管理とは意識的な行為である
管理するためには、管理する物事を対象化する必要がある。
そこに「それ」がある、ないしは無いと認識できないと、管理はできない。
何かを変える決断をする場合でも、そのままの状態で放置する決断をする場合でも、「それ」が意識されている。
自己管理の場合、その対象は自己であるからして、その行いはメタであるとは言える。
では、自己管理以外の管理は、メタであると言えるか。
たとえば、企業で行われるプロジェクト管理はメタと言えるか。
あるいは、メタな要素が一つも含まれない「管理」を考えることができるか。
あるいは、考えられるとして、そのような管理に実質的な意味や効果性はあるだろうか。
管理の意味
よい状態であるように気を配り、必要な手段を(組織的に)使ってとりさばくこと。
1 ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。「品質を管理する」「健康管理」「管理教育」
2 事が円滑に運ぶよう、事務を処理し、設備などを保存維持していくこと。「管理の行き届いたマンション」「生産管理」
3 法律上、財産や施設などの現状を維持し、また、その目的にそった範囲内で利用・改良などをはかること。
「hogehogeを管理する」
「hogehogeを管理しようとする」
というとき、意識的な行為が含意されているのではないか。
もしそうであれば、
「hogehogeが管理できている」
が真になるには、まずそれを管理しようという意識があることになる。
であれば、まったくタスクを管理しようという意識がなく、それでいて特に問題が生じておらず、楽しく生きている場合、rashita.iconの感覚ではそれは「タスク管理ができている」とは言わない。
タスク管理が必要ない(を必要としていない)という状態ではあると言える。
玄武.iconだと「タスク管理が必要ないほどにタスク管理ができている」と言えそうですが、書いていて矛盾がありそうです。
ちょっとまた考えます。
「タスク管理(の手法)が必要ないほどにタスク管理ができている」?
「意識的(主観的)にはタスク管理が必要ないほどに、対象に精通しており、客観的にはタスク管理ができている」が正確かも。
たとえば、異常なほどの完全記憶があり、耳に入ったこと、目にしたことは何一つ忘れない(忘れられない)人がいるとして、その人がスケジュールを一度も未達な状態にならないとしても、rashita.iconの語感では、その人は「タスク管理をしている」とは言えない。
タスク管理を必要としていない、とは言える。
玄武.iconだと「タスク管理ができている」と言えそうです。
意識的だと「管理をしている」=主観的
本人はタスク管理をやっているつもりだけど、周りから見たら管理できていないことなどもここに当てはまる
無意識的だと「管理ができている」=客観的
周りから見たらタスク管理ができているけど、本人はタスク管理をしている自覚がないことなどはここに当てはまる
管理は客観的な行為である?
いや、管理は意識的(主観的)でもありえるし、客観的のみでもありえるが玄武.iconの感覚かも。
ただ、意識的(主観的)のみでの場合は、管理をしている"つもり"という「つもり」が付きそうです。
rashita.icon上の話を読んでさらにはっきりしました。僕はこの文脈の「客観的」についてまるで興味がありません。主観こそがすべて、とすら感じているようです。おそらくその観点の違いが、僕と玄武さんの把握(というか問題構成)の違いになっていそうです。
rashita.iconしかしそうであっても、基本的にタスク管理との付き合い方がだいたい似通っている、という点が興味深いですね。
rashita.iconたぶんこの主観中心の観点は、現象学的と言えそう。
そして、今気がついた。意志を意志をという意味でこれは、メタ思考であると。
そして、そのメタ思考は、メタファーと関係しているということを。
一方で、すごく記憶力が良い人がいて、「これは覚えておかないと」といった注意を向けるだけで、まず忘れない人がいるとして、その人がスケジュールを完璧にこなしているときは、rashita.iconの語感では、その人は「タスク管理をしている、できている」という感覚になる。
rashita.iconにとって、管理という行為は、意識的に対象に注意を向けているかが、線引きになっていそう。
書きながらわかったことが二つ
rashita.iconにとって、意識的かどうか(もっといえば、そこに意志があるかどうか)が物事を線引きする重要なファクターになっていること。
だからこそ、タスク管理を人に押し付けることは間違っている気がしている
「自主的になる」ことを他者が押し付けるのはどこか歪みがある
もう一つは、rashita.iconにとって「タスク管理ができている状態」と「タスク管理が必要ない状態」があり、そこにさらに「タスク管理が必要でありながら、できていない状態」も加わる。楽しさがないのは、最後の状態。
さらに書きながらわかったことが二つ。
rashita.iconにとって、たとえば整理も、意志の有無が関係している。「整理すること」には意志が介在している。
つまり、管理や整理ではなく、「管理する」「整理する」という主体的な行為が私の関心事。
自身によってその志向性が意識され、それにむけて全体が調整されるような活動。
ありのままでそうなるのではなく、「そういう方向に進もう」と思って自覚的に行われる行為がこれら。
問題が一つも起きない刑務所は、「管理できてる」と言える。それは刑務官にとっての(彼の主観での)「管理できている」である。囚人にとってはそれは「管理されている」状況だ。自己管理においては、この対象が物理的に同一人物になる。
ここでパプティノミコンを導入する。
刑務官を非存在にし、囚人の想像力のみで刑務所が管理できている状態を作ったとしたら?
管理されている人たちがいる。当然管理はできている。
自己管理では、決まったルーチンにただ従うだけ、という状態がこれに近いか。
一方で、刑務所では、「刑務官をいなくならせる」と判断する人がいるはずで、それが結局は間接的に「管理している」と言える。
あるいは、囚人の一部、あるいは全体が話し合って、パプティノミコン的状況を作ったとする(おそらくその状況では、この管理は成立しないが、かりに成立したとして)、それは形を変えた自己管理が行われていることになり、やはり管理者は存在する。
つまり、管理者不在の管理はない。むしろ、管理者の存在が、管理を定義する。
ある状態が望ましいものに保たれているとして、そこに意志が介在していないなら、それは管理ではない。「太陽によって、地球の温度は適切に管理されているんです」とは言わない。人格の有無ではなく、そうしようという意図(自分がそれを為そうという自覚とそれにともなう行動)が管理を管理たらしめている。
だからこそ、管理はきわめて人間らしい行動であり、それがたいていカントのいう純粋理性に動機付けられるので暴走する。だから、管理しすぎない管理が必要、という観点が出てくる(たぶん、ここが一番重要)。
だいたいわかってきた。そこにある状態が良いのか、悪いのかはrashita.iconにとっては中心的な課題ではなく、どういう状態に向かおうとするのか、どのような変化を意識的に加えていくのかが大切で、それが楽化主義とも(楽しいではなく、楽しむ)関係している。でもって、だから主観こそがすべてとなる。
管理は、何かを変えること、つまりそうした営為を行わなければ立ち現れなかった状況を作りだす(クリエイトする)ための方法だと、rashita.iconは認識している。
なぜか?
意志の作用と言い換えてもいい。
だからこそ、rashita.iconは「自由意志などない。はい解散」といった話にはまるで興味がわかない。
rashita.iconは、「〜〜管理」という一つの具体を通して、「管理とは何か」という抽象を眺めている(その視点では、タスク管理はあまたの管理の一つの例になる)
この視点では、「管理するのがタスクだけで足りるはずがない」と「管理するのはタスクだけに留めておく方がよい」が立案できる。
以前までは前者を指示していたが、最近は後者にシフトしつつある。
rashita.iconさらに思いついた。
タスク管理ができている状態と同じような状態、という言い方ができる。
この表現で、意志の有無の差異が表現できる