自分の未熟さに耐えるには
恥の多い生涯を送って来ました。
ゆえに死や破滅や発狂といった概念は私のすぐそばに在り続けてここまで生きている。
自分が欠陥品であることに深く悩み、何も成すことができないであろう、それどころか存在していること自体が世界にとってマイナスであろう、という思いに長らく囚われていた。
その気分が完全に払拭されたわけではないし、そんな晴れ晴れと生きているわけではなく、抱えている問題はまだ巨大なままだ。
つまり自分の実態というものに於いて何かが解決したわけではない。私の欠陥は相変わらず欠陥であり続け、この社会で勝者になる日は来ないであろう。
変わったことと言えば、そこで「まあでも、」と考えるようになったことである。
まあでも、みんな何かしら欠陥品だよね。まあでも、勝者が必ず幸せでもないよね。まあでも、私の存在なんてそもそも世界にとってはどうでもいいよね。
死ななくてはいけないとか思い悩むほど私の存在は誰にとっても重要ではなく、発狂しなければならないほど私が特別に欠陥品なわけでもなく、破滅できるほど思い切って自分を投げ捨てられる覚悟もない。私にあるのは人ひとり分のちっぽけな意地だけである。つまり人間であるということが私に授けてくれた尊厳、それだけである。
まあでも、人間そんなもんじゃね。
しかしそこで終わっては、死ぬ理由はなくなったが生きる理由もないままである。生きる理由がなければ「どちらかというと死ぬほうがいいか」という緩やかな破滅の道にふらふら踏み出すことになり、それはちょっと嫌だ。死ぬよりひどい世界が待っている。
自分の生きる理由は何かと言えば、好ましく感じるものを、もうちょっとだけ見ていたいということだ。まだ知らないものがあるのに、こんなもんしか見たことないままで終わるのはもったいない、という気持ちである。
もうちょっと見ていたいので生きることにするとして、生きるからには自己像に納得したくなってくる。(ここは必然的にそうなるわけではなさそうだし飛躍があります)
そもそも自己像に納得できないから己の全てが恥となり「恥の多い生涯」になっているのだが、それは変えられもしない自己像を拒否するからというのが主原因と感じている。そうでなければ己の人生の失敗を「恥の多い」とは捉えないであろう。
自己というものは、精神を向上させある程度軌道修正していくことは可能だが、本質は変わらない。本質とは、趣味嗜好や「つい」で発動する言動・思考である。後天的に学習したことで身についたものは弛まぬ努力によってリセットし得るが、生まれ持ったものはどうにもならないであろう。直そうとすればするほど自分自身に反撃されるだけである。
自己像は常に自身に誤解され、他者の攻撃に晒されている。まず自己像の成分が自分自身には容易にわからない。どこまでが先天成分なのか? どこからが学習能力の産物なのか? 認識できているもので全てなのか? 他の人と当然に同じだと思っている成分は本当に同一か?
