嫉妬・狂気・劣等感
前提
私の心は穏やかではありません
文脈
断り書き
多少の勉強はしましたがここに書くことは基本的に自分の解釈でしかありません
階層の複雑さがひどい
後で整理したいと思ってはいます
下線を引いている項目ごとにページを作ったほうがいいのだろう
バレットをマウスオーバーまたはタップでアウトラインレベルが表示されます(8段階目まで)ので良かったらご活用ください
まだ途中というつもりです(Scrapboxのページは常に途中)
🤔
評価されているものと評価の結果が可視化されているものに対する不穏さ
好例作品投稿サイトの評価数
ここで起こること
評価が正当でないという気持ち
自分の作品が、出来に対して評価が乏しい
他人の作品が、出来に対して評価が過剰
→何が起きているのか?
完全な思い込みの場合
客観視ができていないパターン
そもそも見る目がなくて出来の評価をする力が全くないパターン
別のフィールドでの評価が影響することを狡く感じる場合
売名行為で稼ぎやがって!的なやつ
(実際には別のフィールドでの名声は別のフィールドでの名声であって、そんなに影響していないこともある)
セルフプロデュースの発想が自分にないだけなことも
あるいはセルフプロデュースが苦手だという劣等感に苛まれている
運の悪さを許せない場合
絶対に公平に評価されるべきだという気持ち
自分の実力の無さに打ちのめされる気持ち
同じ年(または年下)なのになんでお前はそんなことができんだよお~自分はなんなんだよお~自分だって頑張って生きてきたのによお~神様は不公平だあ~
茶化しているようですが私もその気持ちに悩まされて生きてきたので正直に書いた結果がこうです
(個人的には能力もさることながら「度胸がある」ということに強いコンプレックスがあります)
実年齢だけでなく「年数」の場合もあるし、もっと別の属性の場合もある(自分は都会育ちで相手はド田舎とか、学歴の差とか)
→何が起きているのか?
見る目と出力のギャップ
相手が持っている力を感じ取ることができているがゆえの苦悩
そもそもすごさがわからなければ苦しくなりようもない
自分が認識できる解像度に対して、自分が出力できる解像度が貧相(だと自分で思っている)
自分の出力に対する自己の過小評価
評価をその場の数字が全てだと思っていると誤認が加速する
例えば作品投稿サイトでは、評価数と価値は別に一致しない
刺さらなくても広くウケれば評価数が上がる
「広くウケる」にはそれにはそれの大事な価値がもちろんあるが、「それだけ」が価値ではない
一部の人にグサッッッッと刺されば評価数はいまいちでもその人達にとって神同然かもしれない
自分の価値を的確に言葉にしてくれる人が身近にいるかどうかで変わってしまうと思われる
見る目がない人しか周りにいなければ誰にも見出されず自分の価値は「なかったこと」になる
「普通にできる、している」と思っていることがすごいことであったりする
自分を狂わせているその相手も自分の強みに気づいているとは限らない
自分が狂っている間にも、実は自分に対して嫉妬している人がいることもある
そもそも「○○なのに」が適切でない
「同じ条件なのに」「むしろ相手の方がハンデがあるのに」という捉え方を無批判に取り込んでいる
本当に同じ条件または相手にハンデがあるのだろうか?
