.icon全体的にsta.iconさんの感覚はよくわかりますし勝手ながら「私がいる!」と思ってしまいました。
インプットは「面倒」というよりも「苦痛」でさえあるという感触があります。(私から見ると多数派の)インプットを楽しんでいる人々のように、外から何かを吸収するということを楽しめる感覚がないというか。
issac.icon読むのが大好きな僕からすると、表現するのはけっこうしんどいです。
上の話題にしても、他のページにしても、自分の考えていることを表現できるのってうらやましいなあとばかり。
問題が起こったときの対処も、「他の人はどういう風に対処してきただろう?」「他の人はこれをどう表してきたのだろう?」と過去へと探索をし続けてしまってます。
自分の意見や考えがうまく形作れない(と、思っている)のです。
辞書を読むのが好きなのも、過去への探索が好きだからかもしれません
nora.iconなるほど! あーでも、私もそもそもは「自分の気持ちや考えを自分で表現できない」という絶望感からスタートしてその言語化に全てを費やし始めたので、「うまく形作れない(と、思っている)」というのはその括弧書きの部分も含めてよくわかる感じがします。
自分のことを言い表せないということにものすごい恐怖があり、他者に支配される未来像がリアルにそこにあって、それから逃れるために自分自身を正確に捉えて言語化しようとしている感じです。
そしてその副産物が私から生まれる知的生産(的なもの)。
そしてあわよくばそれが何かしらの「成果」になってほしい。
自力で考えることに耐えられないという人もいることを考えると、「吐く(=自分で考えて生産するイメージ)」と「吸う(=外から吸収して身につけるイメージ)」のバランスというのがあって、引用だらけで自分の言葉が使えない人は「吸う」過多、一方自分は「吐く」に異常に偏っているのかもしれないと感じています。
「吸って吐く人」、「吸うしかない人」、「吐くしかない人」、はそれぞれ知的生産の方向性も形も違ってしまうのだろうなあ。
rashita.icon
rashita.icon
僕の場合、「新しいことを言う」が感覚的に大事というか、「これを他の人が言ってんだったら、別にオレは言わなくていいな」という感じでスルーする部分が多いです。
何かを言い表すのはすごくたいへんで、同じ労力を投下するならば、他の人がまだ言っていないことを言いたい、という気持ち。
インプット(というのは感覚的によくわからない部分もありつつ)するのは、他の人からの思考の刺激を受けつつも、すでに言われてしまっている部分をある程度確かめるという意味があるのかも。
でもって、領域横断的なものが好きなのも、「他の人が言っていない可能性」が高いだろう、という期待値も関係している可能性大。
ある意味での、「新しいもの好き」なのかもしれない。
nora.icon「自分」を含まない領域についてであれば私もその気持ちが実のところ相当強いなと思いました。
別のHNで何かの考察とかを書いたりするときは「誰かがもうやってることに費やせる労力などない!」という気持ちで新たな領域を探している。
今のところ「知的生産についての知的生産」は常に「自分」を含んでいるので、むしろ「誰かがもうやってるかはどうでもいい、私は私の表現をする」という気持ちが強くなる。
rashita.iconちなみに、「私は私の表現をする」は見事に達成されていると思います。
(対象や段階によって自分のスタンスが違い過ぎて、「私にとっての知的生産」という括り方で語るのは私には不可能かもしれないと思い始めた)
これに関連の強い気持ちnishio.icon
「知的生産」という言葉でイメージしている具体的な行為が人によってまちまちである可能性が高いのに、そのまちまちな行為Xのモチベーションについて語り合っていることに違和感がある
「対象や段階によって自分のスタンスが違い過ぎて」知的生産を一括りで「語るのは私には不可能」という主張に関して
「僕もそうだと思うし、むしろそうでない人がいるんですか?」という気持ち