自身で自己像を認識することには、必然的に限界がある。それを超えられるほどのメタ認知能力は凡人には与えられていないだろうし、そこに至るとはすなわち「悟り」に達するということであって、努力すれば必ず届くというものでもない。よって自分以外の何かの力を借りなければならない。
それは何であるかと言えば、要するに他者のパターンである。具体的な人物像を大量に観察してもよいだろうし、そこから的確に成分を抽出して分析してくれている心理学に頼るのはより確実な手だろうし、自己像の解像度が上がってきたら自分と近そうな人間を選択してその人の著述を読んでいくのが手っ取り早い。その工程で当然に「人間」全体を知ることになるだろう。
しかしながら自身が不完全である以上、情報の取捨選択も価値判断も確実性は保証し得ない。つまり、自分と同じだと思った要素が違っているかもしれないし、自分とは違うと思った要素が同じであるかもしれない。その判断ミスはなるべく少なくしたいが、なくす手立てはない。照らすべき自己を正確に捉えられていないのだから、それと何かを比較したときの結果も不確かにならざるを得ない。
判断ミスをなくす手立てはないと言ったが、少なくしていくには方法がある。ひとつは、前を歩んでいる先人の助言に従うことである。「従う」が嫌なら「参考にする」でも「盗む」でもなんでもいいが、要は先をゆく人の持つ自分より精度の高い判断基準を借りるということだ。
といってもその時点で自分が理解できる範囲の精度しか扱えないわけだから、借りてくる基準が如何に精密であっても、常に「今の自分よりちょっと細かい」という程度にしか自分には扱えない。よって延々と繰り返し借り直すことによって先人の精度に近づいていくわけだが、それには絶対的に時間がかかる。ショートカットの魔法はない。
自分の精度が上がると同時に、それよりぼやけた認識で物を見ていた過去の自分が恥ずかしくなるかもしれない。ただでさえ自己像に対する拒否感で強い恥を感じているにもかかわらず、自分がより良い方向に向上していってさえ、過去を振り返ってまた恥を覚えるのである。恥はどこまでも追いかけてくる。何しろ自分が停滞しない限り、後ろにあるのは必然的に恥なのだ。
向上を誇りに思うにしても、過去の己の言動に頭を抱える事態は避けがたい。呑気に「成長したんだからいいじゃないか!」と笑ってはいられない。そこで笑えないような人間だから、己の人生を「恥の多い生涯」と思うのであろう。
前に進むことが過去を恥にしていくものであるとき、これからも前に進むことが前提ならば、まさに今生きている自分もいずれ恥になるのは確実である。これがなかなかに辛い。過去を振り返って「昔の自分は恥ずかしいやつだ」と思うということは、その当時の自分は他の人間からも「恥ずかしいやつだ」と思われていた可能性が現実的にあることを意味している。
よって、まさに今生きている自分が未来の自分から「恥ずかしいやつだ」と思われるとすれば、今この瞬間に、自分のことを「恥ずかしいやつだ」と思って見ている誰かがいるかもしれない。指を指して嘲るようなことはなくとも(そういう行為はそれ自体が恥である)、「ああっ、昔の自分を見ているようで苦しい、痛々しい」と感じて悶えている人がいるかもしれないのである。
それを想像し始めてしまうと、いよいよ自分の日々が息苦しくなってくる。何かを外に向けて語るのが恐ろしくなる。死にたいとは思わなくとも、人の視界に入らないように生きたくなるかもしれない。そこから抜けたくてやっていることが、リアルタイムでは更なる苦痛をもたらすのである。
自己像を理解し、自分で納得できる自己像を整えていく、その過程があまりにも辛く苦しい。自分が未熟である限りその苦悶は続いていく。そんな状態では、自分で自分の人生を許容するのは困難とも思える。どこかでは、その苦悶を弾き返すべく開き直りを決め込まなくてはならないだろう。
私の開き直りは、「死ぬ瞬間に納得できていたらそれでいい」というものだ。
何十年と生きようともなお恥の拭えぬ未熟さに苦しんでいるかもしれないが、死ぬまでに自分を受け容れられればそれでいい。辛くなってきたら「まあ、死ぬまでにまともになってりゃいいでしょ」と開き直る。そのように「言い聞かせる」のは容易でないが、私は本当にそのように思っているので、そう呟くときは「言い聞かせている」のではなく「思い出させている」のである。
文脈が全く異なるので軽々しく「インスピレーションを得た」と言うのは憚られるが、「死ぬ瞬間に」という考えはヴィクトール・フランクルの『夜と霧』で感じたことにも支えられている。