(そうでないならないでまた別の不穏な感情に悩まされるのだが)(なんだよズルい!という方向)
どこを向いても何を見ても自分の無能が明らかになりそうで不安な気持ち
数字や作品の出来みたいな可視化されたものが何もなくても四六時中不穏
自分自身に対する拒否感
自分が嫌い
自分が斯くあるべしと思う像と実際の自己像との乖離
自分には何かが足りていないという強い欠落感
「他の人にはあるのに」
人に褒められるような強みを持っていても、欠けの方が気になって安心できない
むしろ褒められれば褒められるほど「本当はそんな人間じゃない」などと思いだしたりすることもある
インポスター症候群
自分を素直に表現することを恥じている
または常に様子を窺いながら恐る恐る表現している
馬鹿にされそうな気がしている
まだ馬鹿にされたことはないけどきっと馬鹿にされるはずだと感じている
実際に馬鹿にされたことがあるのでまたそれを味わうのが嫌だ
自分が人を馬鹿にしているから跳ね返ってくるのが恐ろしい
馬鹿にするならしろやコラァ!!!と最初から猛り立ってしまう
「他者」に対する解像度が低すぎる、またはムラがある
「他の人」だの「みんな」だのを使いたい時は明らかに認識が大雑把過ぎる
「自分以外全て」を語るということは、つまり「自分というただひとりの特別な存在」を語っているも同然
「特別に劣っている」というネガティブな方向にしても、自分が特別だと認識していることには変わりがない
多分他の人からしたら自分も「他の人」「みんな」の中に埋もれる程度のなんてことのない存在
(「特別に劣っている」と直接誰かに突きつけられる経験をしたような場合には、その理不尽を自己解決するのは大変かもしれないので、信頼できる知人または実績の確かなプロの力を借りる必要があるかも)
(その経験は「理不尽」であって、そいつらの言うことが正しいと思う必要はない。と他人は簡単に言えるが、そうなのか~とそれですんなり脱出できるわけではないだろう)
自分より大したことがない存在(と勝手に決め込んだもの)を認識から排除している
極端な例「29歳とかもうおばさんだし辛い~!」と30歳以上の女性たちの前で言ってしまうアラサー女子
意図した皮肉ならまだしも、マジで認識していないから平気でそう言ったりするのでたちが悪い
「上しか見ない」と言えば聞こえはいいが、下をいないものとすると自己陶酔と紙一重
根本的な問題
「こういう人間というのがよいのだ、よってそれにならなければならない」という強迫観念
人間は多種多様で千差万別であるという当然の現実と衝突する
社会的にそれを強いられている場合には社会が理不尽な状態である
(社会が理不尽でなかった瞬間など「富」の概念ができてからは歴史上にただの一度もないのではないかとは思うけども)
「こういう人間というのがよいのだ」までなら(「こういう人間」の設定がおかしくない限り)問題にはならない
理想像を目指して頑張るのが向上心
「こういう人間」の設定がおかしいとは
hogeという職は偉いけどfugaは下等だ、よってhogeになるのがよいのだ、とか
hoge以上の大学卒は立派だけどfuga以下は低能だ、よってhoge大卒になるのがよいのだ、とか
hogeな見た目はいいけどfugaな見た目は気持ち悪い、よってhogeになるのがよいのだ、とか
年収hoge万円は一人前だがfuga万円は負け組だ、よってhoge万円稼ぐ人間がよいのだ、とか
人間性以外の物差しで測ったありとあらゆる基準
実際に「勝ち組」になれる条件としてそういったものがあるにしても、それらを目指すかどうかは当人次第であって、人から押し付けられる筋合いはない
ましてやそういう物差しで人を測ることが正しいのだなどと洗脳するのは論外である
人の人生を破壊していることに気づいて欲しい
自分が輝ける場が失われていく不安
(言語化に至るのが遅れたが実のところこれが一番大きいかもしれない)
上位互換が既にいるところで何かを成せる気がしない
自分が無価値であることに気づいてしまうのとは別に、今まさに無価値になったという感触
アンテナを張れば張るほど、他の人のすごさに気づけば気づくほど、自分が輝ける可能性などこの世に無いような気がしてくる
余談古今東西の小説を読み過ぎて「あらゆることを誰かは既に書いている」と知ってしまい物語を生み出すことができなくなった、という話をどこかで読んだ(実話だったか140字小説あたりのフィクションだったか定かでない)
この点はまだ解決の糸口が見えていない
しかし、個性にストッパーをかけずに思う存分発揮できたらオンリーワンになるものという気はしている
自分とごく類似した人間、とまだ遭遇したことがない
逆に、今輝いている人も別にそこまで唯一無二性はないかもしれない
これまで生きた延べ何人(もはや桁の見当がつかない)の中に同じようなタイプはいたのだろうし
一人すごい人がいても、その人が生み出せるものは量的に限度がある
すごかろうが、一人には一人分の創造しかできない
一人では需要を賄えない