元々、例えばわがまま放題とかひねくれ者とか偏見まみれとか、そういう「人格的に恥ずかしい存在のまま死んでいった人間」に対して言いようのない悲しみを抱いていた(そこに「人格的に恥ずかしい」という評価を下すことの傲慢さがあることを認識はしている)。尊厳を奪われて死ぬのはもちろん最大の悲劇だが、他者に尊厳を奪われたわけでもないのに、怠惰にもたれかかり自分で自分を貶めたまま人生を終えるのはまた別種の悲劇に思える。
しかし、もし最後の一日に全てを悟ることができたとしたらどうだろうか。周囲に対してもたらした不快感はもはや打ち消すことはできないし、他者から見て「あいつは最後まで最低のやつだった」という評価が覆ることはないだろうが、そういったことも含めて全てを見渡すことができたならば。苦しみと同時に、「ああ、わかってよかった」としみじみと感じ入るのではないだろうか。
もしそれが最後の一日ではなく、もう少し前に辿り着けたとすれば、苦しみに悶えた先にある晴れやかに澄んだ境地を十分に味わうことができるかもしれない。それが今の自分の思う唯一の希望である。
そして、元より恥ずかしい存在は自分だけではない。自分を恥じているときは、恰も自分だけがおかしくて、正常であるはずの他の圧倒的多数の人間の中で生きていけないような気持ちになる。しかし実際には、そこにある差は「自分を恥ずかしいと感じているか」というだけである。それどころか、他の人間も恥じて死んでしまいたいと思いながらニコニコして生きているだけで、差などそもそもないかもしれない。どこも恥ずべきところがない人間など、仮にいたとしても人生でひとりふたり出会えるかというほど僅かなのである。
私には何ら特別なものはない。「特別」というとプラス面ばかりに注目してしまうとなれば「唯一」「ひとりだけ」と言い換えればよいが、あらゆる方向に於いて「私だけ」というものはない。
私だけが優れている点もなければ、私だけが人間として劣っているのでもない。自分という存在を殊更嘆くほど、私に唯一性はないのである。自分をゴミのように思うのは、自分を全知全能の神と思うくらいに滑稽なことだ。自分が特別ではないということは、自分はゴミのようであるということではなく、自分はただの人ひとり分の人間であるということのはずである。
今の時代は――あるいは人間に社会ができてから全ての期間で――人々は特別であることを目指しすぎている。特別に優れていないのならば、特別に劣ったことにしてしまいたがる。自己認識もそうだし、他者への評価もそうだ。偉業の中に少しのしょうもなさが混じっていれば、それがどうしてか「偉業と引き換えの致命的な欠陥」であるかのように大袈裟に語られることもある。天才は人の心がわからないなどと言う人もいるが、じゃあ天才でない人のうち人の心がわかっている人はどれだけいるのだろうか。少なくとも、「天才は人の心がわからない」などど放言する人間には人の心はわからないであろう。
私もずっと特別さを意識し過ぎていた。だから「恥の多い生涯」の隣に、死や破滅や発狂が迫っていた。誰しも恥は多いが、本当に死や破滅や発狂に結びつくほどの恥というのはさすがに滅多にあることではない。しかしながら「そんなものはない」と言えるほど人間社会は甘くはないので、実際にそうならざるを得ない屈辱は存在し、その重さを蔑ろにしてよいわけはない。ただ、そうではないものを、そうであるかのように自分の中で無闇に肥大させてしまうのは、自分の人生を傷つけるばかりである。
私は人ひとり分の存在に過ぎない。
一方で、人ひとり分の存在を理解するというのは途方に暮れるほど難しい。たかが人ひとり分の自己を見誤るから、心の内から苦しみが消えない。
理解しようとすればするほど、理解が進めば進むほど、自身が如何に荒削りかを思い知らされる。立派に仕上げられた作品であるかのように口を利いている己を恥ずかしく思うことになる。
しかし、ちょっと削っては「今度こそ良い感じではなかろうか」と思って披露し、そして「まだ荒かった」と恥じることを繰り返すことでしか、自分を磨いていくことはきっと叶わない。
それは恐らく死の間際まで続いていく。百まで生きてもそれは変わらないだろう。解像度が上がる余地のある限り恥は続き、一介の人間ごときには万物を見通せる日など来ない。
しかしながら、物を解る日が来ることを信じて歩んだ先で後ろを振り返ったとき、そこが頂上ではなくとも、「ああ、ここまで来たのだなあ」と思えたのなら、その人生はきっとそれで良かったのである。